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みなさん さようなら

2018.05.17 06:00|社長の軌跡/人に四季あり
1990年(H2)月刊「NewTRUCK」5月号

社長の軌跡 〈古往今来〉こおうこんらい 終わり
自動車精工 堀 正樹社長
― 技術の源流70年 父子二代の開発精神 ―

ヒット商品セイコーラック
新分野にも積極的に進出を

増田 飼料運搬車の次に主力製品に登場したのが、アオリ開閉装置の“セイコーラック”ですが、その考案者は誰なんですか。
  オヤジとボクの親子合作というのかな。
 これの開発の契機は長距離大型フェリーが登場して、各港で使用するランプウエイを移動可能なブロック組立式で作ることになり、これを請け負って、いろいろ話しているうちに、大型トレーラのアオリ開閉が大変だということを聞いたわけです。
 それ迄にもトラック大型化に対応してアオリ開閉補助装置はいくつかあったんですが、機能的にはいまひとつだったようです。そこで、私が原型のアイデアを考えてオヤジに相談、フランス仕込みの“からくり”が好きなオヤジがうまく仕上げてくれました。それを工場の技術者がうまく製品化してできたのが“セイコーラック”です。
 うちの会社はキャブオーバーシャシをメーカーが出してから、一般のカーゴを作る車体メーカーさんとのおつき合いが殆どなくなっていたのです。アオリの機能部品を作ることになって、いろいろ教えて戴いたり、販売にご協力をお願いすることになりました。最近商品化した回転型中柱はその好い例だと思います。
―― “セイコーラック”は、トラックボデーの機能部品の中でヒット商品ですね。現在も伸びていますか。
  アオリつきの普通トラックは減っていると思うのですが、最近急速に普及しているウイング車のアオリにも取り付けられるし、中型車にもということで、伸びていますね。売上げからいうと半分近くになりますか。
―― 開発商品の機能部品で全体の半分の売上げを占めているというのは大したものです。
  今ではトラックだけでなく、建設業界や、産業機械にもかなり使われるようになってきました。
―― 新しい材料を使った幌材なんかもでてきていますし、アオリはまだまだ根強い需要を持っていますから、セイコーラックはこれからも伸び続けるでしょう。
 ただ、セイコーラックが出たのが昭和50年、15年前のことです。それからセイコーラックのようなヒット開発商品に恵まれていない気もしますが。
  うちは発足以来下請型企業でなくて、オヤジ以来の技術の伝統を武器にした開発型の企業で、そのために昭和53年には、精工技研を設立しているのですが、セイコーラックの成功に気を許したところがあるかも知れない。ただ、今までの開発と商品化の歴史と見ますと、運のあるなしが大きいように思われます。
 ウイングの機能ユニットや“中柱クルット”などの開発商品もあります。
 また最近は英国の車輌メーカーとの間の作業機や、大手建設会社と提携の土木機械の共同開発といった新しい分野も手掛けています。
 トラックシャシに架装する特装メーカーからの変化も進みつつあると思います。

70年に及ぶ技術の流れ
自動車から外の世界にも

―― 開発型の企業というのは経営がなかなか難しいと思うのですが、自動車精工の設立から36年間、ご尊父の技術開発尊重の精神を堅持しながら現在までやってこられたのは立派なことだと感心します。
 社長の経営方針というか、理念はどういうものですか。
  理念という程のものじゃないですが、自分がよその会社に勤めて束縛されたくなかったのだから、社員にものびのびと自由度を持って、それぞれの考えを生かしながら仕事をやって貰いたいと思っていますね。
 技術的には高度に、地域は全国的に、市場は小さく、その中でのシェアは高く持って、無駄な競争はできるだけ避けたいし、生産財ですからユーザーに利益になって、それで儲けが出れば皆で分けよう、という姿勢です。
―― 開発型の企業としてはそうあるべきでしょう。
  うちは組織がフラットだし、部長とか課長の呼び方がなく、社長以外は、さん、君で呼んでいます。夏休みは30年も前から1週間とか10日間とか皆でまとめて取るようにしていますし、残業も殆どありません。
―― それは大変なことです。やはりひと味違う。
  うちは会社設立から36年です。オヤジがヤナセさんや犬塚さんにお世話になって、乗用車や特装車を作ってきた、それがうちの技術の源流です。
 私も5、6才の時分からヤナセさんのビュイックやキャデラックの試運転で日光や箱根へ度々ドライブしたり、犬塚さんに可愛がられて、お宅や工場へ出入りして、自然に自動車の世界に入っていきました。
 まあ、考えてみると、オヤジも私も、それから私共の会社もヤナセさん、犬塚さんの影響を受けて、その延長線上にあるとも言えますね。
―― 技術の源流とその維持発展がひとつの企業の中に脈々と生き続けているのは素晴らしいことです。その源流のご尊父の最近はいかがですか。
  もう98才で、殆ど横になったきりになりました。
―― そうですか。ここでお会いしてもう2年余りですが、足の具合がお悪かったですね。 フランスに行かれてすぐルノワールが死んで、モジリアニはまだ生きていた、ピサロの絵が好きだ、70歳過ぎて北朝鮮へ行って、このまま指導してくれないかと引き止められた、などと面白いお話をお聞きしたのは、20年前のことになりました。100歳も、もっと長生きして戴きたいですね。
 弟さん(俊彦氏)はお元気ですか。
  去年10月、亡くなりました。
―― それはそれは。リフトの社長なさってたし、よくお会いして飲んだりしました。社長より多く会っていますね。社長とはかなり肌合いは違いました。
  人気はありましたね。人を疑うことを知らず、一所懸命人のために尽くす男でした。経営者ではなく、いわゆる起業家でしたね。先だっても、何十人もの方が偲ぶ会を開いて下さいました。
―― 夢があって、多少乗せられ易いところがありましたが、それがまた魅力だったんでしょう。
  私は経営者ですから、慎重にならざるを得ないところや、難しくいかなければならないところもある。オヤジは怒ったことがないですね。
―― 人気と経営は別なものだと思っています。
 休日など、どうして過ごしておられますか。
  昨今は庭いじりや畑作に精を出しています。いま時分からは芝生に風呂の腰掛けを持ち出して一日中、草むしりをしたりします。新しいアイデアもこんな時に湧いてきますし、無念無想になるのもこれが一番です。まあ、最近の東京では多少贅沢な暇潰しかも知れません。
―― 草むしりは座禅みたいなものですか。ゴルフなんかは。
  クラブは何本か持っていますが殆どやらない。碁も3級どまり、この頃は石を握る機会も気持ちも余りない。歌を唄うのも伴奏音楽外して書生っぽいのをやる程度です。
 山歩きは好きで、小さな木を庭に移植して成長を楽しむものだから、庭は雑木林です。盆栽は好きじゃないですね。あれを小宇宙という人もあるが。
―― 伸びようとするのを無理に矯(た)めて、ひとつの方にはめてゆくのでしょう。
 もうそろそろ後継者を考えねばならんのじゃないですか。
  いろいろの方からご心配を戴いているようですし、社内でも将来に不安を持つ向きもありまして、日立に勤めている婿さんが手伝いましょうと言ってくれています。それに長い間、自動車関係の仕事をやっていた人が来てくれるというので、安心したところです。
 それと、来年は川口工場に移転して20年になりますが、桶川に新しい工場を建てる計画が進んでおります。
―― 自動車精工の新しい時代が始まるのを期待します。
今日はお忙しいところ、有難うございました。


   
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プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学処分。
15歳で安岡正篤先生門下に入る。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。
 みなさん さようなら  11月13日 】
絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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