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みなさん さようなら

2018.05.31 03:23|社長の軌跡/人に四季あり
1992年(H4)月刊「NewTRUCK」5月号 
『社長の軌跡』

(株)矢野特殊自動車
 矢野羊祐社長

飛行機に憧れた少年の夢を車に託した先代創業者の温故知新、
これからはドシドシ外にも出て伝統企業に新しい息吹を


増田 これ迄は東京などへも余り来られなかったようですが、外へ出るのはお嫌いですか。
矢野 とんでもありません。
 今度も増田さんの出身地の高知のある四国や岡山地方を本当の駆け足で廻ってきました。
 入社以来、ずっと資材、外注、生産と現場を見てきていましたから、、外へ出る機会があまりなかっただけです。その中で、増田さんが主催なさった「第12回呉越会セミナー」に参加させて戴いて、広島から宇部へ廻ったことが印象に残っています。
―― 昭和58年のことで…。赤司会長(新作氏)が車体工業会の方へもずっと出ておられて、社外と社内と役割はそれぞれ分担されていたと思うのですが、社長は外に向けての顔も大事ですから、これからドシドシ外へ出られるといいですね。
矢野 福岡を離れたのは鹿児島の大学へ行っていた4年間だけですから、地元には父の関係も含めて随分沢山の知り合いがあります。これからは自動車関係の方々との交流を深めてゆきたいと思って実行に移しているところです。
―― 社長にご就任になってちょうど2年ですね。矢野特殊は長い間、赤司さんの強力なリードで動いていた感じを受けます。
 矢野社長職を出してゆくのはこれからでしょうが、この点については。
矢野 人にはそれぞれの考えや個性もありますし、置かれている時代背景も違います。
 赤司会長は戦後の激しい労働攻勢にさらされた時に労働コンサルタントの立場で父(倖一氏)と母(栄さん)の要請で経営を見て頂くことになって、昭和28年に専務に就任されてからずっと会社を見ておられました。特に母とはウマが合ったようで、この工場の前の唐の原の工場ができた翌年の昭和41年に母が死亡する迄、何くれとなく母と相談していましたね。
―― 私が赤司会長からお話を聞いたのが昭和46年、専務の頃でしたが、一手に会社を切り回しておられる感じでした。(「第19回周作対談」昭和48年1月号に記事掲載)
矢野 人間に完璧を求めることはできませんし、良いとか悪いとかいうのではなくて、是正すべきものは是正してゆく、ずるい考えかも知れませんが、お膳立てして貰っていますし、指導して頂いたことも貴重な財産として生かしていき、その意味からも非常に恵まれていると思います。
―― 矢野特殊の創業はもちろん先代の倖一さんですが、赤司会長の長い時代があって、血筋では2代目、社長としては3代目の登場です。
矢野 上から号令して引っ張ってゆく方じゃないですね。分かり易い目標を設定して社員と一緒に進んでゆこう、頑張ってゆこうということです。
―― カリスマ的なワンマン的なリーダーが必要な時もありますし、合議制、全員参加方式のリーダーの方がいい場合もあります。ひとりの人間がその時その時の情況に応じて使い分けができるといいのですが、これは難しい。
矢野 ナポレオンの言葉であったと思いますが、負け戦を言いさえすれば済むという感覚では困る、どういう状況であれ、トップの耳に入れておかねばというのが合議制であると、はき違えてはいけないと思います。
 よく言ってくれた、という考えを私も持っていましたが、言うより先ず守れ、これ以上もうどうにもならないところ迄、やるだけやることが大事で、その努力をしないままで持ってこられても対応に苦しみます。
―― これは経営のポイントになる重要な課題でしょう。その人その人の置かれている立場や、同じポストであってもその問題の捉え方、判断の仕方に差が出てくるでしょうし、会社にとって本当の大事であるか、担当ベースで処理できる小事か、問題にする迄もない些事であるか。何でも大変だ、大変だと騒ぎ立てるのも困るし、本当の大事を言わないのは尚困ります。これは軍隊でも同じ事だと思いますが。
矢野 風穴は開けておかなければ、とは心に銘じています。

矢野特殊 アロー号
     写真左: シャシ完成のアロー号と資金提供者の村上義太郎氏(左) 矢野倖一氏(右 当時24歳)

