みなさん さようなら
2018.01.08 06:00|「周作閑話」|

1998年(H10) 月間「NewTRUCK」 1月号 周作閑話
お伊勢まいり
3、4歳の時であったと思う。朝、目が覚めると父が外から帰ってきて、ミヤゲの御幣の形をした生姜板を小さく割りながら食べた記憶がある。その頃は大阪に住んでいたので、お伊勢さんに初詣をした父が夜行の電車で帰ってきたところだったのだろう。
昭和4年(1929)10月に第58回の式年遷宮が行われているので、その翌年の初詣に出かけたとすると、私は3歳だった。
初めて伊勢参宮をしたのは31歳の時で、11月27日の今回は9度目になる。
伊勢へ七たび 熊野へ三たび
お多賀さまへは月参り
3度目の参宮の時、戦後最大の被害をもたらした昭和34年の伊勢湾台風の後の、神宮の森は惨憺(さんたん)たるものだった。杉の巨木の倒壊は数知れなかったが、不思議なことに、それらは正殿を避けて四方に向けて倒れたために正殿には何の被害もなかったという。
第6度目の時には、近鉄の宇治山田駅で、吉田茂元首相を間近にする機会があった。伊勢には皇學館大学があり、吉田元首相はその学長をしていて、卒業式に臨席のため伊勢を訪れたものらしく、伊勢参宮の思い出のひとつである。
今度の参宮は、余りにも惨めな現在の日本の諸相に愛想を尽かしたというわけではないが、やはりこういう時には、日本の原点ともいうべき伊勢神宮に心静かにお参りしてみたいという願いからである。
神宮は全く変わっていなかった。台風後すでに40年近くたって、樹々も鬱蒼とした茂みを見せて元の姿に戻りつつある。
変わらないことが、神宮の最大の特徴なのである。われわれの住む町は、10年もすると大きく変貌する。私は大阪を離れて30年近くなるが、迷子になる程、すっかり変わってしまった。故郷の町や村もそうである。
1ヵ月程前、45年ぶりに故郷近くの足摺岬を訪れた。前に来たときには全く見かけなかった近代的なホテルがいくつも建っていた。88ヵ所遍路の時にお詣りした38番札所の足摺山金剛福寺も、本堂は新しくなり、それ迄にはなかった三重塔が建って、昔の面影を留めているのは古びた大師堂だけ。最近は観光バスでお詣りする団体が多いものだから、札所の寺の収入も良くなっているのだろう。
神宮は変わっていないが、しかし、20年ごとにすっかり生まれ変わっている。これを「式年遷宮」というのだが、皇大神宮つまり内宮と、豊受大神宮の外宮だけではなくて、約20社ある別宮と摂社すべてが造り替えられるのである。
単に経済的理由だけでいうなら、これ程の無駄はない。現在の社寺によく見られるコンクリート造りは論外としても、柱を直接地中に建てる方式をやめて礎石を置き、屋根も銅葺きにすれば、百年も二百年も、あるいはそれ以上も維持できるに違いない。補修を重ねていけば法隆寺のように千年以上も保持は可能だろう。
しかし、神宮はそれらの方法をとらずに、かたくなに古代そのままの建築方式を守って2千年近くの間、形を変えないで、常に新しくあり続けてきた。
皇室の祖神天照大神を祀る内宮と産業の神豊受大神を祀る外宮であるだけに、皇室の尊崇が篤く、その維持のため大変な努力をされてきた。武家政治の世になっても鎌倉、徳川の両幕府はその維持に努めた。皇室も式微(しきび)、足利幕府の威令も行われなくなった室町から戦国時代にかけては約130年間も式年遷宮が行われなかった時期がある。
この神宮にとっての暗黒時代の打破に身を捧げたのは神宮に所属する尼院慶光院の二人の女性、清順尼と周養尼で、彼女達の熱心な勧進に、神仏を否定して比叡山を焼き討ちした織田信長さえも、大枚の金子を寄進している。豊臣秀吉も大金を寄せているが、信長、秀吉ともに短期政権であり、恒久的な維持方法を確立したのは徳川時代であった。
明治以降、皇室によって維持されて造営費用は国費から出ていたが、昭和20年の敗戦による政教分離の進駐軍命令で国費の支出は認められなくなった。私の父がお詣りした昭和4年の式年遷宮の次は24年の筈だったが、敗戦後の事情もあり、4年間の遅延の後に昭和28年、式年遷宮が実現した。
そのあと昭和48年、平成5年と国民の基金による式年遷宮が実施され、平成5年、闇の中でのその模様は好感度フィルムで撮影され、テレビに初登場した。
