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みなさん さようなら

2018.04.05 06:00|社長の軌跡/人に四季あり
1990年(H2) 月刊「NewTRUCK」 4月号
人に四季あり

岡本利雄氏 ③

いすゞ自動車(株) 顧問

技術屋冥利に尽きた
藤沢工場との関わり

増田 乗用車を含めた自動車の総合メーカーとしてのいすゞの夢を託したのが藤沢工場の建設であったと思うのですが、岡本さんはその建設の段階から関わられて、初代の工場長も勤められました。
岡本 藤沢工場は当時の三宮吾郎社長が決断されたもので、建設の一切が取締役技術部長の私に委任されました。
 その時に三宮社長が私に言われたことは、乗用車はあるいは失敗するかも知れないので、小型トラックと客貨兼用の考えでやるように、40万坪の敷地があるが、作る以上は世界で通用する工場に、従業員の働く環境を良くすること、緑化計画をすすめる、の4つの項目です。
 私の上の常務が変わった人で、細かい数字は自分がやるから、大きい数字は君がやってくれ、と言われて思う存分に工場建設に打ち込むことができました。
―― なかなか全面的に委せるということはできないものですが、三宮社長も、その常務さんも立派です。三宮社長に3回辞表を書いたと「みんさんと共に」に書いておられますね。
 1回目は終戦間もない頃、発注した工作機械の具合が良くないので、アメリカに出張する三宮社長に帰る迄に直しておけと言われたのに直せなかった時、2回目は社内の運動会で、2年も社長挨拶のマイクが切れたという時ですね。
岡本 1回目のことがあるので、スピーカーを2つ用意してこれで大丈夫、と人に任せてゴルフに行った後で、また切れた。(笑)
―― 会社の運動会は人まかせで、ゴルフというのは大変な心臓ですな。
岡本 この間テレビを見ていたら、岡山に鳶を自由に呼び寄せる人がいて、NHKがマイクを2つ持って行って録画しようとしたのに、2つとも故障して失敗した、というのがあって、同じようなことがあるものだと感心しました。何か霊感みたいなものがあって妨害したのですかね。
―― 3回目は藤沢工場の建設が進んでいる頃、工場の柱が小さいのではないか、ということに気がついて、徹底的に調べさせてみると、強度計算のポイントの位置が一ケタ違っているのが判明して、千何百本かの柱全部に補強工事をした時、ということになっています。
岡本 ケタがひとつ違うと、強度が2分の1以下になって、50mの風が吹いたら工場が全部倒れてしまうんです。
―― 柱が小さいというのはどこで気がついたのですか。
岡本 川崎工場に較べて、柱の間隔は広いし、軒の高さも1mほど高い、それなのに同じ位の柱ではおかしいじゃないか、ということです。比較の問題ですね。
―― それじゃ辞表どころか、むしろ褒められて当然でしょう。
岡本 辞表は書きましたが、三宮社長は建設屋でもない岡本が専門家にもわからなかったミスを発見したのはえらい、と褒めていたということを聞きました。
 三宮社長にはよく叱られましたが、可愛がって戴いて、肝腎のところではよく使われたものです。
 長崎高商ご出身の立派な方でした。
―― 40万坪という広大な白紙の敷地に工場の夢を描いてゆくのは男の仕事として素晴らしいことだと思います。モデルになった工場はあるのですか。
岡本 ヨーロッパに行ったとき、ザルツブルクのフォルクスワーゲンの工場を訪問しまして、こういう工場にしてみたいと思ったことはあります。しかし、何しろだだっ広い敷地で、空地が多いのです。工場を建設して操業する一方で、柿など実のなる木やカボチャなどの蔬菜(そさい)づくりにも随分精を出しました。
―― 40万坪の土地ですから、畑にしても広いものです。作り甲斐はあったでしょう。(笑)
岡本 当時の三宮社長は月に一度は工場の建設現場を視察して、その完成を楽しみにしておられたのですが、昭和36年11月2日の開所式を終えて、その年末に急逝されました。その頃、工場関係者や従業員に5名の事故死者があったり、重傷者も続いたものですから、思い余って鎌倉円覚寺の朝比奈宗源老師に教えを乞いに参りました。
 老師は工場敷地が古戦場であった歴史から説いて有縁無縁の仏の供養を勧められまして、藤沢の遊行寺で盛大な法要を営みました。
 それから大きな事故はありません。偉大な宗教家はまた偉大な工場の安全管理者であると感心したものです。
―― いすゞは伊勢の五十鈴川からとられたもので、伊勢神宮とはご縁が深いわけでしょう。
岡本 社長は毎年正月に従業員を代表して伊勢詣りをしますし、藤沢工場内にもご神体をお迎えしてお祀りしています。
 この前のご遷宮の後でお詣りした時のことですが、古い方のご神殿の屋根を見ると、点々と杉の苗が芽を出しているんですな。周囲の千年杉の種が落ちて根をつけたのでしょう。あれを頂けないものかとお話しましたら早速10数本送られてきまして、家で2年ほど育てて、藤沢と川崎の工場のお宮の前に移植しました。今ではすくすくと立派に育っています。神宮では、、そんな申入れを受けたのは初めてだとおっしゃってましたが。
―― 40万坪もの工場をご自分で手がけられて工場長として、それからさらに社長としてその成長を見守ってこられた、これは素晴らしいことだと思いますね。
岡本 技術屋としては全く男冥利に尽きます。おそらく私の同窓でもこれだけの体験を持つ者はいないでしょう。
 浄瑠璃をみっちり稽古できたのも工場長の時代で、当時は道路事情も悪くて、自宅から往復に3時間もかかったものですから、車内でおさらいをしました。とうとう運転手さんの方が覚えて、一杯機嫌で忘れていたりすると、次の文句を教えてくれるようになりました。(笑)

