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みなさん さようなら

2018.06.21 06:00|その他月刊誌記事
走れ歌謡曲 1人じゃないんだ日野ファミリー
真夜中のラジオガール達の本ができました

下写真左: スタート時のフルメンバー
前列右から 成田あつ子、兼田みえ子、西条ゆり子、後列右から 夏 杏子、美川玲子、長野悦子 の皆さん
          (右端円内は 山沢じゅんさん)

走れ歌謡曲

1982年(S57) 月刊 「特装車とトレーラ」6月号

あちら 15年目に入った日野提供早朝ラジオ番組

 日野自動車が提供する早朝のラジオ番組“走れ歌謡曲”の女性パーソナリティの楽しいおしゃべりなどをまとめた一冊の本が出来た。その名もズバリ“真夜中のラジオガールたち「走れ歌謡曲」”。

 火曜日から日曜日の早朝3時から5時まで文化放送をキイ局に、地方放送局を結んだこの番組がスタートしたのは昭和43年11月、もう15年近くになる長寿番組である。
 何しろ、3時から5時といえば、深夜と早朝の狭間(はざま)の時間帯、現代の丑三つ時に人気番組を誕生させた日野自販やラジオ局の担当者の先見の明には感服の他ないが、この番組を生んだ最大の原動力はやはりモータリゼーションの急速な展開であろう。

 実はこの私、“走れ歌謡曲”の隠れファンで、聴取歴は10年を超える。わが社のトップスポンサー日野自販に義理立てして聞いているのでもなく、特にお目当てのパーソナリティがあって熱を上げているわけでもない。長距離ドライバーと同じく、生活上の必要があって断続的ではあるが聞いているのである。

 この雑誌の経営を引き受けた昭和44年から2年間、カネはない、家はない、事務所はない、時間はない、社員はいない、のないない尽くしだった。市販の原稿用紙と鉛筆と若干の資料を持って安宿を転々としながら早朝に記事を書き、昼は地理もろくすっぽわからぬ大東京をさまよい歩いて広告を貰ったり、購読を勧誘したりの生活が続いた。頑張りの甲斐あって、どうやら本の方もメドがついて家族を大阪から呼んで都内のあばら屋に落ち着いたのが、昭和46年11月だった。

 ここで早朝作業の伴侶ができた。ラジオである。ソニーCF1110、カセット付きの一番安物のラジオだが、このラジオから飛び込んできたのが“走れ歌謡曲”だった。
 今もそうだが、何かまとまった仕事をする時には2時から2時半に起きる。当時はたった1人で何もかもやらねばならなかったから、1ヵ月のうち、10日間ぐらいは早起きして、仕事をしながら聞いた。

 玲子ママ、たか子姫、ゆりっぺ、みえ子さん、当時のパーソナリティが懐かしい。このうち、ゆりっぺこと西条ゆり子さんの担当日である昭和47年7月1日の“走れ歌謡曲”を中心にこの番組の記事を掲載したのが本誌47年7月号。この本を持って文化放送にゆり子さんを訪ねたのだが、女性に向かうと喋れなくなる私のことで、殆ど何も話さず帰ったことを記憶している。

 あれから10年経った。“走れ歌謡曲”はすっかり定着したが、パーソナリティのメンバーは全て入れ替わって若い世代に引き継がれている。
 私の周辺も大きく変わった。銀行が無理矢理カネを置いてゆくし、家も事務所も社員も揃い、東京の地理にもすっかり慣れて、長く住んだ大阪に出張すると迷う位である。
 メインの記事は社員が書くので、「今月は残りこれだけですからお願いします」という具合で、いわばお余りのページにこういう雑文を書く形となった。

 早起きの習慣は相変わらずなので、時間はたっぷりあるのだが、そのうち生活のための原稿書きの時間はごく一部になっている。朝の時間は読書、英会話、書道に振り分けて使っているのだが、どれもこれも“走れ歌謡曲”を聞きながら、できるシロモノではない。従って、この番組を聞く回数は少なくなったものの、原稿書きやその整理の仕事が皆無になったわけでもない。毎月締切前の何日かは必ず聴きながら仕事をする。

 “ふたり酒”を引っ提げて紅白にも出場した川中美幸さんもこの番組のレギュラーパーソナリティで、応募してきた“ふたり酒”の替え歌を番組の中で歌っていたが、歌手生活との両立は難しくなったとみえて、この3月末で降りた。そのお別れの放送も聞いている。

 いま、この原稿を書きながら聞いているのは山沢じゅんさんの担当である。(4月30日)この山沢さんで驚いたのは、先程の彼女たちの書いたものをまとめた本の中で、各パーソナリティの趣味や好きな言葉、好きなタレント、愛読書などを紹介する欄があって、そのうちの好きな言葉がピッタリ私のそれと一致したことである。

 少ニシテ学ベバ壮ニシテ為スアリ
 壮ニシテ学ベバ老イテ衰エズ
 老イテ学ベバ死シテ朽チズ

 この佐藤一斎の言葉は好きな言葉というより、私の終生の指針としているもので、本誌にも紹介したことがある。この言葉が、サンフランシスコの放送局に勤めたこともあるというこの行動的な娘さんの好きな言葉であるとは。一体彼女の周辺で誰がこの言葉を教えたのか、あるいは彼女自身見つけ出したのか、非常に興味のあるところで、一度聞いてみたいと思っている。

 好きな言葉が一致したものだから山沢さんにスペースを取られてしまったが、勿論他のパーソナリティの担当も聞いている。聞いてはいるのだが、聞く時間が少なくなったこと、彼女達の入れ替わりが多くて、なかなか名前と声が一致するところまでゆかぬ。
 その点、玲子ママ、ゆりっぺ、みえ子さんは番組スタート時から昭和53年の引退までまるまる10年間、なかでも玲子ママ、ゆりっぺは水曜・土曜を受け持って、文字通り10年選手として通した。私の耳には彼女達の語り口がまだ残っている。

 何しろ年頃の娘さんの職場であり、10年選手が揃っていたということ自体が珍しい現象であったかも知れない。しかし、番組をリードする迫力のあるキャリアパーソナリティが1人あるいは2人は必要であると思う。ドライバーが甘えられるような、お姉さん的存在、あるいは姉御といった方がいいかも知れぬが、そういう貫禄のあるパーソナリティが育ってほしい、と考えるのは身勝手だろうか。

 間もなく満15年を迎えるこの長寿番組、制作スタッフも聴取者も変わるのは当然である。ごく初期のパーソナリティ成田あつ子さんのように若く逝ってしまった人もあるし、落合恵子さんや川中美幸さんのように文筆や歌謡曲の世界で脚光を浴びている人もある。
 誰かの言葉を借りれば“走れ歌謡曲は不滅です”。番組のある限り、私もおつき合いをしたいと思っている。


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プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学処分。
15歳で安岡正篤先生門下に入る。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。
 みなさん さようなら  11月13日 】
絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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