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みなさん さようなら

2018.02.19 03:59|その他月刊誌記事
1995年(H7) 月刊「NewTRUCK」 3月号

進取果断と強運のトラック王
西濃記念館に田口利八の足跡を追う

木曽路での幼少年体験

 “路線のご三家”といえば田口利八、大橋實次、渋谷昇を指すらしく、このうち田口と大橋は前後して全ト協の会長を務めたが、“路線トラック王”と呼ばれたのは田口のみ。しかも田口は優秀な後継ぎを育成して、父子二代の全ト協会長という記録を樹立した。こうして見ると、田口利八こそ、トラック会の第一人者、王者とみるのに依存はないだろう。
 このうち最も後の平成6年に没した渋谷についてはその最晩年に、じっくり話を聞くことができたが、田口、大橋については、パーティの席で顔を合わせたに過ぎない。

 田口は昭和57年、大橋は62年の死去だから、チャンスはないわけではなかったが、渋谷について波瀾万丈の一代記をじかに聞くことができただけに、田口、大橋にその機会がなかったのが残念でならない。
 しかし本号108ページの記事にあるように、田口の長男、利夫全ト協会長とのインタビューの中でかなり克明にその人間像を聞くことができた。
(以下、故人はすべて敬称略とし、田口利八は単に田口、その他の血縁は名で呼ぶことにする。)

 一度だけ田口を見たのは、京都の車体メーカー相互車輌社長(当時)の中川武治が勲三等旭日章を受章したお祝いの席上であった。京都の実力者であった中川だけに出席者には知名人が多かった。中でも主賓は大谷光照西本願寺法主、前尾繁三郎元衆議院議長、そして田口の3人だった。大きな身体の上の入道のような顔は今も強く印象に残っている。

 田口は明治40年(1907)に、長野県西筑摩郡読書(よみがき)村十二兼(じゅうにかね)で生まれた。存命であれば88歳、米寿に当たる。現在は南木曾(なぎそ)町になっていて、JRの駅に十二兼がある。

 「木曽路はすべて山の中である」と書き出したのは島崎藤村の『夜明け前』で、十二兼はその木曽路の小さな集落。木曽川の両岸には険しい山が迫り、旧中山道、国道十九号線、JR中央本線がもつれるように崖っぷちを走っている。もう15年も前、私は中山道を一人歩きしたことがあり、まさに夜明け前の風景だと感嘆した。十二課から少し西へ行くと妻籠(つまご)、そして藤村の故郷であり、夜明け前の舞台の馬籠(まごめ)を過ぎると木曽路は終わって、ひろびろとした美濃に入る。藤村は、西の風が入ってくる、と表現した。

 江戸時代の中山道は東海道が第一国道であるとすれば、第二国道の役割を果たしていた。活発な人と貨物の動きは『夜明け前』に生き生きと描かれているし、奈良井などの宿場でその面影を偲ぶこともできる。
 明治以降、東西の幹線は東海道が主役になり、中山道は取り残された存在になった。しかし、関西、中京から信州や日本海側に至る重要なルートであることに変わりはなく、膨大な面積を持つ木曽御料林と相まって、中山道筋は活発な物資輸送が存在した。

 父儀一、母さくの長男が利八と名付けられたのは、祖父の名が利一、生まれた時刻が午前八時、母方の祖父が八蔵といったので、それらを合わせて名付けられた。八は末広がりで縁起もいい。
 田口の生家は中級の農家で、貧しくはなかったようだが、農業だけで生計を維持することは困難で、御料林の下草刈りなどの作業に出ていたらしい。

 田口の腕白ぶりなどについては、利夫氏の語る通りだと思うが、子供の頃から見ていた中山道や御料林の物資輸送が陸運についての認識を植え付けたのではないだろうか。
 その幼少時代の陸運の認識が、兵役で満州に派遣され、戦車隊に配属になって戦車やトラックを扱うことにより、機動力の大きさに目覚めていったと私は考える。

 大三菱を興した岩崎弥太郎は陸の孤島と言われた土佐の出身であり、海運からスタートとした。岩崎、田口とも大変な事業的才能の持主であるが、同じ輸送を目指しても海と陸とに大きく分かれたのは、その出身に追うところがきわめて大きかったと私は思う。

命運を決した大垣進出
 昭和5年は、田口にとって生涯で最も重要な年になった。生涯の伴侶となるこのゑさんと結婚したこと、トラックを購入して運送を始めたことである。自動車がまだ珍しい時代で、運転手もいい収入になり、派手に遊ぶ者もあって、堅実な職業と見なされてはいなかったから、親族などの反対は当然であったが、田口は押し切り、新妻のこのゑさんも夫に従った。

 前田源吾氏(前愛知県トラック協会長)は同じ頃、トラックの運転手をしている。遊びまわって、入隊の時にはきれいどころが勢揃いで見送りに来たのはいいが、隊内で遊びのたたりの病気が発生、隠蔽するのに苦心したと語っている。トラックにしろ、タクシーの運転手にしろ、そういう人達が多かったのは事実だろう。前田氏の名誉のために言っておくと、兵隊から帰ってからはピタリと遊びを止めて現在に至っている。

