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みなさん さようなら

会津若松9623
                   会津若松城と武家屋敷 (平成17年12月23日 撮影)

『関西師友』 昭和48年3月号
発行所: 関西師友協会
編集兼発行人: 伊與田覺

先学余芳・6
「会津士魂」 増田周作  

2冊の本
 明治維新100年を記念して各種の行事が開催された頃、関西師友協会でも河内師友会の山本重文氏をチーフとする研究会が生まれ、筆者もその一員として参加した。筆者は幕府側から見た維新史をテーマとして取り上げた関係上、いろいろな史料を渉猟(しょうりょう)したのであるが、その中でも特に興味を惹いたのは次の2冊であった。

・ 昔夢会筆記 渋沢栄一編   大久保利兼校訂
・ 京都守護職始末 (旧会津藩老臣の手記)  山川浩著
(いずれも平凡社刊行の東洋文庫に収録)

 前者は旧幕臣で、明治、大正、昭和の3代にわたってわが国の経済界に君臨した渋沢栄一が、旧主15代将軍徳川慶喜を囲む史談会を明治40年から大正3年まで前後26回にわたって開催したものの記録であり、渋沢栄一はその殆んどの会に出席しているし、質問者は若手の史学者であり当時の関係者も陪席している。その中には国語学者新村出博士の養父であり、慶喜股肱(ここう)の臣の一人で後にその家扶となった新村猛雄の名もある。この記録は幕末の錯雑した政争の中に生き抜いた慶喜その人の語った史料として非常に貴重なものであるとともに、旧主の正しい姿を後世に伝えようとする渋沢栄一の美しい心情の発露ともいえるものである。なお慶喜は大正2年11月、77歳で歿しているが、死後5年を経た大正7年にはやはり渋沢栄一の編で厖大な徳川慶喜公が刊行されており、慶喜伝というより幕府側からみた幕末史の役割を果たしている。この昔夢会筆記の今回の刊行にあたって校訂者となった大久保利謙(としあき)氏はその名の示す通り明治の元勲大久保利通の孫に当る人で、日本近代史の大家である。利通は西郷隆盛とともに徳川幕府を倒した中心人物であり、慶喜は長州は許せるが薩摩だけは、といっていたそうで、このあたり、まことに興味深い。

 京都守護職始末は、会津藩主松平容保(かたもり)が京都守護職当時、孝明天皇の信任がいかに厚かったかを述べ、その朝敵の名を冠せられるの冤(えん、無実の罪)を雪ごうとして、旧臣の山川浩が明治30年に著したものである、ということになっているが、事実は浩の弟の健次郎との共同発意であり、浩歿後(31年)健次郎の手によって成稿を見、曲折を経て、明治44年、旧藩士のみに頒布するという限定出版の形をとって刊行されたものである。

 松平容保については現在では、朝廷と幕府、そのいづれにも誠忠を尽くしたものの大勢を察するの明がなく、会津に朝廷側の連合軍を迎え撃つ結果となった、というのが定説のようになっているが、明治初期はそうではなかったのである。
 幕末の宮廷は久しく実際の政治に携わっていなかった公卿と、志士と称する諸藩の武士、浪人、学者などが結びついて幾つかのグループが出来、さらに、薩摩、長州などの雄藩の思惑が重なり、実に複雑怪奇な動きをしたのである。これらのグループによって、孝明天皇の叡慮とは異なった勅書が屡々出されたりした。朝令暮改とはまさにこの当時のことで、昨日勤王、明日は佐幕、変転常ならぬ時代であった。

 孝明天皇に倒幕のご意思はなく、公武一致して国政に当たろうとされたということは、各種の史料によって今日では証明されている。従って、孝明天皇に関する限り、勤王と佐幕は十分両立し得たのである。孝明天皇は毒殺されたという臆説がその当時から現在迄も根強く残り、維新史最大の謎となっているのも、ことの審議は別として、そう思わせる時代的背景は十分であったとはいえよう。事実、天皇の崩御から討幕運動は急速にテンポを速めた。

 この孝明天皇の最も信任されたのが容保であり、それを証拠づける宸翰(しんかん 天皇直筆の文書)を容保は持っていた。容保生前はこれを公開しなかったが、山川兄弟は本書に容保の忠誠の最良の史料として掲載したことは勿論、困窮した旧主松平家救済のため、この宸翰を宮中の要路者に見せ、当時としては大金である3万円の下賜金を宮中から受けている。(明治35年のこと、容保は26年に死去している。)
 この宸翰の存在は会津側にとってはまことに有難い資料であるが、薩長側にとっては困ることで、後述する戊辰戦争の朝敵会津討伐の理由の大半は消えてしまうことになりかねない。

