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みなさん さようなら

2018.06.11 02:36|その他月刊誌記事
1992年(H4) 月刊「NewTRUCK」 5月号

忙しいと言ってはならぬ
佐藤一斎(いっさい)

 いま、織田信長がブームになっている。時代を見抜く洞察力と果断と実行力によって群雄に先駆けて天下の覇者になるかに見えた。しかし、己の才能と天分に自信を持つ信長は、仁とか徳の観念に到達する以前に、自ら引き立てた明智光秀によって中道で斃れる。
 バブルが崩壊した今、ひたすら富と利を求めるだけの経営は行き詰まりを露呈している。本当の力、利は道義と徳によるものでなければならない。お酒の徳利は言い得て妙である。あの人はやり手だと評価されるより、人徳があると言われる方が望ましい。徳は得につながる。

三十而立(じりつ)六十耳順(じじゅん)と一斎
 今から30年余り前の大阪で新聞社勤め時代、私はある早朝読書会の世話役をしていた。故安岡正篤先生の教学を奉じる人達によって「関西師友協会」が結成されたのが昭和32年。(つい先日35年記念祝典が開催された。)青年部長を2年ほど勤めた後、30歳代から40歳代の壮年層を対象に而立(じりつ)クラブを結成して早朝読書会に取り組んだ。
而立とは論語の中の、

 吾十有五而志学
 三十而立                 
 四十而不惑
 五十而知天命
 六十而耳順   
 七十而従心之欲所不踰矩



  吾十有五ニシテ学ニ志シ
  三十ニシテ立チ
  四十ニシテ惑ワズ
  五十ニシテ天命ヲ知リ
  六十ニシテ耳順(したが)イ
  七十ニシテ心ノ欲スル所ニ従イテ矩(のり)ヲ踰(こ)エズ

からとったもので、青年期を過ぎて、いよいよ自己の確立に取り組む年代に入り、大いに勉強しようとの意気込みからの命名だった。

 毎月第一木曜日の朝6時半から開いたので、読書会の名称は「一木会」で、論語の
   剛毅木訥(ぼくとつ)仁ニ近シ
の「木」の意味も含んでいる。会場は大阪市北区にある天満宮、大阪で言う天満(てんま)の天神さんだった。6時半に集合して先ず拝殿に端座、神官の祝詞の後にお祓(はら)いを受ける。冬の6時半はまだ暗くて、開け放しの拝殿の冷気は厳しい。闇の中の仄かな灯明に浮かび上がる白い神官の姿が印象的で記憶に残る。

 この而立クラブの早朝勉強会である「一木会」で参加者が順番に読んでいったのが、これからお話ししようとする佐藤一斎の『言志四録』だった。3年位かけて全部を読み通した気がする。
 その後も佐藤一斎と『言志四録』については安岡先生からお話を聞いたり、いろいろの立場の方の著書を読む機会はあったが、6年前から急に一斎が身近に感じられるようになった。

 昭和61年、耳順つまり、満60歳の還暦を迎えることになって、自動車車体通信社から日新出版にかけての17年間というもの、会社の基礎固めのため、昼は営業や雑用、休日と朝は原稿書きに追われて勉強らしい勉強をすることが殆どできなかった。青壮年の頃、師と仰いだ安岡先生は亡くなっておられる。その4年前の昭和57年から銀座の事務所で論語の月例講義を始めたものの、内容は空疎きわまる。月謝を受け取るわけではないにしても、折角足を運んで下さる聴講者にお粗末な論語講義では申し訳ない。

 文字通りの『六十の手習い』を東京お茶の水の湯島聖堂で開始したのだが、この聖堂こそ佐藤一斎の活躍の舞台であり、その域内に住まいを持ち、当時としては珍しい長命の88歳で没したのもこの地であった。
 六十の手習いの師は一斎没年と同年88歳の山崎道夫(みちと)先生、『佐藤一斎』の著書もある山崎先生は至極壮健で、一斎の長寿記録を大幅改新することは確実だ。聖堂の山崎先生講義が一斎のそれと時を超えて重複して迫る時もある。

巨人、哲人の一斎の生涯
 一斎が何を説いたのか、それは少し後に廻して、一斎の人物を先に紹介しておく。
 一斎は安永元年(1772)江戸の岩村藩下屋敷で生まれ、安政6年に江戸お茶の水の幕府学問所で没した。その生まれた時代は鎖国下で太平の世を謳歌していたが、一斎88歳の生涯の中で時勢は大いに動いた。没年の5年前にはペリーがアメリカ艦隊を率いて浦賀に来航して開国を迫り世情騒然、井伊大老の安政の大獄があったのは一斎没年の安政6年、没後わずか9年で江戸幕府は崩壊した。一斎の学問と業績を考える場合、この時代背景は大きな意味合いを持つ。
 一斎の父は岩村藩の藩老をしていて、その江戸下屋敷で生まれた。岩村藩は美濃国、現在の岐阜県の南東端に近い岩村町に居城があり、親藩松平氏3万石ほどの小藩で、数年前に筆者は訪れて、その記事は周作閑話に書いた。(62年9月号)

 岩村藩主松平氏の第3子衡(たいら)は幕府学問所の総帥の林家8代目を継いで林述斎となった。述斎は林家代々の中でも傑出した存在で、述斎は文部大臣、一斎は一校だけの国立大学総長というような立場で、藩主と家老の子が困難な時代の幕府文教を支えたコンビであった。

 武士の子一斎の若い頃は、剣術はもとより弓術、馬術、槍術武芸百般の達人で、いい気になって吉原通いする侍共を途中で叩きのめして喜んだり、相当の暴れん坊であったらしい。
 19歳の時、藩主松平乗保(のりやす)の近侍となったが翌年免職になり士籍を脱することを願い出て、学問に志すことを決意した。名も捨蔵と改めて、大坂の中井竹山について学んだ。この大坂留学は一斎にとって非常に大きな意味を持つもので、それ迄幕府の官学は朱子学であったが、既に陽明学に関心を寄せていた一斎がこの大坂留学で、より一層傾斜していった。朱子学、陽明学を説明することは容易ではないが、前者はあく迄も物の理を追求する、つまり先ず知って後に行う、先知後行であるに対し、後者は知行一致を唱える。陽明学を行動の学問と受け止める人もある。

 朱子その人は全く意図しなかったことだが、中国においても、朝鮮、日本においても、朱子学が体制側に都合のいい学問として利用された面は否定できない。ただし、日本ではかなりゆるやかで、朝鮮は全く朱子学一辺倒だった。唯一の国立大学総長の一斎が危険思想の持ち主であっては大変で、表面的には朱子学、内面は王陽明の興した陽明学であるということから、陽朱陰王の名を奉られたりしている。しかし、一斎は表も裏もなく、両者の長所を融合して己のものとした。

 22歳の時に幕府の文教を取りしきる林家に入ってから66年間、一斎は己の学問探究、教育、著作に没頭した。
 弟子3千人といわれ、直接の弟子はもとより、一斎の著作の『言志四録』の抄本を自ら作った西郷南洲を初め一斎の影響を受けた人は数知れない。
(つづく)



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プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学処分。
15歳で安岡正篤先生門下に入る。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。
 みなさん さようなら  11月13日 】
絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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