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みなさんさようなら

2018.04.02 06:00|社長の軌跡/人に四季あり
1990年(H2) 月刊「NewTRUCK」 3・4月号
人に四季あり

岡本利雄氏 ②

いすゞ自動車(株) 顧問

補給戦で日本劣勢予測
的中した老英夫人の言

増田 太平洋戦争が勃発して、軍の要請で走輪車と走軌車のメーカーの分離が行われますね。石川島の後身の自動車工業が瓦斯電と合併した東京自動車工業が走輪車を作り、分離独立した独立した日野重工は走軌車(戦車など)を製造することになり、戦後それぞれ、いすゞ自動車と日野自動車になります。
 瓦斯電に入った人は日野へ行った人が多かったようですが、お残りになった理由は。
岡本 瓦斯電の手で昭和12年から川崎工場の建設が開始されて、私はまだ30歳になっていなかったのですが、生産技術を担当していたこともあって、建設委員に任命されていました。
 多少へそ曲がりのことろもありましたから、やりかけの仕事を途中で渡して後であれこれいわれるのはかなわん、ということでそのまま川崎で仕事を続けました。
―― 川崎工場の時、この戦争は負ける、と言って物議を醸したことがあるそうですね。
岡本 生産技術を担当していましたから、各国の生産力を比較できる立場にあった。今度の戦争は補給戦の勝負である、と信じていましたので、物量でやられると思っていた、そのことを言ったまでです。
―― それにしても、戦時中にそれだけのことを言えるのは大したものです。
岡本 日・独・伊の三国同盟が成立して、英米との対決姿勢が強まった頃、ドイツ語を勉強する人が増えました。私は少し考えるところがあって、英会話を始めることになり、大森工場のすぐ前に住んでいた一人のイギリス老婦人のところへ通い出しました。
―― ドイツ、ドイツと言っていた時代に英会話を始めるというのはやはり相当のへそ曲がりです。
岡本 この誇り高き老英婦人は自国語はもちろん、独・仏・伊・露語を自由に話すことができました。日本に来て20年にもなるというのに日本語は全く話しません。メイドも猫も彼女の言葉を聞き分けていたし、私も暫く通っている間に、どうにか彼女と会話が通じるようになりました。
 彼女は外交官などとの交流範囲も広く、時局を見る非常に確かな目を持っていたし、その見通しも驚くほど的中しました。
 日独伊のいわゆる枢軸国と、米英ソの連合国の対決について、この勝負は判りすぎる程決まっているではないか、一方は東条、ヒトラー、ムッソリーニ、片方はルーズベルト、チャーチル、スターリン、この二組の人物の組み合わせは、どう見ても枢軸国に勝ち目はないと思う、と言うんです。
 さらにイタリーの頼りなさについて第1次大戦の教訓からシシリー島に上陸したところで手を上げるのではないかと見通し、スターリンについては、彼は獲物を求めて空を舞っている鳶のようなもので、日本がその餌食にならねば良いが、とも言っていました。
―― 大した見識の持主です。そういう方に巡り会ったのは幸せで、それから後の岡本さんの幅広い国際活動の第一歩であった、という気がしますね。

あり得ざる陸軍2等兵
刑務所の裏表つぶさに

―― 終戦の半年ほど前、陸軍に招集されていますが、軍需工場の技術幹部は招集猶予ということになっていた筈でしょう。しかも四十歳近い岡本さんを応召させたのは何かあったのですか。
岡本 わかりません。私がへそ曲がりで上司との折り合いが悪かったのは事実ですが、まさかそれが理由とも思えないし。
 会社でも驚いて、社長の林中将が応召先の広島の第5師団長に召集解除の申請をしたのに、「岡本2等兵は会社でも必要だろうが、軍でも必要である」という理由で断られています。
 それでどこへ行ったかと言えば福岡の刑務所です。囚人を指揮して、代用燃料の薪による発生炉の製造をやりました。ここでつぶさに刑務所の実情を観察できた。最近、何とかいう作家が刑務所の内情を書いて評判になりましたが、私も本を書く位の面白い材料は持っています。(笑)
―― 看守でもないし、囚人でもないのに、刑務所の内部に詳しいというのは珍しいですね。
岡本 面白いといえば面白い軍隊生活で、2等兵というと軍隊の最下等の階級で誰に会っても敬礼せにゃいかんのですが、中隊長は技術顧問として大事にしてくれるし、囚人相手ですから別世界です。
 囚人というのは、前職がいろいろで、手先の器用なのが多い。(笑)何でもできるんですな。
 福岡空襲の焼跡で、ドラム缶に詰まった甘い液体を見つけました。南方からきた甘味料だろうということで、ポテトで餡(あん)をこねて饅頭を作って兵隊さんに配ったのですが、誰ももう一個とは言わず、ピリッとくると言う。軍医に見せると、火薬の元のグリセリンで毒はないが、という話です。(笑)火薬の原料で饅頭作ったのはあまりないでしょう。
 同じ焼跡で、焼けた二振りの日本刀を見つけた大隊長が作り直してくれるというんで、焼きを入れて研ぎ出して、木工師が鞘まで見事に作りました。それを刑務所から運び出すのに2等兵の私が刀を持ってトラックの上に乗る、これがいい年をしてるので、相当にえらく見える。(笑)
 看守にも悪いのがいて、刑務所で作った製品をくすねるのもいる。
―― 盗っ人の上前をはねるということですな。(笑)いい社会勉強をされました。
岡本 終戦の直前、ソ連軍が満州に侵入した日に小隊長と特別任務を帯びて上京しました。特別任務というのは会社に行って六輪トラックを買って来いというものです。ところが東京で終戦、1台のトラックに米や燃料と兵隊を積んで東海道、山陽道を下って、福山まで来たとき、福岡の原隊はもう解散したという。そこでバラバラになり、中隊長と原隊にいったん戻って召集解除です。
―― 随分面白いお話を有難うございました。戦後のいすゞ自動車の歩み、社長への道をお聞き致します。