世界には神宮より年代的に古い宗教的移籍はいくらでもある。
しかし、それはあく迄も遺跡であり魂の抜けた宗教施設の石の残骸でしかない。ギリシアのパルテノン神殿でお祈りする観光客は誰もいない。
ローマのヴァチカン宮殿はたしかに壮麗ではあるが、ミケランジェロも参画した大聖堂の完成は4百年程前である。
中国曲譜にある孔子廟の建物も明から清時代、三~四百年ほど前に建てられたもので、孔子の時代とは全くスタイルの違う宮殿方式になっている。
釈迦を生んだインドにあるのは仏教遺跡で、庶民の信仰はヒンズー教または回教である。
神宮のうちの内宮が伊勢の現在地に鎮座したのは紀元三百年前後と推定されており、すでに千七百年もの間、同じ場所に同じ様式で建てられてきた。このような例は神宮以外には世界のどこにも全く見ることはできない。
古く、変わらず、常に新しいのが神宮である。
私は神宮の建物に力強さと明るさを感じるのだが、ドイツ人ブルーノ・タウトは次のように言っている。
「伊勢神宮は、独創的な真の日本だ。日本固有の文化の精髄であり、世界的観点からみても、古典的天才的な創造だ」
イギリスの歴史学者アーノルド・トインビー博士は、2回目に神宮を訪れた時、
「この聖地において、私は、あらゆる宗教の根底的な統一性を感得する」と書いた。
現代の建築家丹下健三氏は、
「これほどに長い歴史に耐えてきた正確なフォームがまたとあるだろうか。(中略」日本建築のその後の展開は、すべて伊勢に発しているといってもよいだろう。素材の自然なあつかい、形態比例の感性、空間秩序の感覚、とくに建築と自然との融合などの、日本建築の伝統は、すべてここに起点を持っている。(中略)伊勢のフォームを創造した古代人のたくましい構想力の背後には、日本民族のエネルギーがそれを支えていた。この伊勢のフォームには日本民族の原質が含まれている。
と、同氏の著書『伊勢―日本建築の原型』に述べている。
20年ごとの遷宮は、古来の建築、染織、工芸、祭祀の伝承という点でも大きな意味を持つ。これが、五十年あるいは百年ともなればその伝承は極めて困難になる。同じ人が、一生に少なくとも2回は遷宮による造替を体験できるはずであり、そこに滞りはない。技術の伝承だけでなく、“心”の伝承もあるだろう。
用材の確保も息の長い仕事で、常に将来を見越して植林をしておかなければならない。
人と技術の永遠のつながりによって伊勢神宮は守り続けられてきたといえよう。
現在は消えたが、戦前には『神嘗祭(かんなめさい』という祭日があった。その年の新しい米をご祭神にお供えする神宮にとって最も重要なお祭りで、五穀豊穣を感謝するこの祭日こそ復活してほしいものである。
「勤労感謝の日」という、わけのわからぬ祝日は天皇が神と共に新穀を召し上がる「新嘗祭(にいなめさい)」の名残だが、もう国民にはその意義はわからない。
変わらないことが、神宮の最大の特徴なのである。われわれの住む町は、10年もすると大きく変貌する。私は大阪を離れて30年近くなるが、迷子になる程、すっかり変わってしまった。故郷の町や村もそうである。
1ヵ月程前、45年ぶりに故郷近くの足摺岬を訪れた。前に来たときには全く見かけなかった近代的なホテルがいくつも建っていた。88ヵ所遍路の時にお詣りした38番札所の足摺山金剛福寺も、本堂は新しくなり、それ迄にはなかった三重塔が建って、昔の面影を留めているのは古びた大師堂だけ。最近は観光バスでお詣りする団体が多いものだから、札所の寺の収入も良くなっているのだろう。
神宮は変わっていないが、しかし、20年ごとにすっかり生まれ変わっている。これを「式年遷宮」というのだが、皇大神宮つまり内宮と、豊受大神宮の外宮だけではなくて、約20社ある別宮と摂社すべてが造り替えられるのである。
単に経済的理由だけでいうなら、これ程の無駄はない。現在の社寺によく見られるコンクリート造りは論外としても、柱を直接地中に建てる方式をやめて礎石を置き、屋根も銅葺きにすれば、百年も二百年も、あるいはそれ以上も維持できるに違いない。補修を重ねていけば法隆寺のように千年以上も保持は可能だろう。
しかし、神宮はそれらの方法をとらずに、かたくなに古代そのままの建築方式を守って2千年近くの間、形を変えないで、常に新しくあり続けてきた。
