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みなさん さようなら

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2007年1月15日
献花するインパール戦死者の子息(硫黄島サイパンへ⑥)

 硫黄島の上空を覆っていた暗雲の中から一条の陽光が差して、海面は金色に輝き摺鉢山は黒いシルエットに見えたのも一瞬で、空はやや明るくなり、薄暮の状態になった。

 「飛鳥Ⅱ」の甲板には多くの船客が出て、或いは瞑目、数珠を出して祈る、涙をじっとこらえているなど、様々な形で慰霊の気持ちを表していた。奥さんの持っていた花束をご主人が受け取って、摺鉢山に向けて投げかけようとした人がいた。

 “ちょっと待って下さい!” と声をかけて慌ててカメラを構え、撮ったのが掲載した写真である。
 中央に摺鉢山が収まって、再度撮りなおしのきかないこの写真は、船内のカメラショップで現像して差し上げて感謝された。この方、S氏は熊本県球磨地方で薬局清風チェーンを手広く展開しており、父君をインド方面のインパール作戦で失った。米軍を迎え撃って凄惨な戦いを展開、大きな損害を与えた硫黄島と違って、インパール作戦は戦略が完全に誤っていて、犠牲者も餓死者戦病死者が相次ぎ、作戦そのものを中止することになった。

 わざわざ日本から持参した花束を硫黄島摺鉢山に向けて捧げるS氏は、父君の無念さを、せめて敵軍に大打撃を与えた硫黄島戦死者を弔うことで果たしたかったのであろうか。

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硫黄島摺鉢山に向けて献花するS氏

2007年1月16日
有名な星条旗写真は2度目のもの(硫黄島サイパンへ⑦)

 摺鉢山を後ろに飛鳥Ⅱは硫黄島から遠ざかって行き、船室に戻って読書を続ける。
 『硫黄島の星条旗』(文春文庫)は、あの有名な摺鉢山に星条旗を立てた6人の兵士の1人、厳密には看護兵ジョン・H・ブラッドリーの息子ジェイムズ・ブラッドリーがロン・パワーズの協力を得て書き上げたドキュメントリーで、船中で読んだ硫黄島関係の図書では分量も最大で一番読み応えがあった。日本側から見た硫黄島の戦闘についての情報は極めて少なく、栗林中将が大本営宛に発信した電報、少数の生き残り者の戦後の証言などに限られる。

 これに対して、アメリカ側は多数の従軍記者やカメラマンを伴っており、あの星条旗を立てるシーンにしても第1回と第2回では、撮影したカメラマンと旗を立てる兵士も別々で、星条旗そのものも違っていた。

 『硫黄島の星条旗』には、最初に撮影された写真が掲載されているが、それは有名になったあの密度の高い写真に比べて散漫とした印象を与える。「日本の領土、摺鉢山に星条旗を立てた」その決定的瞬間はむしろ厳粛な雰囲気に包まれていたのではないだろうか。星条旗も小さかった。
 数時間後、別の隊によってさらに大きな星条旗とポールが用意され、「キチンと決まった」写真が撮影されたのである。

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摺鉢山を背に硫黄島から遠ざかって「飛鳥Ⅱ」は南に進む

2007.年1月17日
写真からヒーローに躍り出た兵士たち(硫黄島サイパンへ⑧)

 硫黄島摺鉢山に掲げられた星条旗の写真は、時間も旗もそれを立てる兵士も違った写真が、複数のカメラマンによって何枚も撮影された。それが、アメリカ本土に送られた時、どれが最初に摺鉢山に上がった星条旗かについては問題でなく、どの写真がアメリカ国民に硫黄島で戦っている勇士を印象させ、国民の戦意高揚に役立つか、アピール度はどれが高いかが選定の基準になったのは当然であろう。そして、選ばれたあの写真はデカデカとアメリカのマスコミに踊ることになった。最初か2番目かについてはもはや関係がなく戦争写真作品として、どれが優れているかが問われたのである。

 写真が有名になると同時に、写真に写っている兵士をヒーロー化する動きも始まった。
 星条旗を立てた6人の兵士のうち、3人はその後戦死して、残りの1人は負傷、2人が自分の足で故国の土を踏むことができた。生還した3人は、軍隊に入るまでの生活と一変した硫黄島の勇士ヒーローとして、各種の会合に引き出され、マスコミの寵児となっていく。原住民出身の1人はアル中になり、負傷した1人は妻の方が有名人病にとりつかれて夫婦仲もおかしくなる。例外は看護兵の『硫黄島の星条旗』著者の父親だけだった。

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硫黄島を通過した翌日洋上には大きな虹が現れた



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プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学処分。
15歳で安岡正篤先生門下に入る。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。
 みなさん さようなら  11月13日 】
絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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