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みなさん さようなら

2018.03.22 06:00|「周作閑話」
2017年12月25日、2018年1月11・15・18日アップの写真・コラムもあわせてどうぞご覧下さい。(妙)

2007年(H19) 月刊 「NewTRUCK」 2月号  「周作閑話」

硫黄島とサイパン・グアム (上)

 「空の要塞」巨大な超長距離爆撃機から投下する爆弾や焼夷弾の下を逃げ回った戦中派の我々にとって、サイパンは忘れられない島であった。太平洋戦争の初期こそ、南方水域に幅広く展開した日本軍だったが、アメリカ全土を軍需工場にして、巨大な戦力に膨れ上がった米軍の反攻を食い止める力はなくジリジリと追い詰められて後退していった。

 昭和19年(1944)6月15日、日本軍最後の防衛線であったサイパン島に米軍が上陸、7月7日に守備隊が玉砕全滅したのに続いて、テニアンとグアムの守備隊も全滅した。開戦当初から、指揮に当たってきた東条首相は責任を取って内閣は総辞職したが、後継内閣としても、退勢を挽回する妙策のあるはずもなかった。

 これらのマーシャル群島の飛行場から飛び立ったB-29は、制空・制海権を失って丸裸の状態に置かれた日本全土の上空を自由に飛び回り、都市や軍需工場を爆撃して、悠々と戻ることが可能になったのである。

 日本のほとんどの都市を焼き尽くした後、テニアンから飛び立ったB-29によって広島、長崎に原子爆弾が投下されて、中立を守るはずだったソ連までもが参戦して満州に侵入、日本は無条件降伏を受け入れた。

 還暦を迎えた20年ほど前から、生来の旅好きが高じて世界各地に足を伸ばすことになった私も、僅か3時間ほどの空路の距離でしかないサイパン・グアムはどうしても訪れる気にはなれなかった。

 空の旅ともなれば、B-29に思いをいたさねばならないし、海路になると御用船の船倉に詰め込まれて、途中で敵潜水艦の襲撃で海の藻屑と消えて、島に到着しても全員玉砕の運命が待ち構えていた多くの将兵を考えざるを得ない。
 南海の島で散華した軍民を慰霊するより、アメリカの支配下にある観光地化したサイパン・グアムなど見たくもない、という屈折した感情が先に立っていた。

 それが何故行く気になったのか。先ず年末年始のお休み期間、硫黄島を海上から見ながらサイパン・グアムに行く「飛鳥Ⅱ」のクルーズがある、となじみのJTB銀座支店から情報が寄せられた。
 硫黄島が、出版や映画の世界で日米双方で採り上げられる、という事態もあって、一般観光客が上陸できない硫黄島を、この機会に海上から見たいという希望もあった。
 さらに「世界の旅写真集」(仮称)を今年9月に刊行する予定があり、あの戦争の大きな転回点になったサイパンの写真記事を是非掲載したい、との思いもあった。

 暮れの26日、事務所で今年最後の打ち合わせと年内事務処理を済ませて、横浜の大桟橋に近いJR「関内駅」で下車したが、叩きつけるような豪雨である。
 悪天候は午後10時に出港した後、さらにひどくなり雷まで加わって、観音崎から東京湾に出ると、大時化(しけ)に遭遇してかなり揺れそうだと船内放送があった。
 横になって寝るに限る、と早々にベッドに潜り込んですぐ眠りに入った。目が覚めると相当な揺れで、窓から海を見ると海面には牙をむいた白波が躍っている。甲板に出ると、八丈島沖を通過するところだったが、人影はほとんど見えない。

飛鳥Ⅱ 12266


 この大時化で、伊豆諸島通いの客船は欠航したそうだが、「飛鳥Ⅱ」はさすがに5万tを超える日本最大の豪華客船で、縦揺れ横揺れを繰り返しながら、大波を蹴立てて進む。
 大食堂「フォーシーズン・ダイニングルーム」は海面に近い5デッキの中央部から後ろにあって、上級船室のある8・9・10デッキの前後に較べると揺れはかなり少ない。それでも、広く取ったガラス窓に大波が叩きつけて、一瞬水中を行くかのような錯覚に陥る。

