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みなさん さようなら

2018.04.19 06:00|その他月刊誌記事
1990年(H2) 月刊「NewTRUCK」 5月号

中国・歴史とその遺産⑪

天下の絶勝廬山(ろざん)と静かな白鹿洞(はくろくどう)書院
日本にも大きな影響を与えた朱子学


四季すべて廬山の名勝
一瞬見せた天下の絶景

 廬山は、日本でいえば軽井沢と箱根をミックスしたようなリゾート地で、一行の宿舎の廬山別野村は毛沢東も泊まっていたし、蒋介石夫人の宋美齢の別荘は廬山賓館となっている。
 早朝、周辺を歩いてみると、一般の民衆生活とは全くかけ離れたような洒落たホテルや邸宅を見かける。この一帯の東谿(とうけい)は昔も今も特権階級の専有リゾート地らしい。少し離れた西谿は一般人も出入りする観光地のようで、土産物屋や食堂、公園などもある。

 廬山の最高峰は海抜1474mで、それほど高い山ではない。切り立った断崖の上は広い台地になっていて、そこに別天地が広がる。
 避暑地として有名で、「春の山は夢の如く、夏の山は滴(したた)りの如く、秋の山は酔うが如く、冬の山は玉の如く」と形容される。
 春は雲や霧に包まれて夢幻の世界のようで、夏は緑したたる美しい翡翠(ひすい)のよう、秋の紅葉は少女がお酒を飲んだみたい、冬は木々が雪に包まれて白玉に似ている、というこの表現は、さすが詩文の中国のものであろう。

 この言葉のとおり、晩春のこの日の朝はすっぽり雲霧に包まれて、10m先も見えないほどだったが、バスで下山するとき、ほんの数秒、ガスがきれいに霽(は)れて廬山の断崖から下界を望むことができた。これこそ南画山水画の世界である。
 400のカーブがあるというガスに包まれた急坂をバスはぐんぐん下ってゆく、この日野製のバスは、今回の中国旅行で乗ったものの中で最高だった。廬山の定期バスは他の路線バスとは比較にならないグレードの高いものだった。カーブの多い急坂や、外人も訪れるリゾート地であることを考慮しているのだろう。下界は日本によく似た田植え時の水田風景である。

1200年の歴史の書院
朱子講学天下第一の学校

 今回の中国旅行の最後で最大の見学地が廬山の南にある白鹿洞書院である、といっても一般の人には殆ど縁のないところで、この日もわれわれ一行の他に人影を見ることはなかった。



 山崎道夫東京学芸大学名誉教授を団長とするグループは、東京湯島の聖廟で毎週1回、先生から論語のお話を拝聴している師友なのである。
 湯島の聖廟は幕府直轄の学問所で、現在も論語やその他の定例講義があり、儒学についての研究機関「斯文会」を持ち季刊誌「斯文」を発行しており、私もその末席に連なっている。

 徳川家康は儒学者の藤原惺窩(せいか)や林羅山を重用して、大いに学問を奨励した。林羅山の家系が大学頭として代々幕府の学問所である昌平黌(しょうへいこう)を主宰し、そこで教授されたのは当然儒学であり、仲でも朱子学を正学とした。この道統は現在も引き継がれていて、山崎先生の論語の講義は朱子学による解釈で行われている。
 白鹿洞書院は、その朱子学にとって、非常に重要な場所なのである。
 白鹿洞は朱子学の聖地ともいうべき地で、その歴史は朱子学以前に遡る。

 唐の徳宗(779―805、日本の桓武天皇の時代)の頃、李渤(りぼつ)は廬山で書を読み、いつも白い鹿を従えて、このあたりにいたので、白鹿洞と呼ぶようになった。これにちなんで現在も石の白鹿が洞の中に置かれている。李渤については前月号の九江の甘棠(かんとう)湖に交通と灌漑の便のため堤を築いた人物として紹介した。
 唐滅亡の後、五代の後唐の時、初めて学館を建て、廬山国学と称して栄えた。今から1000年ほど前のことである。五代の末の兵乱で衰えて、我々が最初に訪れた開封に都を置いた北宋の太宗が白鹿国学として復興した。

