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みなさん さようなら

2018.03.26 06:25|「周作閑話」
サイパン 12390

2007年(H19) 月刊 「NewTRUCK」 3月号  「周作閑話」

硫黄島とサイパン・グアム (下)

 一瞬、雲間から差した閃光のような陽光が消えて、硫黄島の摺鉢山は淡いシルエット状になり、甲板に出た多くの船客は或るいは数珠をつけて合掌、涙を湛えてたたずんでいる。花束を奥さんから受け取って、投げようとする人がいたので、写真を撮って差し上げた。熊本球磨地方で手広く薬局チェーンを展開する白石敬旺氏で、父君は無謀としか言いようがないインパール作戦で戦死したという。硫黄島戦死者は、その職分を尽くしてアメリカ軍を戦慄させたが、インパール戦線では無謀な牟田口廉也司令官の指揮により多数の餓死者病死者を出した挙句に作戦を中止、牟田口中将は戦後20年も生きて生き恥を曝した。

 硫黄島で戦死したバロン西こと男爵西竹一中佐は、栗林忠道指揮官と同じく騎兵科出身で、ロサンゼルスオリンピック馬術競技で優勝、日章旗を掲げた当時の国民的英雄であった。日本のオリンピック出場選手は陸軍騎兵科将校で構成されていて、西はその中でも際だった存在だった。
 『硫黄島に死す』(新潮文庫)は西の華麗奔放な生涯と、硫黄島でのその死を描いた城山三郎の半世紀も前の短編で、一連の硫黄島関連作品ではもっとも早く、また白眉の話題作でもあった。
……

 芥川賞を受賞した菊村到の『硫黄島』は城山の硫黄島作品と同年の作品で、ややミステリー仕立ての凄惨な硫黄島の暗い闇のような部分を描いたフィクションである。現実に起こりえないような筋立てだが、あの硫黄島からの生還者ならあり得るだろうと思わせるところがミソである。

 これらの作品はいずれも日本側から硫黄島の戦いを描いたものだが、『硫黄島の星条旗』は、アメリカ側の作品で、大きな話題になったクリント・イーストウッド監督映画「父親たちの星条旗」の原作で、文庫本ながらびっしり詰まった小さな活字組みで600ページ近く、これは読み応えがあった。

 米軍の硫黄島上陸4日目に摺鉢山上に星条旗を立てようとする6人のアメリカ兵士の写真は、すぐアメリカ本土に送られて、国民の戦意高揚と戦費調達の国債募集に最大限利用された。その写真を基にして造られた巨大な彫像は、ワシントンの国立アーリントン墓地にある。私はその彫像と、ニューヨーク港の埠頭に繋留されていた空母の公開展示場でもそのミニチュアの像を見た。

 『硫黄島の星条旗』は、摺鉢山に星条旗を立てた6人の兵士の入隊前の生活、戦線での活躍、さらにその中の戦死した3人の遺族と負傷した1人、自分の足で故国の土を踏むことができた2人の戦後を克明に追っている。
 著者のジェイムス・ブラッドリーは、摺鉢山の6人のうち、唯一まともな職業(葬儀施設経営)について、もっとも長く生きた人物ジョン・H・ブラッドリーの子息で、ピュリッツァー賞作家のロン・パワーズの協力を得て書き上げた作品である。

 故国に生還した3人のうち、アメリカ原住民出身者は名誉に溺れてアルコール依存症になり、淋しく死ぬ。もう一人の生還負傷者は、その妻と共に硫黄島の星条旗掲揚者の生き残りヒーローとして各地でチヤホヤされるうちに当人より妻の方が名誉欲に取り付かれるようになり、夫婦仲もおかしくなって、不慮の死を遂げることになった。
 結局、星条旗を掲げたヒーロー6人のうち3人は戦死、二人は不健全な生活を送り、ただ一人、本書の父だけがアメリカ国民として名誉欲にも煩わされず、戦後も50年近く社会活動をして心臓発作で死んだ。

 本書を読んで痛感したのは、アメリカ社会の歪(いびつ)さである。日本のように歴史の古い国では、ヒーローは歴史上に求めるのが一般的だが、アメリカはスポーツ・芸能・果ては単に偶然に支配されて、硫黄島に星条旗を掲げただけの兵士を簡単にヒーローに仕立て上げる。
 硫黄島の戦闘については、アメリカ側に豊富な資料があり、本書を読めば日本側の乏しい資料を補うことができる。お陰で、戦闘の概要を掴むことができたが、それ以上にアメリカ社会の勉強ができたのが収穫だった。