 台風銀座の異名をとる土佐西南の海辺に育ったので、大波はいやというほど見てきたが、その波を目の横に見ながら飲食したのは始めて。荒天の海を行く「飛鳥Ⅱ」 を外から見たいと思うが、これは無理な相談である。

飛鳥Ⅱ 12280

 26日夜、横浜出航、27日夕刻の船長主催のウェルカムパーティの頃には、かなり波も収まって、タキシードやイブニングドレスの正装の男女が、会場のギャラクシーラウンジに集まって、華やかなムードが漂う。
 船内では、「飛鳥Ⅱ」専属のダンシングチームやその他の芸能人や書道他の文化教室なども開催されて、船客を退屈させることはない。
 私は書道に参加しただけで、もっぱら船室や図書室などで、持ち込んだ硫黄島関連本の読書に大半の時間を費やした。

 『栗林忠道・硫黄島からの手紙』(文芸春秋)『散るぞ悲しき―硫黄島総指揮官・栗林忠道』(新潮社)『硫黄島の星条旗』(文春文庫)『硫黄島に死す』(新潮文庫)『硫黄島』(角川文庫)『天皇―帝国の終焉』(文春文庫)の6冊で、年末年始にこれだけの読書をしたのは初めてである。年末の26日夜乗船、横浜帰着が新年の4日昼過ぎ、船中に9泊して上陸したのは30日のサイパン、31日のグアムだけだから、読書時間はたっぷりあった。

 前からの2冊は、硫黄島指揮官栗林忠道が硫黄島から家族に寄せた手紙を解説したものと、栗林を主人公にした硫黄島の日本軍の凄惨な抵抗ぶりを描いている。この2冊を読めば栗林忠道の人物、考え方がよく理解できる。

 日本の将軍といえば、大砲の音を聞いて、「今日もいくさがごわすか」と尋ねた茫洋とした日露戦争の大山巌元帥や愛児2人を犠牲にして当然といった神格的な乃木大将などが、一般的だった。しかし、栗林はまったくそれらの将軍とは違って細かいことまで自分で指示し、家族思いで、妻子に切々たる手紙―その中には家の造作、カネのこと、子供の手紙の誤字校正まで含まれている。

 もっとも戦いたくなかった国だと自ら言ったアメリカは、栗林が駐在武官として過ごして、新車を買って国中を走り回り、その実情をよく知った上、知人も多かった。
 細やかな心遣いのできる合理精神の持ち主である栗林は、サイパンなどでみられた日本軍伝統のバンザイ攻撃は極力避けて、最後の一兵まで効率的に戦うよう指導した。この戦法が、圧倒的な将兵と物量を注ぎ込んだアメリカ軍を大いに悩ませるのである。約2万の日本軍はごく一部を除いて戦死したが、戦死約7千名を加えたアメリカ軍の戦死傷者は約2万6千人、劣悪な条件の中で互角以上の戦いを、栗林は成し遂げた。

 『手紙』『散るぞ悲しき』をほぼ読み終えた28日午後3時半頃、「飛鳥Ⅱ」は硫黄島の沖合に到達した。先ず見えてきたのは平坦な低い台地上の島であり、建造物が見えるのは自衛隊の建物である。そのなだらかな台地の先端にお椀を伏せたような摺鉢山がある。

 その麓の米軍が命名したグリーンビーチに強行上陸した米軍を、待ち構えていた日本軍が砲火を浴びせた。従来の日本軍の戦法は水際作戦で敵の上陸を防ぐことに主力が置かれて、その後はジリジリ押し詰められて玉砕する、というパターンだったが、栗林は上陸してきた敵軍を、島中に張り巡らせた地下道や洞窟に潜んだ日本軍が奇襲攻撃した。

 アメリカ軍がグリーンビーチに上陸したのが1945年(S20)2月19日、摺鉢山にもっとも有名になる星条旗が掲げられたのは4日目の23日だったが、戦闘はなおそれから1ヶ月余りも続き、栗林が最後の出撃戦に打って出たのは3月25日夜だった。

 曇り空だったが、日没にはまだ少し間のある頃、雲間から一瞬閃光のような日差しが波間を赤く染めて、摺鉢山をシルエット状に黒々と浮かび上がらせた。
(つづく)


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プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学処分。
15歳で安岡正篤先生門下に入る。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。
 みなさん さようなら  11月13日 】
絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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