FC2ブログ

みなさんさようなら

2018.03.29 06:00|社長の軌跡/人に四季あり
1990年(H2) 月刊「NewTRUCK」 3月号
人に四季あり

岡本利雄氏
           右写真: いすゞ自動車の岡本氏の部屋に掲げられている「処万変主一敬」の扁額

岡本利雄氏

いすゞ自動車(株) 顧問

曲折の学校時代
自動車に憧れて瓦斯電に

山口出身早く父を失い
伯父伯母の感化受けて

増田 お話をお聞きする前に“いすゞしんぶん”に連載の「みなさんと共に」をまとめた正続2冊の五本を読ませて頂きました。私のようにものを書くのが仕事の人間でも、毎月決まった分量を書くのは大変です。社長という激務の中で、よく書き続けられたものだと感嘆します。日本の自動車の歴史のある時代を語るいい資料だと思いますが、社内に向けて発表されたものですし、年月も多少経過しております。その当時を振り返ってのご感想や未発表のエピソードなどもあるかと存じます。ひとつよろしくお願いします。
岡本 荒川さんとの対談記事を興味深く読ませて貰いました。私の場合は、既に会社としての歴史もあり、しっかりした社長や重役もおられてその方針に沿ってやってきたわけですから、荒川さんのように一刀両断といかない場合もありました。果たしてご期待にこたえられるおはなしができるかどうか。
―― 草創と守成を較べると、守成の方が難しいと言われますし、日野とはかなり異なった社風の経営をしてこられた岡本さんのお話は非常に貴重だと思います。
 山口のご出身だそうで。
岡本 今は山口市に編入されていますが大内村で明治41年に生まれました。先祖は毛利藩で槍の指南をしていて、大身(おおみ)の槍の刀身の部分が今も家にあります。
 父は医者で校医などもやっていましたが、4歳の時に亡くなって、それから伯父夫婦がすべて面倒を見てくれました。
 これが苦労の初めのようなものですが、伯母は顔も心も本当の観音さまの様な人で、私がこの部屋にも家の各部屋にも観音さまを安置しているのは、伯母への敬愛の思いも込められているからです。
 母の兄だった伯父(河村茂氏)も立派な人で、商業高校しか出ていなかったのですが、九州財界の大物だった安川敬一郎氏に信頼されて、明治鉱業の支配人を永く勤め、市会議長にも推されました。
 この伯父夫婦から受けた影響は他の誰よりも大きかったと思いますね。
―― 私も中学1年から大学出る迄叔父と寝食を共にして感化されました。安岡正篤先生の門に入ったり論語をやるようになったのは叔父の影響です。親はなかなか子供の教育はできないもので、祖父や伯(叔)父という立場の人から感化を受けている場合が多いようです。

ジグザグの学校生活
人生最良の師の伯父

―― 山口には岸信介さん、佐藤栄作さんも在学した名門の山口中学があります。
岡本 いや、兄妹はみな成績が良くて県立に入れたのに、私は出来が悪いものだから、中学にそのまま進まず、高等小学校に行ってから、門司にある中学へ入り、関東大震災の日に山口に戻って私立鴻城中学の夜間部1年に編入というジグザグコースです。
 家から学校まで1里(4km)ほどの暗い夜道を自転車にカンテラをつけて通いましたが、この時期はよく勉強しました。
 3年で昼間の普通科に移り、伯父が知遇を得た安川さんがお作りになった明治専門学校(現九州工業大学)の機械科に入学したのですが、その前に1年浪人している。
 まあ、典型的な劣等生コースですな。(笑)
―― たしかに優等生コースじゃない。しかし、学校での優等生必ずしも社会人として優等生でなく、劣等生が社会に出てから大きな業績を上げているのは多くの実例が証明する通りです。
岡本 明治専門学校は明治鉱業の創業者の安川氏が石炭事業であげた利益の一部を国にお返ししたいとして建学されたもので、有益な人材を育成して国家のお役に立てることを目標にしておりました。
 普通の学校とちょとちがったところがあって、原則として全寮制度をしき、敷地内には教官の宿舎もあって、昼も夜も、先生とそのご家族と学生が接して切磋琢磨する、という毎日でした。
―― 寝食を共にして勉学するのは若い人にとって必要ですね。
岡本 もっとも、私が寄宿舎生活をしたのは1年だけで、あとは伯父のところから通いました。母校の建学の精神は学校よりもこの伯父を通じて学んだ方が大きかった。伯父こそ生涯の最大の師であったと今でも思っていますね。
 この伯父は学校の成績について一切聞いたこともないし、注意がましいことも言わなかった。
 卒業間近い頃の朝、伯父の部屋に新聞を持ってゆくと、机の上に2枚の半紙が並べて置いてあるんですね。1枚は「衆流帰海心 万国奉君意」もう1枚は「処万変主一敬」と書いてある。
 前の方は「衆流ハ海心ニ帰シ、万国ハ君意ヲ奉ズ」と読むんでしょうか。当時は左翼思想の盛んな時でしたから海に向かう川の流れにたとえて、それとなく注意したものでしょう。
 後の方は「万変ニ処スルニ一敬ヲ主トス」で、伯父は「世間で言われるような成功は期待しない。ただ期待しているのは、どんな相手に対しても敬う心を持って接するという処世の態度である。万物は皆師なりの心構えで世間に臨んでほしい。」と言われました。それ以来、これをモットーにやってきたつもりですし、中国に行ったとき有名な書家にこの字を書いて貰ったのを表装して、遺産のつもりで子供達に贈与しました。