マッピ山 12365

 28日夕刻に硫黄島沖を通過して、29日は終日航海、読書も進んで、30日朝「飛鳥Ⅱ」はサイパンに到着した。船客はそれぞれのオプショナルコースを選定してバスに分乗して目的地に向かう。もっとも多かったのが、戦跡訪問半日コースで、我々も参加した。
 この日は快晴、南海の空と海はあくまでも青く、地の緑と白波が鮮やかなコントラストを描いて美しい。それだけに、多くの慰霊碑が建つ白波の押し寄せる断崖のバンザイクリフやマッピ山頂にあるスイサイドクリフ(自殺断崖)は涙なしに見ることはできなかった。
慰霊碑 12398

 一面に茂る緑の林は、あまりに多い日本人軍民の死体の処理に困った米軍が、ヘリコプターから一斉に植物のタネを蒔いて、その繁茂によって死体を覆い隠した跡であるという。硫黄島では、米軍が飛行場の建設を急いで、死体をブルドーザーでならして、その上にアスファルトを流し込み、整地していった。
 現在もなお、硫黄島・サイパン・グアムなどの遺骨収集は行われている。

慰霊碑 12384

サイパン 12387

慰霊碑 12366

慰霊碑 12368

松江春次 12414

 サイパンに残る唯一の日本人の銅像は、砂糖王、シュガーキングと呼ばれた南洋殖産の功労者松江春次のもので、会津出身、兄の豊寿は徳島のドイツ兵捕虜収容所で人道的にこれを扱い、日本で初めての「第九」を演奏させ、後に会津若松市長として白虎隊の顕彰などに努めた。この銅像はマッカーサーが保護させたという。現在のサイパンは観光収入に依存しているが、戦前は砂糖の栽培などで2万人もの日本人が働いていた。アメリカは軍事上の基地として多大の保護を加え、住民の多くは観光産業に従事、その観光客でもっとも多いのが日本人、という図式である。

潜水艦 12427

 DFSという大きなショッピングセンター立ち寄りはパス、船室に戻り読書していて外を見ると、潜水艦が「飛鳥Ⅱ」を目指して進んでくる。一瞬、敵潜襲撃かとヒヤリとしたが、太平洋戦争史読書中による錯覚で、間もなく「飛鳥Ⅱ」船首すぐ前の埠頭に接岸した。
 午後5時、ヘリコプターからの散華を受けて出航、プールデッキではハワイアンの賑やかな演奏と歌が繰り広げられている。

タロフォフォの滝 12457

 30日早朝、グアム到着。サイパンと並んで太平洋戦争末期の激戦地だが、バンザイクリフのような戦跡見学コースはない。潜水艦による海中見学、ビーチ散策などがあり、午後のタロフォフォの滝見学コースに横井庄一さんが28年間潜伏した跡がその中に含まれているので、これに参加した。

横井庄一さん潜伏 12464

横井庄一さん潜伏 12453

 滝そのものは変哲ないが、少し奥に進んだ横井庄一さん潜伏跡は、なるほどここなら積極的に動かない以上、発見される可能性は少ないと思われる場所だった。出て来た時、「恥ずかしながら」と言ったのが流行語になった、それも30年あまり前のことである。
年越しカウントダウン 12508

 年越しのカウントダウンというドンチャン騒ぎは、写真を撮るだけにした。
 元旦お昼にはおせち料理と一人あたり300mlの祝い酒がプレゼントされ、良い気持ちになって寝てしまい、3時からの書初めに慌てて駆けつけて「洋上之春」と書く。酒酔いと船の揺れながらまずまずの出来。

書き初め 飛鳥Ⅱ 12521

 2日、再び硫黄島沖を往路と反対側で通過する。読書は「天皇―帝国の終焉」(文春文庫)で著者児島襄氏は戦史研究家としては第一人者だけに、日本の敗勢が濃厚になった頃から敗戦までを描いた秀作である。
 4日午後横浜着、戦跡見学と読書に明け暮れた年末年始の「飛鳥Ⅱ」のクルーズだった。


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プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学処分。
15歳で安岡正篤先生門下に入る。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。
 みなさん さようなら  11月13日 】
絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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