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みなさん さようなら

2007年12546
船客を退屈させないように各種のイベントがある

2007年1月10日
日本では最大、世界レベルでは中型の小 「飛鳥Ⅱ」(硫黄島・サイパンへ②)

 「飛鳥Ⅱ」の航海でも珍しいといわれる大時化も、出航翌日の27日午後になると少し落ち着いてきたので、船内を歩いてみた。船の大きさからいえば、15万トンクラスの客船も登場している現在、5万トンを少し出ただけの「飛鳥Ⅱ」は、日本では最大であっても世界レベルからみれば中型の小さい方に属する。昨年乗船した2万余トンの「にっぽん丸」ともう1隻の「ぱしふぃっくびーなす」は小型で、世界は10万トンクラスに移っている。

 今回のサイパングアム・クルーズは、年末年始利用であっただけに、若者の家族連れも混じっていたが、大多数は高齢者で、杖をついたり車椅子利用者も含まれていた。
 9泊10日の旅程中、上陸したのはサイパンとグアムがそれぞれ1日だけ、後はすべて航海日なので、退屈する暇もないように各種のイベントや文化教室が目白押しに組まれている。私は書道教室だけに参加して書初めもした。航海のほとんどの時間は、持ち込んだ硫黄島関連の何冊かと太平洋戦争の戦史を読破に費やしたが、この収穫は大きかった。

125452007年


2007年1月11日
硫黄島に殺到した大量の海兵隊と艦艇(硫黄島・サイパンへ③)

 硫黄島は、日米にわたる出版と映画の分野で一種のブームになっているようだ。太平洋戦争末期、アメリカの物量作戦で一方的に押し捲られて、かつて日本が占領した太平洋の島々の日本軍は敗退、玉砕を繰り返した後、生命線のサイパンの守備隊も玉砕、民間人の多くも自決した。サイパンが陥落したことで、サイパンを飛び立った「空の要塞」長距離爆撃機B29は、日本を爆撃して島に戻ることが可能になった。B29を迎撃できる航空戦力はもはや日本には残されていなくて、都市は焦土作戦に曝されることになった。

 開戦から日本を指導してきた東条英機首相は退陣を迫られ、日本は一気に守勢から敗戦への歩みを辿る。サイパンと日本の中間にある硫黄島は、れっきとした日本の領土東京都の一部であり、日本を爆撃して被弾したり燃料不足などでサイパンへの帰島が不可能になったB29の不時着基地として、あるいは中小型機の日本襲撃基地としてアメリカ側にとって、重要な拠点になる。さらに、日本の領土に最初に星条旗を立てるというアピール効果が期待されたのも当然で、栗林忠道中将指揮下の日本軍約2万1千に対して、米軍は海兵隊約7万5千、他に海軍約4万、艦艇約600隻を動員して上陸作戦を展開した。


126292007年
神々が降した慰霊の光か 摺鉢山のシルエット

2007年1月12日
荘厳 神々慰霊の硫黄島摺鉢山の夕陽(硫黄島・サイパンへ④)

 大時化でスピードを大幅に落すことを余儀なくされた「飛鳥Ⅱ」は、波が収まるとフルスピードで進んだ。まだ陽のあるうちに硫黄島を船客に見せたいという船長の有り難い配慮である。12月28日午後3時過ぎ、硫黄島北方に接近した。先ず見えてきたのは平坦な島の姿で、摺鉢山は見えない。船が南に進むに連れて、平坦な島の上に幾つかの白い建造物が見えてきた。現在、島を管理しているのは自衛隊で、その関連の建物である。こんな平坦な小さな島で、10万もの日米将兵が死闘を繰り広げたとは信じられない風景である。

 空を覆っていた黒い雲が一瞬切れた。サーッと日没前の陽が差して、島の南端の摺鉢山のシルエットを浮かび上がらせた。神々が、硫黄島の日米双方の戦死者を弔うために降した光である、私はそう感じた。この摺鉢山の麓のアメリカ側命名のグリーンビーチに抵抗を受けずに上陸した米海兵隊は、待ち構えていた日本軍の猛攻撃に遭って566人が戦死、1755人が負傷した。1日のこの大量の犠牲者は長期にわたったガダルカナル島戦闘戦死傷者の半数以上に当たるとして、米軍を震え上がらせた。栗林中将は伝統の水際戦闘作戦を取らず、先ず敵を上陸安心させておいて、無防備のところを叩いたのである。
(一週遅れの論語月例講座を本日6時半から開講。硫黄島・サイパンクルーズの写真映写も行います。)
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プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学処分。
15歳で安岡正篤先生門下に入る。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。
 みなさん さようなら  11月13日 】
絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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