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みなさん さようなら

2018.06.04 06:00|社長の軌跡/人に四季あり
1992年(H4)月刊「NewTRUCK」5月号 
『社長の軌跡』

NewTRUCK1992年5月号

      写真左: 矢野羊祐社長  右は “アロー号”を整備する晩年の矢野倖一氏 

(株)矢野特殊自動車 矢野羊祐社長 ②

鹿児島の大学で山登り
入社時はダンプ大忙し

増田 労働争議の解決に赤司さんがお入りになって矢野特殊は新しい時代を迎えました、社長は学生時代で。
矢野 そうです。私の頃は学制切替えの頃で、旧制の中学最後の生徒で3年済ませて新制高校3年、中学では後輩がいなくて頭を押さえられたままです。(笑)
―― 鹿児島大学に行かれたのは何か事情があったのですか。
矢野 東京や大阪に出したら何をするやらわからんと思ったのか、鹿児島に父の知り合いがいるから行けということで、まあ、体のいい島流しです。(笑)
―― 鹿児島大学は藩校造士館からの旧制第七高等学校の跡で、今は歴史資料館の黎明館になっているところでしょう。桜島の噴煙がすぐ前に見えて、七高生の銅像がありました。
矢野 よくご存じで。橋を渡って石段登ったところの七高時代のままの木造の古い校舎で、この校舎は在学中に焼けました。七高の名物教授といわれた先生方がまだおられたし、七高時代から残留の猛者(もさ)が寮なんかにいて、ストームでバンバンやられたりしました。
―― 薩摩健児、隼人(はやと)の国ですし、蛮カラな風習はまだ学校に残っていたでしょう。
矢野 目の前に桜島はあるし、当時は噴煙も今のようじゃなかったですから、春夏秋冬登ったし、屋久島、高隈山、霧島だとか九州の山へはよく登りました。
―― 昭和27年入学で、31年卒業、すぐ矢野入社ですか。
矢野 いや少し道草食っています。どうしても神戸に出たくて、神戸大学経済学部の大学院コースを目指したのですが、赤司さんからそれ以上勉強してもダメ、実務優先だと止められ、志をひるがえして会社へ入りました。
―― 経済学をもっともっと究めて、学者になろうと思ったのですか。
矢野 いや、神戸、横浜、長崎に憧れのようなものがあって。
―― ロマンチストなんですな。
矢野 昭和31年の12月1日の変則入社で、現場に放り込まれて徹夜、徹夜の連続でした。当時はまだ炭坑時代の残り火のようなものがあって、ダンプが結構忙しかった。冷凍車やタンクローリは少し後からです。

多種生産の効率化が課題
見通し明るい九州の展望

―― 社長が入社されてから35年、ダンプは早い時期に撤収しておられます。生産機種は随分多くなっていますね。カーゴ系、ローリ系、作業車系にわたって国内で一番多くの機種をお持ちだと思います。これは幅広いユーザーニーズに対応できる強味がある反面、多品種少量生産、一品生産的なものが多くなって効率生産に問題が出てくる、この点はどうお考えになりますか。
矢野 お客さんのご要望を充分に消化できればいいのですが、生産体制の対応はなかなかで、これは難しい課題です。
 お客さんのご要望に応えながらノウハウを蓄積してここ迄やってこられたのですが、前にこんなの作って貰った、今度は少し変わったものとご要望が次から次へと出てくると、果たして充分に対応できるかどうか。やれます、やれますと技術力だけが前へ出てカタがつくことでもありませんし。
―― 九州が治外法権みたいに中央メーカーが入ってこないのならいいですが、地域の経済力も向上して、特装車の使用台数も増えてきますと、中央メーカーも九州市場を重視するようになってきます。逆に矢野さんの方でも、中四国、近畿の四日市あたりまで進出して、市場が広域化、交錯してきています。
矢野 幸い私どもは長い間ご支援を戴いた沢山のユーザーさんがあって、これが強味ですが、それに甘えることは許されませんので、ある程度量産的車種の生産効率向上と、一品生産的車種の受注消化をどう両立させるか、これからの課題です。
―― 今日午前中、福岡県トラック協会の会長で博運社の真鍋会長とお話ししていたのですが、福岡県はイベントが次から次へと続いているし、大いに期待が持てる地域だそうですから、本拠を地元に置いているのは何よりの強味でしょう。
 これからの市場を見ますと、矢野特殊自動車はある程度に生産車種を絞り込んで、一品生産的なものは、矢野特殊の中のもうひとつ特殊なものばかり手掛ける部門を作るか、それぞれの専門メーカーと提携した商社的な機能を持つ会社を作って、ユーザーのニーズに対応する、そういう行き方もあるのではないかと思いますが。
矢野 たしかに九州は製鉄、炭坑からハイテク、自動車へと次から次へと産業が興って切れ間のない感じで恵まれていますし、これからの発展も期待されます。今、おっしゃられたことも含めて、私ども地元の車体メーカーの果たす役割は大きいと覚悟を新たにしています。

交通は行通の先代
謡と鼓で夫婦共調

―― 社長に就任されたのが通常のサラリーマンなら定年を迎える年齢で、とても閑日月を楽しむゆとりはないと思いますが、先代は赤司さんに経営をお任せになってから、よく海外に出られたようですね。
矢野 そうです。ポンペイに行った時には、2千年前のわだちの跡を見て感心して、「交通は交わるのではなく、ゆく行通でなければならない」が持論で、工場の塀に「交わらぬ行通、ゆく行通」と看板屋に大書させて、警察に苦情をつけられたり、また「行通の字句改正について」と題して先進の一方行通論を自動車技術会誌に発表していました。
―― ポンペイには私もこの暮れに行きまして、横断歩道までちゃんとあるのにビックリしました。旅はいいものです。
矢野 海外でなくても仕事で地方へ出た時に、地方の文化に触れたり、県民性のようなものを感じたり、味覚を楽しむことができるのは有難いことですね。
―― 狭い日本でもそれぞれの地域の特色もあり、料理や地酒もあって、嬉しいものです。私もそれが楽しみで、こうして出ているようなものです。
 謡をおやりだそうで。

1992年5月号 社長

             写真左: 喜多流幸扇会での矢野社長 最前列 右は鼓の久幾枝夫人


矢野 母が鼓をやっていて、社員の結婚式にも役立つから習えと推められまして、喜多流の宗家ゆかりの粟谷先生に習っています。家内も鼓を打ちます。
―― そりゃいいですね。うちは女房が碁をやり出してまして、生きた死んだなんて、時には盤を囲みます。
矢野 私も学生時代少し打ちましたが、碁はいいですね。私は碁の言葉が好きで、経営にも通じるものがあります。
―― 死中活有り、布石の妙とか、捨石とヨセの大事さとか、いろいろあります。
矢野 気の合う人と一杯やるのもいいものですよ。
―― これはもう最高、言うことなしです。一度ゆっくりやりましょう。今日はどうも有難うございました。
(おわり)


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プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学処分。
15歳で安岡正篤先生門下に入る。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。
 みなさん さようなら  11月13日 】
絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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