 筆者が本書に興味を持ったのは前記の容保の誠忠の事跡もさることながら、著者の山川兄弟の生き方である。山川兄弟の祖父の重英は抜擢されて会津藩の家老までなった人であるが、兄弟の父は早く亡くなったのでこの祖父に育てられている。

 兄の浩は文久2年(1862)17歳のとき、京都守護職となった容保に従って上京、その側近にあり、慶応2年(1866)には幕府がロシアに派遣した使節に随員として従っている。戊辰戦争では、野戦を指揮したあと、城中では防衛総督となり奮戦した。時に24歳。維新後はこの戦争の攻撃側であった土佐出身の谷干城(たてき)の知遇を受け陸軍に入り、佐賀の乱、西南の変に活躍し、大佐に進んだ。18年、森有礼(ありのり)が文部大臣になると、軍人の身分はそのままで高等師範学校長となり、女子高等師範学校長を兼ねた。後、陸軍少将に進み、貴族院議員と勅撰され、31年歿前に男爵を授けられた。54歳。

 弟健次郎となるとさらに輝かしい。戊辰戦争では白虎隊に編入されたが、年令が規定より1歳若いため隊列より外され、籠城して生命を完うした。明治4年、米国エール大学付属の理科大学へ留学、8年帰国、わが国物理学の開拓者となった。26年、理科大学長、34年、東京帝大総長、37年貴族院議員勅撰、いったん辞した東京帝大総長に大正2年再任し、翌年には京都大総長を兼ね、東宮御学問所評議員、大正4年男爵を授けられ、昭和6年78歳で歿した。明治後半期から大正にかけて、学界、教育界の文字通り大御所的存在であった。

 この2冊の本はその幕府側からみた貴重な史料であることは勿論であるが、次の点で類書と大きく異なっている。
(1)旧主の正しい姿を伝えたいという旧臣の美しい心情から出たものである。
(2)編者、もしくは筆者が、旧幕臣、旧朝敵藩出身という中央官界進出には致命的なハンディを見事に克服して、その当時の経済界、学界教育界の大御所的存在となっている。

9612 会津の蕎麦
           会津の蕎麦屋


 ちょうどこの頃、司馬遼太郎氏の「王城の護衛者」という小品を読む機会を得た。司馬氏の作品からすれば小品に属するものであるが、容保をテーマにした好いもので、著者自身も、これまでに書いたどの短編よりも愛着をもっているとあと書きに述べていられる。またその中で、会津松平家の当主からお礼の電話があり、容保の孫にあたられる秩父宮妃殿下からお礼の言葉を述べるようにとの依頼があった、著者として、うれしくもあったが、それより玄妙な思いがした、ともある。

 その頃、筆者は大阪におり、時に取材に東京迄出ることはあっても、それより以北に足を伸ばすことは時間的にも、経済的にも不可能の状態にあって、会津を訪ねたいという念はしきりであるが、その思いを果たせなかった。一昨年末、居を東京へ移すとともに、生業(なりわい)とする出版も漸く軌道に乗って、多少の道楽をしても許される状態となってきた。そこで始めたのが藩学、郷学の跡を訪ねる先学余芳(よほう)シリーズである。 漢学を取り上げる場合、大日本史編纂という大事業を二百数十年にわたって営々として続け、国体を明徴(めいちょう)にした水戸藩をトップに採り上げるのは当然として、次に会津を書くのは以下の理由による。前述した書籍によって幕末の会津藩に大きな興味を持ったのみではない。会津といえば白虎隊がその人気をさらっているが会津藩というのは教学の点で、これはなかなか大したもので、おそらく、江戸期を通じてトップクラスにあったといってよい。

(1) まず藩祖というべき保科正之が、水戸義公と双璧をなす名君であった。
(2) 正之は山崎闇斎(あんさい)に師事するとともに、吉川惟足(これたり)について神道研究にも精通し儒、神道を基礎とした藩政を布いた。
(3) 中江藤樹歿後間もない頃から、会津の北部地方で藤樹の学が盛になり、爾来幕末に近い頃まで約180年にわたって地方の風教に裨益した。朱子学系、陽明学系がそれぞれ藩学、郷学として並存した極めて珍しいケースである。
(4) 藩學(校)日新館はその教科が充実していること、当時国内一といわれた。

 北辺の、山あいの地に教学は大いに興ったのである。藩学、郷学研究には絶好のテーマである。だがこれらについて、筆者の知識はまことに乏しいし、書店を見ても適当な史料にはなかなかお目にかかれない。ともかく現地に行くことだ。いい人や史料に会うことが出来るかも知れないし、何より会津をこの目で見ておく必要がある。