自動車をやりたくて
瓦斯電に絞った受験

―― 東京瓦斯電気工業(いすゞ自動車と日野自動車の前身)に入られたきっかけは。
岡本 学校で機械をやって、どうしても自動車をやりたかったんです。当時自動車をやっていたのはごく少ないし、瓦斯電が本格的にやっていると聞いたからです。
 瓦斯電というのはその名の通り、瓦斯器具からスタートして、当時は自動車、航空機、工作機械、兵器、計器を作っていて、航研機という当時としては滞空記録を作った飛行機も造っていたし、自動車に力を入れていたので、どうしても入りたかった。
 成績があまり良くないし、昭和8年のその当時はまだまだ就職難の時代で、心配した先生が他にもいくつか願書を出すように言ってくれたのですが、瓦斯電1本に決めて、どこも受けませんでした。
 入社試験の口答試問をされた内山さんという方が、この男使えそうだと思われたのか、合格が決定しました。
 内山さんは業績不振に陥った瓦斯電建て直しに銀行から派遣された方で、実に立派な方でした。
 瓦斯電は歴史のある会社で、年配のクセのある幹部の方も多い。そういう人達を大事にする一方で若い者を可愛がって、どしどし仕事をさせました。教えられることが多かった方です。
 内山さんについては後のことですが、こんなことがありました。
 終戦後、少したって内山さんはまたある会社の建て直しをすることになり、良い技術者がいないんで私に是非来いとおっしゃる。内山さんには恩義もありますが、私にはいすゞの勤めもある。1週間だけ待って下さい、とご返事して当時の楠木専務にご相談することにしていましたら、その1週間のうちに、内山さんが会社の運動会で、壇上で挨拶される途中で倒れるという全く不測の事態が起こりまして、沙汰止みになりました。

60年近く同じ建物
牽引車から六輪車へ

―― 人生一寸先はわからないものですが、昭和8年にご入社になって60年近く、瓦斯電からいすゞへ随分長い自動車人生ですね。
岡本 この建物(いすゞ自動車本社事務所)も私が入った時のままで、自動車工場はすぐ先のアサヒビールの工場のところにありました。いま、新しいビルを建てていますので、この建物も取り壊されることになるでしょう。
―― 60年近く前に入社した時の木造の建物がそのまま残っていてそのご本人がいらっしゃる、というのは珍しいと思いますね。
 入社してからのお仕事は。
岡本 牽引車の設計をやっていました。当時の陸軍はソ連との戦いは必至と見て、トーチカを破壊するための大きなカノン砲を作ったのですが、それを牽引する車が6台も要る。その訓練に富士山麓に行ったこともあります。
 それから標準車の六輪トラックの設計に移りました。
―― 第2次大戦で大活躍したトラックですが、残念ながら数が少なかったですね。
岡本 得意先は陸軍で、国からお金を払ってくれる。後に重役のお供をして陸軍の兵器本部へよく行きました。これこれかかりましたと説明するとそのまま支払われる。
―― 負けろ、なんてことは言わなかったですか。
岡本 国会で予算を取った時点でお金は出るようになっている。第一、軍人に細かい数字のことなどわかりません。(笑)
(つづく)


スポンサーサイト

コメント

非公開コメント

プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学処分。
15歳で安岡正篤先生門下に入る。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。
 みなさん さようなら  11月13日 】
絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

人が好き 歴史が好き みなさんようこそ

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

  • ページトップへ
  • ホームへ