 田口が1500円のフォードトラックを500円の頭金で購入して事業を始めたのは岐阜県の萩原町で、木曽路より北東、当時の国鉄高山本線の建設やダム工事で活気を呈していた。この地を選んだのは戦友の手引きによるという。
 トラックの月賦を一日も遅らせずに返済していったこと、荷主には必ず届けたことを報告したこと、信用とサービスを最重要視する田口の考えは、後のトラック王の原点となったものであろう。

 体も頑丈で働きに働いて月賦は1年足らずで返済、翌6年には1台を追加、7年の1月には長男利夫氏が誕生して、読書(よみがき)村から父や弟妹を呼び寄せた。昭和8年にはトラックの保有台数4台、創業から僅か3年での快進撃には目を見張るものがある。
 相対的にトラックが低廉になり、割賦で買い易くなった現在でも、保有台数が4~5台という事業者は結構多い。まして昭和初期の飛騨の町で4台持ちとなれば、押しも押されもせぬトラック事業者であった。

 この小成に甘んじていれば、後の西濃はなかったのだが、田口は敢然と大垣進出を決定する。
 ある程度の基盤もでき、安定した収入が得られるようになると、そこで落ち着く、あるいは己の能力の限界を知るというべきか、その小成の位置から踏み出さない。
 昭和5年の時点で、トラックを持ち、運送業を営んでいた人の殆どは小成に甘んじている間に、戦時統合の波に呑まれて、戦後の立ち直りのきっかけを掴めないままに姿を消していった。

 田口の大垣進出はそのトラック人生の大きな転回点であり、昭和8年以降、現在に至るまでの60余年間、大垣を本拠地として西濃は躍進を続ける。

田口
写真左: 田口利八名誉会長  右: 昭和7年大垣進出 左端田口氏

強運の持主、田口と渋谷の違い
 経営の神様松下幸之助は事業成功の要素として“運・鈍・根”の3つを挙げた。田口の場合を見ても、運の強さを痛感する。
 明治末年ごろから大正生まれの健康な青壮年にとって、兵役は免れることのできない義務であった。当然、この年代層に戦争の犠牲者は集中している。命を落とさないまでも、貴重な青壮年時代を兵役に取られていたことは、その間の民間での活動を停止させられることになる。

 田口は現役入隊で、通常は一等兵止まりであるのに一階級上の上等兵で除隊しているから戦局の進展につれて召集令状、いわゆる赤紙が来るのは必然だった。
 大垣進出の前年、利夫氏の誕生した昭和7年に田口は招集されて入隊したが、戦局はまだそれ程逼迫(ひっぱく)していなかったせいもあって妻帯者は間もなく除隊となった。ここで、兵役のままだったら大垣進出があったかどうか。

 日中戦争が起こった昭和12年、再び田口は招集された。7月から8月ににかけての応召の風景は私の瞼に今もあり、各村々には「名誉の戦死」の公報が続々と届いた。私の叔母の夫も7月招集、9月に戦死した。

 ここでも強運が田口を救った。後年の田口は見事な巨軀だったが、30歳の頃には既に100kgに達しており、足に靴を合わすんじゃない、靴に足を合わせろの軍隊式でも田口に着せる軍服のサイズはなく、軍医が腹をつまんで、痛いか、お前は盲腸炎じゃ、の理由で即日帰郷となった。招集した兵の体格に合う軍服が用意していないとあっては天皇陛下に申し訳ない、ということなのだろう。

 命拾いをした筈なのだが、当時としては即日帰郷は決して名誉なことではなかった。私の父は正真正銘の病気上がりだったが、夜中にこそこそと帰ってきて、数日間は全く外に出なかった。お国のために役立つことができなかったことを恥じねばならぬという雰囲気で、母も私達も大っぴらに喜ぶことなどできなかった。田口もその家族も同じ心境であったと思う。

 日中戦争から第2次大戦の敗戦までの8年間、既に大垣で確固たるトラック事業の地位を築いていた田口は、個人経営から法人組織に、さらにそれらを強制統合した西濃運輸株式会社専務取締役、実質的には社長としてお山の大将の寄り合い世帯の采配を振る。時に田口35歳。小成に甘んじたお山の大将の集団を率いた田口の苦労は察するに余りがあるが、ここでの人間的葛藤は田口を一回りも二回りも大きくしたことは想像に難くない。

 終戦直後の昭和21年、全国の運輸統合会社の先鞭をつけて解散を決め、水都産業株式会社を設立して社長に就任した。水都は水の都、大垣の別称であり、西濃トラックを経て昭和30年に西濃運輸の現社名に変更した。
 戦後の田口の快進撃ぶりについては読者もご存じなので蛇足は避けるが、大阪便、東京便の開設など、時代を1歩も2歩も先に歩んだその足跡にはただただ驚嘆の他はない。