体当たりの銀行折衝
GM提携の根回し

―― 私がこの本を出したのは昭和44年からですが、その頃からいすゞは富士重、三菱、日産と次々に提携先を変えまして、最終的にはGMに落ち着きました。
 門外漢の私にはその内情がわかりませんし、いすゞよどこへゆく、天は自ら助くるものを助く、というような記事を書いたこともあります。
 藤沢工場の時と違って、この時には随分ご心痛があったと思いますが。
岡本 その問題の出た頃はまだ専務の時代で、枢機に携わるところ迄はいっていませんで、いすゞの考えというより、主力銀行や行政の指導などで、相手先が変わりました。
―― 自力で立ち直ることができない程に経営が悪化していたわけですか。
岡本 それはもう、このままではダメになるという状況でした。
 富士重と三菱は、片方が入れば片方が逃げるというようなことで不調になり、日産とはある程度の提携が成立していたのです。
 ところが、ディーゼル・トラックでは日産ディーゼルさんよりいすゞの方がずっと先輩ですし、実績もある。日デさんの方では、いすゞにリードされるのは好ましくないというムードがあると伝えられていました。
 藤沢工場では、日産から部品の提供を受けてサニーなどの組立をしていたのですが、私が心血注いだ新鋭工場が単なる工賃稼ぎでは余りにも情けないし、収益面でも大きく寄与することは難しい。
 そうこうしているうちに、GMとの話が取り沙汰されるようになって、GMの研究をしてみますと、社風もいすゞとやや似たところもあるし、何といっても世界一の自動車メーカーです。どうせ下風に立つなら、問題のある日産との提携を解消してGMと手を結んだ方がいい、こう考えるようになりました。それで、社長と副社長の部屋に行って、これこれの事情だから、主力銀行の諒解を取ってほしいとお願いしました。結果はノーという返事です。
 半年ほど経ちまして、社長が替わり、副社長になった私がこの問題の責任者となりました。
―― いよいよ岡本さんの出番ということですね。
岡本 ともかくこのままではいけない、ということで主力銀行の頭取へ再度お願いに行きました。
 いろいろの資料を揃えて、このままでいすゞの建て直しができるとお考えですか、何とかGMと提携して輸出を伸ばし、技術の供与も受けて再建を図りたい、と粘りに粘ってお願いしたのですが、それでもダメだと言われる。
 思い余って頭取、絶対にダメですか、と念を押すと、じいっと上を向いたまま、2分か3分だったのでしょうか、私には5分にも6分にも感じられました。
 「岡本君、世の中に絶対というものはひとつもないよ」
 この言葉を聞いて、有難うございました、とお礼を申し上げ、そのまま帰りました。
―― いいお話です。頭取も岡本さんの至誠と気迫に感じられたのでしょう。至誠は神に通ず、人の心を打つのは当然です。
岡本 それから日産自動車の川又克二社長(当時)にお会いして、現在は提携させて戴いているが、今後については難しい情勢になってきた、何とかGMとの提携をお許し願えないかと申しあげると、わかりました、ただし海外企業との提携にはさまざまの問題があり、私にも苦い体験があります、安易に考えずに、慎重におやりなさい、という有難いお答えです。
 それでわざわざエレベーターまで送っていただきましたが、さすが川又さんだと、心から感嘆したものです。
―― 当事者にしかわからない息詰まるような貴重なお話を有難うございました。次回は、GMとの提携とその成果、社長ご就任後のことなどについてお伺いします。
(つづく)


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プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学処分。
15歳で安岡正篤先生門下に入る。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。
 みなさん さようなら  11月13日 】
絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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