皇室の祖神天照大神を祀る内宮と産業の神豊受大神を祀る外宮であるだけに、皇室の尊崇が篤く、その維持のため大変な努力をされてきた。武家政治の世になっても鎌倉、徳川の両幕府はその維持に努めた。皇室も式微(しきび)、足利幕府の威令も行われなくなった室町から戦国時代にかけては約130年間も式年遷宮が行われなかった時期がある。
この神宮にとっての暗黒時代の打破に身を捧げたのは神宮に所属する尼院慶光院の二人の女性、清順尼と周養尼で、彼女達の熱心な勧進に、神仏を否定して比叡山を焼き討ちした織田信長さえも、大枚の金子を寄進している。豊臣秀吉も大金を寄せているが、信長、秀吉ともに短期政権であり、恒久的な維持方法を確立したのは徳川時代であった。
明治以降、皇室によって維持されて造営費用は国費から出ていたが、昭和20年の敗戦による政教分離の進駐軍命令で国費の支出は認められなくなった。私の父がお詣りした昭和4年の式年遷宮の次は24年の筈だったが、敗戦後の事情もあり、4年間の遅延の後に昭和28年、式年遷宮が実現した。
そのあと昭和48年、平成5年と国民の基金による式年遷宮が実施され、平成5年、闇の中でのその模様は好感度フィルムで撮影され、テレビに初登場した。
世界には神宮より年代的に古い宗教的移籍はいくらでもある。
しかし、それはあく迄も遺跡であり魂の抜けた宗教施設の石の残骸でしかない。ギリシアのパルテノン神殿でお祈りする観光客は誰もいない。
ローマのヴァチカン宮殿はたしかに壮麗ではあるが、ミケランジェロも参画した大聖堂の完成は4百年程前である。
中国曲譜にある孔子廟の建物も明から清時代、三~四百年ほど前に建てられたもので、孔子の時代とは全くスタイルの違う宮殿方式になっている。
釈迦を生んだインドにあるのは仏教遺跡で、庶民の信仰はヒンズー教または回教である。
神宮のうちの内宮が伊勢の現在地に鎮座したのは紀元三百年前後と推定されており、すでに千七百年もの間、同じ場所に同じ様式で建てられてきた。このような例は神宮以外には世界のどこにも全く見ることはできない。
古く、変わらず、常に新しいのが神宮である。
私は神宮の建物に力強さと明るさを感じるのだが、ドイツ人ブルーノ・タウトは次のように言っている。
「伊勢神宮は、独創的な真の日本だ。日本固有の文化の精髄であり、世界的観点からみても、古典的天才的な創造だ」
イギリスの歴史学者アーノルド・トインビー博士は、2回目に神宮を訪れた時、
「この聖地において、私は、あらゆる宗教の根底的な統一性を感得する」と書いた。
現代の建築家丹下健三氏は、
「これほどに長い歴史に耐えてきた正確なフォームがまたとあるだろうか。(中略」日本建築のその後の展開は、すべて伊勢に発しているといってもよいだろう。素材の自然なあつかい、形態比例の感性、空間秩序の感覚、とくに建築と自然との融合などの、日本建築の伝統は、すべてここに起点を持っている。(中略)伊勢のフォームを創造した古代人のたくましい構想力の背後には、日本民族のエネルギーがそれを支えていた。この伊勢のフォームには日本民族の原質が含まれている。
と、同氏の著書『伊勢―日本建築の原型』に述べている。
20年ごとの遷宮は、古来の建築、染織、工芸、祭祀の伝承という点でも大きな意味を持つ。これが、五十年あるいは百年ともなればその伝承は極めて困難になる。同じ人が、一生に少なくとも2回は遷宮による造替を体験できるはずであり、そこに滞りはない。技術の伝承だけでなく、“心”の伝承もあるだろう。
用材の確保も息の長い仕事で、常に将来を見越して植林をしておかなければならない。
人と技術の永遠のつながりによって伊勢神宮は守り続けられてきたといえよう。
現在は消えたが、戦前には『神嘗祭(かんなめさい』という祭日があった。その年の新しい米をご祭神にお供えする神宮にとって最も重要なお祭りで、五穀豊穣を感謝するこの祭日こそ復活してほしいものである。
「勤労感謝の日」という、わけのわからぬ祝日は天皇が神と共に新穀を召し上がる「新嘗祭(にいなめさい)」の名残だが、もう国民にはその意義はわからない。
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