 ここで田口から目を転じて陸運ご三家のひとり、渋谷昇に触れてみたい。
 渋谷もまた強運の持ち主だった。全身脱毛症という本人にとっては不幸な体によって徴兵は免除され、病状が回復してからは思う存分に土建業で活躍、戦中戦後にかけて、福山で確固とした基盤を築いていた。その基盤を捨てて業績不振だった統合会社福山通運の経営を引き受けたところから、渋谷のトラック人生は始まる。田口に較べて、20年近くもスタートは遅れているが、福通経営の基礎になったのは戦時中の土建業で築いた信用であり資産だった。この時期、兵役にとられていたら、後の福通はなかったかも知れない。

 田口と渋谷、強運の決定的に違う要素は、子宝に恵まれたか否かである。田口の場合、利夫、義嘉寿兄弟に恵まれ、利夫氏は労務担当として西濃近代化に大きな役割を果たしたし、全ト協会長はじめ数々の公職に就任して、大所高所から西濃グループの経営を見ることができるのは、義嘉寿社長の存在があるからである。
 渋谷は男児を幼い時に失って以来、ついに子宝に恵まれなかった。死児の想い出を語る時、渋谷は泣いたが、幼児から俺の後を取れと厳しく育成する子に恵まれた田口と何という違いであろう。その違いは西濃と福通の違いでもあるように私には思える。

巨人の足跡を示す記念館

 建物は何の変哲もない簡素なものだったが、記念館を前に見た第一印象は寺の本堂とその前庭、であった。
 揖斐川に見たてた池の流れを渡り、記念館に至る玉砂利の道には箒目が入っていて踏みにじるのが勿体ない。一瞬躊躇していたら、戸高省副館長が、どうぞどうぞとご案内くださる。玄関入口の前に養老の滝があり、この庭園そのものが美濃の山河を圧縮した風景なのである。
 利夫氏との対談にもあったが、この米蔵を改造した建物は昭和22年当時の本社事務所であり、館内には田口の遺品、遺墨を中心に西濃の歩みを物語る資料を展示している。

 興味深かったのは毎正月に書いた字で、75歳の没年に至るまで20枚ほど並んでいる。上手とは言えないが雄渾な筆致に全くの変化はなく、およそ枯淡の味には程遠い。最期まで気力体力共に充実していたのであろう。変化といえば利八の「八」の字、途中から右下の押さえがピンとはね上がっているくらい。
 落款の氏名印の下に押しているのは『八洲』。利八から付けたものであろうが、実に気宇壮大である。

 写真の中に品のいい老人があったので利夫氏に聞くと、祖父儀一。田口には父に当たる人で、佛の儀一とも呼ばれた徳人であったらしい。『田口利八追悼集』には、儀一が無尽講の保証で百円を弁済しなければならなくなって、母さくが奔走して返済した、という話の他、しっかり者の母と田口というパターンが定着している。田口もまた、出征中にまだ40歳を出たばかりの母を失ったこともあって、終生、その母を追慕したようである。

 対談の中で利夫氏が、こうして皆さんから可愛がって頂けるのは儀一の徳を受けたからで、今度は私が徳を遺さねば、と語ったのを聞いたとき、ああこの人はわかっている、と感銘を受けた。

 もう20年余りも前、歴史の最も古くて大きな車体メーカーの3代目社長が、私には力があるから社長になっている、と対談中に高言したことがあった。それはいけない、と40歳前後の社長に言ったが聞く耳は持たぬといった風情で、社長とも疎遠になった。第1次オイルショックで70年を越す歴史のあるその会社が倒産したのは僅か数年後であった。

 わが師安岡正篤先生は、出世できずとも、金ができずともくよくよすることはない、俺は十分にそれができる能力があったが、子孫のためにそれを遺しておくのだと思えばいい、とよく言っていた。私の前半生は惨めなものだったが、自暴自棄にならずに、どうにかここまでこられたのは、この教えがあり、父祖の陰徳を受けたからだと感謝している。

 利夫氏が父の偉大さ、その父を厳しく育てた母を語るのは当然として、西濃の社史や追悼集に、あまり高い評価の与えられていない祖父の徳について語るのを聞いたのは、4年にわたった全国のトラック協会長対談の総仕上げとして、実に嬉しかった。

 これまで見てきたように、田口は先見性と実行力を持った類いまれな事業人であり、起業家である。しかし、強運にも恵まれていた。男が子供を産み分けることなどできるものではないが、男児二人に恵まれて、みっちり後継者として育てると共に、企業発展の大きな力として活用することができた。
 これには見えざる力、陰徳があり、それは佛の儀一と呼ばれた有徳の人の存在があったからこそではないか。

 陰徳陽報という言葉がある。陰でひそかに積んだ徳が表面に現れていい報いを受ける意味で、田口儀一、利八、利夫の3代はまさにその典型的な例であろう。その自覚が利夫氏にあることをトラック業界のために喜びたい。
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プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学処分。
15歳で安岡正篤先生門下に入る。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。
 みなさん さようなら  11月13日 】
絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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