現存最古の自動車を作った先代の創業者
―― 先代の矢野倖一さんには昭和46年7月、唐の原の前の工場にタンクローリの新工場を作った披露の時にお会いしました。その時には現存する国産最古の自動車“アロー号”も展示されていまして、矢野さんにはじっくりお話をお聞きしたいと思いながら実現しないまま、昭和50年に亡くなられました。
 社長から見られたお父さんはどういう方だったんですか。
矢野 “温故知新”古きものを温めなきゃいかん、古きものの中から新しきものを求めてゆくのだ、父は常にそう言うとりました。海外は歴史とその遺産を大事にしていると羨ましがってもいましたね。
―― そういうお父さんも相当な新しもの好きだったのでしょう。飛行機に取りつかれたり。
矢野 こちらで言う川筋、遠賀川筋の造り酒屋の倅が、工業学校に進んで模型飛行機作りに熱を上げて、飛行機大会に出品して甲賞つまり最優秀賞を貰っています。
 この時代は徳川・日野両大尉が初めて飛行機に乗って飛んだ(明治43年 1910)ことで飛行機熱が高まりまして、その日野大尉が少佐になって福岡連隊に勤務されていた当時のことで、父が日野少佐に激励されたことが新聞に載りました。
 この新聞記事を見て、当時九州財界の怪物と言われた村上義太郎さんが、父に飛行機はまだ危険であるから自動車をやるように強く言われて、空から陸に方向を変えました。
―― 先代が亡くなられた時、追悼記事を書くため、いろいろな資料を送って頂きました。村上義太郎は大変な人物ですね。
矢野 百年は早いといわれた人物だったようで、村上水軍の末裔と称して、それ迄は馬の背に頼っていた運搬を車力(しゃりき)に変えて、西南戦争の官軍の軍需品輸送で大儲けして、人力車の組合を作ったり、電力会社に関係して、博多港に私設の灯台を作ったりしています。
―― それ程の傑物、怪物が一介の工業学校生の青年をわざわざ訪ねてきて自動車を作るように説得したのは凄いですね。人力車から自動車へ切り替えの考えがあったのでしょうか。
矢野 村上さんの全面援助で失敗を重ねながら“アロー号”が完成したのが大正5年です。
―― 今から76年前ですか。
 “アロー号”は国産車では第4号と言われていますが、その現物がちゃんと残っており、福岡市の博物館に飾られているのは素晴らしいですね。“アロー号”の次に残っている国産車は何処にあるか知りませんが、ずっと後のことになるでしょう。
 この車が残ったのは先代の並々ならぬ愛着心の上に、先代のお作りになった会社が現在まで続いて、その保存に力を尽くしたことも大きな力になったと思います。
矢野 実は最近分かった事ですが、1975年ハンガリー(マジャール)オートクラブ75周年記念として切手が出され、世界のクラシックッカー6枚組の中にアロー号が、日本代表として取り入れられており、光栄に思っています。

オートクラブ 切手

      ハンガリー オートクラブで1975年に発行されたクラシックカー切手6枚に採用の“アロー号”


―― 乗用車は“アロー号”迄でその後はダンプなどの特装車の架装に移っていますね。
矢野 大正9年に柳瀬商会の福岡支店の依頼を受けて、ワイヤーロープで荷台を吊り上げる方式のダンプを開発して熊本県に納入しています。これがわが国で一番古いダンプじゃないかと思います。
―― 特装車では最も古い歴史の犬塚製作所で技術を担当していた堀久さん(平成3年4月99歳で死去)のお話で、ダンプを作ったのは関東大震災の後だそうですから、わが国では最古のダンプでしょう。
 大正時代の特装車としては消防車が東京消防庁に保存してあって、トラックショーに出品しました。
矢野 うちでも消防車を作っていた記録が残っています。大正11年に矢野オート工場というハイカラな社名を付けて特装車生産に乗り出して、ちょうど満70年になります。
 戦争になって、海軍直轄の管理工場になり、従業員も軍人を含めて200人にも膨れ上がり、トヨタから専務を迎えて東京にも事務所を持っていました。それ迄は技術屋の父が工場を一切取りしきって母が帳面を見る状況でしたが、急に規模が大きくなって、上海や大連に行く錨のマークの付いた海軍の車が並んでいたのを覚えています。工作車のようなのが多かったですね。
―― 敗戦で海軍からの発注がなくなって困ったでしょう。
矢野 アメリカがやってきたら真っ先にやられるだろうと逃げたのですが、PXガレージを仰せつけられシビリアンが持ってくるピカピカの外車の整備やジープの改造、また部品もなかったのでピストンリングからコンロッド、割メタルなどの部品作りもしていました。筑豊の石炭も活発でダンプの需要もあって、従業員30名位の規模でやっていた昭和26年に、戦闘的な労働運動を展開していた総評の自動車産業労働組合が九州の標的にうちを選んで、共産党バリバリのオルグを打ち込んできました。
(つづく)


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プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学処分。
15歳で安岡正篤先生門下に入る。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。
 みなさん さようなら  11月13日 】
絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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