東条首相も徴用工激励
動員の学生や小学生達

―― いすゞ自動車20年史の中の昭和15年の職制表に、川崎製造所設備課の設備係長心得として、岡本さんのお名前が出てきます。
岡本 そうですか。50年も前の古いことで、余りよく覚えていません。
 昭和16年に太平洋戦争が始まって、民間会社としては初めて国民徴用令によって動員された人々を受け入れることになりました。
 川崎工場で行われた入所式には総理大臣の東条さんが陸軍大臣の資格で来られて訓示をされました。
―― 私もたしかニュース映画で見た記憶があります。
岡本 軍人さんとはああいうものですかね。真っ直ぐ前向いて歩いて、横の方はちっとも見ない。
―― ひたすら進め、進めですか。
 いすゞ自動車には宮様はじめ、随分沢山の方が見えていますね。
岡本 そうです。後のことになりますが、皇太子殿下時代の天皇陛下も藤沢工場に見えられまして、工場長だった私が1時間ばかりご案内いたしました。
 いろいろな工場をごらんになって、産業の実際をご勉強されるためのご視察ですから、ご熱心でした。私どももみっちり予行練習はしましたが。
―― 戦時中は徴用工、動員学生なども沢山いたんでしょう。
岡本 軍人もいたし、昔の高等学校生から小学生までいたのですから、お世話も大変で、事故を起こしてはいけない、生産効率もそれなりに上げなければならない。私は上を見て歩いていたから学生からは青空課長と呼ばれていました。
―― 重要な軍需工場でありながら、空襲で大きな被害を受けなかったのは何よりでした。私も勤労動員でプロペラ工場へ行ってフライス盤を使ってました。食糧不足の時代でしたから工場給食は有難かったですね。
岡本 あの当時、食糧事情は刑務所が一番良かったですよ。

馬鹿正直のいすゞ商法
ヒルマン後継車の失敗

―― 終戦になって、自動車産業は軍需から民需に切り替えられます。敗戦の混乱や物資や電力不足の中での生産再開は大変な苦労があったことと思います。その中で翌年の昭和21年にはTX80型の5t積みガソリン・トラックを標準型として量産に入っていますね。しかし、自動車産業の本格的な立ち直りは昭和25年の朝鮮動乱による特需からですか。
岡本 そうです。その前の昭和24年に社名が従来のヂーゼル自動車工業からいすゞ自動車になって、商品ブランドと社名が一致するようになりました。
 朝鮮動乱の時に残念だったのは、ディーゼルではうちがリードしていたのに、特需のディーゼル・トラックは価格の点で、トヨタさんに先を越されてしまったことです。さすがトヨタさんで、いったん実績ができると後は続くと読んでおられた。いすゞはやはり商売下手です。(笑)
―― 無理もない話で、軍にツケを廻せばちゃんと支払ってくれるという商売をやってきたわけですから、およそ駆け引きなんてことができないのは当たり前です。
岡本 商売下手というか、馬鹿正直というか、それでいすゞは随分損をしてきました。
 昭和27年から英国のルーツ社と技術援助提携関係に入って、ヒルマンの日本での組立に入り、私も昭和30年に国産化促進のためにイギリスへ行きました。
―― ヒルマンはいい車で、昭和30年代の初め頃、私もよく乗りました。
岡本 ご愛用の方が多くて、今でも乗っておられる方があります。
 ヒルマンの後継車を作ることになって、その取り決めの中に、ヒルマンと同じ車にしてはいけないという項目がありました。
 それで、ヒルマンの細かい図面は幹部が金庫の中に仕舞い込んで中堅以下の技術者には見せない。同じ車を作ってはいけない、といっても、ラジエーターの部分を変えるだけとか、方法はいくらでもあります。他の自動車メーカーなら恐らくそうしたと思います。
 それを馬鹿正直に、せっかくヒルマンで乗用車の勉強をしたのに、すべてに渡って新しい車を作った、それがベレルです。
 ところが、センスが悪い、故障が多い、ディーゼルにして燃費を安くしようと思ったのが、タクシーにプロパンが普及して燃費は同じようになったのに車は高い、というので散々の不評を買いました。
 まあ、これは運命的な要素も多分にありますが。
(つづく)



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プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学処分。
15歳で安岡正篤先生門下に入る。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。
 みなさん さようなら  11月13日 】
絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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