 北方民族の建てた遼に北宋は南に追われて、また衰微していたものを孝宗の時代に朱熹が大修復して、多くの蔵書を持ち、学生を集めて教育した。さらに勅額も下賜され、沢山の学者も集まって天下第一の学校となった。今からおよそ800年ほど前、日本では平家全盛から鎌倉時代初期の頃に当たる。
 明・清の王朝も書院を建てたりして保存に力を入れ、先頃の文化大革命では相当ひどく破壊されたらしいが、ほぼ修復は完了しているようだ。

孔子・論語ブーム出現
儒教の体系化の朱子学

 ここで儒教と朱子学について少し解説しておきたい。
 井上靖氏の『孔子』が売れに売れて50万部を突破、70万部までゆくだろうといわれている。この種のお堅い本としては空前の売れ行きらしい。

 2月20日、大阪で開催の論語公開講座のふたりの講師のひとりとして講義した。テキストを持参する必要から前日、主催者にどれほどコピーしてゆけばいいかと聞いたところ、100部もあればという返事だった。実際の聴衆は180名余り、椅子やコピーの追加で主催者は嬉しい悲鳴を上げた。
 おそらく『孔子』の爆発的売れ行きのおこぼれということもあるかも知れないが、孔子なり論語に対する関心が高まっていることは事実だろう。

 孔子が活動したのはほぼ2500年前で釈迦とほぼ同時代、キリストはその後500年ほどである。
 中国では紀元前の前漢の頃から儒教を重用して、国の正学とするようになった。本誌に連載中の『論語』の解説でもおわかりのように、孔子の教えは人としてどう生きるべきか、政治をどう行うべきかを説いたもので、項目を立てて、体系的に組み立てられたものではない。
 従って、その教えを学ぶといってもどう読むか、解釈するかのいわゆる訓詁(くんこ)の学や、詩文など芸術分野に目的が向けられることになった。唐時代に詩が頂点に達したのは、文人が哲学的思弁よりも、創造的活動に専念することができたのが大きな原因だろう。

 ところが、体系的な思弁方法を持つ仏教がインドから伝来したり、老子や荘子からスタートした呪術や神仙思想を持つ道教が発達したことがあって、儒教もそれらの影響を受けながら、体系的な理論の構築を図るようになった。
 その儒教の新しい動きが起こったのは北宋の時代であり、南宋の朱熹(しゅき)に至って、先行の人達の学説をまとめて完成した。この学問体系を宋学または朱子学という。(朱熹を尊敬して朱子という)
 朱子には多くの著書や編著があり、その中でも、先行の人達の論説をまとめた『近思録』と、白鹿洞書院の学生に示した『白鹿洞書院掲示』が、朱子学の精髄を最もよく表しているとされる。

 その後、中国、日本、韓国でも朱子学が儒教の正学として、官僚育成教育の根本に据えられたことから考えても白鹿洞書院の持つ意味合いは非常に重いのである。

戦前の修身教育に生きていた朱子学
 では朱子学とはどういうものか。この説明が難しい。特に、戦後の教育を受けた人に対しては尚更である。
 白鹿洞書院の資料室に掲げられている「忠孝、孝弟、忠信、礼儀、廉恥」の文字は、戦前の教育を受けた人にとっては、お馴染みだが、現在の日本ではすっかり姿を消したものである。
 「忠孝、孝弟、忠信、礼儀、廉恥」のいずれも戦前の重要な必須項目で、余り面白くはなかったが、奇妙に頭に残っている『修身』は大体これらの徳目を教えるものであったし、式目に校長先生が奉誦した「朕惟ウニ…」の『教育勅語』もこの線に沿っていた。
 明治維新で、欧米の知識重視の教育が大幅に取り入られたが、精神教育の面では江戸時代以来の朱子学の伝統が色濃く残っていたのである。

 白鹿洞掲示(学規ともいわれる)はごく短いのもので整理すると次のようになる。

五教の目
  父子親有り
        君臣義有り
        夫婦別有り
        長幼序有り
        朋友信有り

学を為すの序
  博く之れを学び
           審(つまび)らかに之れを問い
           慎しみて之れを思い
           明らかに之れを辨(わきま)え
           篤く之れを行なう

修身の要  言 忠信
        行 篤敬
        忿(いかり)を懲らし慾を塞(ふさ)ぐ
        善を遷(うつ)し過ちを改む

事を処するの要  その誼(ぎ)を正しくしてその利を謀らず、その道を明らかにしてその功を謀らず
物に接するの要  己の欲せざる所は人に施すなかれ 行いて得ざるあれば、これ己に反り求む