会津若松 9608

大雪の会津若松
 東京は元日の夜少し雨があった程度で、まことにおだやかな正月三ヵ日だった。4日朝も空はきれいだ。妻とともに上野駅6時25分初の臨時特急に乗りこむ。正月のおせち料理の残りを肴に車中酒杯を傾ける。朝早かったのと、アルコールのせいで、宇都宮を過ぎる頃から睡魔が襲い、ぐっすり眠りこんで、目が覚めたのは、郡山から磐越西線に入った磐梯熱海温泉のあたりであるが、思わずウーンと唸ってしまった。

 川端康成の筆になぞらえると「目が覚めるとそこは雪国だった」のである。白一色、雪はかなり深いのになお霏々(ひひ)として降り続いている。南国育ちの筆者は雪に対する何の準備もしておらず、平服のまま、いささか心細くなった妻がどうしましょうというので、なあに会津のよさは酒のよさというコマーシャルもあり、朝寝、朝酒の本場だから雪見酒でもやるわいと、強がりを言いながら会津若松駅に降りたった。

 出発前にあれこれ調査したい地点をピックアップしていたが、この雪ではとても難しそうだ。タクシーの運転手に聞いてみても、お城と、白虎隊の飯盛山ぐらいは行けるでしょうが、山間部は駄目ですという。この雪は昨日(3日)から降り出したものらしい。

 会津若松城、通称鶴ヶ城は、戊辰戦争の籠城で数々の悲話を生んだ城であり、「荒城の月」のモデルのひとつとして知られている。
 天守閣は昭和40年再建されたもので、内容は博物館となっている。探し求める史料はさして展示されていなかったが、受付で「会津の歴史」という書籍を購入したのは収穫だった。この1冊の本から翌日の取材活動がスムースに運び出したのである。
(会津の歴史 編纂/会津若松市出版会・発行/講談社、昭和47年10月発行、定価2800円)

 市内の道路は、僅かに自動車のタイヤのあとがついている程度で、歩道と車道の区別もなく膝を没する雪に埋もれている。足もとの準備が全くないので、どうしようもなく、タクシーで、運転手の案内を聞きながら市内の旧蹟をまわり、写真を撮り、飯盛山の白虎隊の墓地へ向かう。

 墓前に至る石の階段も雪に埋もれているが、僅かに雪を踏み固めたい細い道があいており鉄製の手摺につかまって上下する。19隊士の墓石の下半分は雪に覆われ、周辺の松林の枝に積もった雪が時折バサッと大きな音を立てて落下する。美しいが、きびしい会津の雪景色である。

 この大雪のなか、墓前には既に、幾束もの香が手向けられていたのには一驚した。東京泉岳寺の赤穂浪士の墓とともに年中香煙の絶えることがないことでも有名である。墓前向かって右手が自刃の地で詩吟や絵で有名なところ。この辺り一帯が墓地で、城外遠く奮戦してきた白虎隊がここまで引き揚げたところ城の方向が大火災で、天守の姿も見えない有様である。もはや落城したに違いないと20士が自刃したのだが、実際はこの時まだ城は落ちていなかった。この20人のうちひとりは虫の息となっていたのを助け出され、長命して昭和まで生き、白虎隊士最後の詳しい状況が知られることになった。この生き残り隊士の墓も自刃の地に建っている。この自刃の地で筆者、雪にころんで雪中に埋没してしまった。生まれて初めての体験である。
 同夜は早々と東山温泉に引き揚げ、雪見酒。このあたりの山の雪景色はまさに一服の墨絵でまことに美しい。

 翌朝市役所の出版会に電話すると、講談社版会津の歴史の底本となった全13冊の会津の歴史は残部は全くないが、図書館にあるから、そちらへ行かれたら、ということで電話すると、8日迄休館です、東京からこれこれの趣旨で参りましたから、というと、特別に館長室で閲覧して頂きますからとの有難い返事があった。竹田正夫館長とお会いしていると、丁度いい人がきていますからと紹介されたのが、北日本印刷の社長阿部隆一氏。阿部氏は「歴史春秋社」という研究会を主宰し、会津藩の歴史にも詳しい方である。阿部氏から昨年9月開催された「会津藩初期教学展」の話をきき、その時配布した資料の寄贈を受けた。B5版100ページに及ぶ立派なもので出品目録というより、各権威者による研究論文集の感が強い。欣喜雀躍とはまさにこのことをいうのであろう。さらに各関係者、東京にある書店なども親切にご教示頂いた。求めよ、さらば与えられん、雪中の会津取材は望外の収穫を得た。

 この図書館取材中は妻とは別行動で、駅で落ち合った。妻もまたニコニコしていいものがあったという。何だ、お椀のとってもいいものがあったから買ってきた、高かったろう、まあ少々ネ、勿体ない、あなただって本は高くても買うでしょう。そういえば会津は会津塗と呼ばれる漆器の名産地であった。
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プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学処分。
15歳で安岡正篤先生門下に入る。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。
 みなさん さようなら  11月13日 】
絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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