 何やらお説教じみた小うるさい項目が並んでいると思われようが、最後の要目など、「我が身をつねって人の痛みを知れ」「男らしく責任をとれ」ということである。
 この白鹿洞書院掲示は人間社会のあり方、学問や身を修め、世の中に処するための根本原則をまとめたものであることが理解できよう。

 朱子はまた「小学」を作った。
 その序文に「古は小学・人を教うるに、灑掃(さいそう)・応対・進限の節、親を愛し長を敬し師を尊び友に親しむの道を以てす。皆、修身・斉家・治国・平天下の本たる所以(ゆえん)にして…」とある。
 私の論語月例講座は9年目に入ったが、講義の前後に必ず「起立・礼・着席」の号令がかかる。セミナーや講義は数多くあるが、どれだけ「礼」が実施されているだろうか。
 これらの教えは私達から遠ざかったようだが、その伝統はやはり根強く日本の社会に存在しているように思う。

学達性天
                     「学達性天」 清・康熙帝筆
完璧の教育環境の書院
松下村塾の師弟を憶う

 「『白鹿洞書院掲示(学規)』あるいは『小学』は、これから学問をしようとする青少年に対して、その日常の目的を丁寧に示したものである。

 朱子学の学問を示すものとしては先に挙げた『近思録』その他の資料がある。
 それによると、宇宙には理と気のふたつの元があり、すべてのものは気を受けて形を成し、理を受けて性を成す。人の本然の性は善であるが、気質の清濁によって賢愚の別があるから、人は気質を変化してその本然の光を表さなければならない。
 その方法として、居敬と窮理のふたつの項目を提唱する。
 居敬には内外二面についての省察と静坐の工夫があり、窮理の方法は読書を重要なものとして、両者は相まって自己の感性を達成するものとした。
 この居敬と窮理のふたつの中では、特に窮理を先行すべきものであるとしたので、朱子学は先知後行説をとるものとされ、後の明時代に王陽明の唱えた知行合一説と対比されることになる。
 上の写真の「学達性天」(学ベバ性ハ天ニ達ス)は康熙(こうき)字典で知られる清の文化人皇帝康熙帝の書である。学問によって、人の性は賢人、聖人から、至高至徳の天に達することができる。人・人徳を一となすの境地に至るというものである。聖人は天成のものでなく、学ぶこと、努力によって到達することができる、というのが朱子学の主張である。

 朱子やそれに先行する人達にとって、学問を宮仕えして出世するための手段とは考えなかったのだが、為政者にとって、行動よりは先ず学べ、とする朱子学を教え込むことは、官僚や民衆をコントロールするのに役立つことになる。
 知ることと、行動することを同一次元で捉えようとする陽明学が時に危険視されたのは当然であった。

 中国は高等文官試験の科挙に合格して進士の資格を得なければ、高級官僚にはなれなかった。白鹿洞書院が盛大になり、多くの学生が学ぶようになると、朱子の志とは必ずしも合致しない科挙の予備校的な役割を果たすことになっていった。書院内には進士に合格した人達の感謝の碑文が多くあるが、合格しない学生はさらに多かったに違いない。

 書院の前には清冽(せいれつ)な小川があり、緑の濃い樹林に包まれて、学問をするには最高の環境である。
 礼経殿、明倫堂、御書閣はじめ沢山の建物があり、孔子とその高弟達、そして朱子の像なども安置されている。
 団長山崎先生は、その像の前で感激の講義である。掲示は禁止条項を並べた規制とは違うと、吉田松陰の士規七則なども引用してのお話であった。

 白鹿洞書院を訪ねてからほぼ半年の後、山口県萩の吉田松陰の墓前祭に参列して、松下村塾を参観する機会を得た。
 白鹿洞書院に較べると、松下村塾は余りにもみすぼらしい。しかも、松陰が講義した期間はごく短時日であった。
 朱子が精緻(せいち)な学問体系を立てて、よく整備された学舎で多くの学生を教育したのと、松陰の松下村塾、この両者は教育のあり方について考えさせられる実に大きなものを持っている。松下村塾は、吉田松陰という純粋で火の玉のようなリーダーを得たことと維新前夜の大きな時代の変換期に際会した特異な例であろう。しかし、その背景となった江戸時代の儒教、特に朱子学による学問の素地について、我々は大きな評価を与えねばならない。


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プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学処分。
15歳で安岡正篤先生門下に入る。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。
 みなさん さようなら  11月13日 】
絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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