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みなさん さようなら

2018.06.25 02:53|「周作閑話」
1982年(S57) 月刊「特装車とトレーラ」6月号
周作閑話

お母さんの涙


 職場から自宅へ直帰するのは一ヵ月に2度か3度、珍しくアルコール抜きで家に戻ってウイスキーをなめながらテレビをつけてみると、NHKの五つ子の記録の放映が始まった。
 今更説明するまでもなく、山下さんというご夫婦から五つ子が生まれて大きなセンセーションを巻き起こして、その子供達もこの4月には揃って小学校に入学した。山下さんはNHKに勤務しているという。NHKにとっても、山下さんにとってもきわめて恵まれた条件下にあって、NHKではその成長の過程を実に克明に記録してきたものを、1時間半足らずにまとめて、入学を機に一般公開したものと思われる。
……
 一般よりもはるかに体重の小さい未熟児であったため、哺育器の中で漸く生息させられている五つ子は本当にひ弱く、これで育ってゆくのかという危惧を持ったが、無事退院する。
 自宅に戻ってからも大変で、ご夫婦、おばあちゃん、ベビーシッターの人達の懸命の哺育が始まる。からだの発達も、言葉の理解も通常の子よりはるかに遅れている。
 五つ子の名付け親である京都の清水寺貫首大西良慶師とのご対面の場もあって、両者の年齢差は実に一世紀、これも感動的なシーンだった。

 歩けるようになり、行動範囲が拡がってくるにつれて個人差が出てくると、ボスらしき存在も出現するが、このボスも一時的なものである。
 幼稚園に入園したときが大変で、それまでは5人の群れのなかで生活してきた者が大勢のさらに大きな群れの中に放り込まれたものだから、すぐ5人に戻りたがる。園側でも配慮して、慣れるに従って男児2人、女児3人を先ず男女別のチームに分けたり、友達の家へ少人数で遊びに行かせるなど、だんだん外界の子供との接触の機会を多くしてゆく。
 入園の頃の運動会ではビリでよたよた走っていた子も、3年の園児生活の終わるころには他の子に伍して走るまでになっている。

 身長や体重でこそ、一般の子供の標準レベルにまだ達しないが、体育機能では劣るところがないし、知能レベルではむしろ勝るところがあるというところまで成長して卒園式を迎えた。
 その卒園式でお母さんが流していた涙は本当に美しかった。天下のNHKであり、日本の医学界の名誉にかけてもこの五つ子は健全に育てなければならぬ、ということで万全の体制が取られていたとは充分に考えられることだが、それだけでは心身共に健全な子に育てることはできない。お母さんが手記にも書いていたように、その苦労は並大抵ではなかった、と察せられる。大きなハンディを持って生まれてきた5人の子供達が誇らしげに壇に上がって、1人1人園長さんから免状を貰うシーンには、全くの門外漢である私も目頭を熱くしたものだから、ましてお母さんとしては万感迫るものがあったに違いない。

 小学校入学のための面接の予行演習をするシーンは面白かった。1人1人、部屋に呼び入れて名前を聞いたりする。それぞれの子供の個性が出ていて、机の下に潜ってふざけるのもいる。別室で騒いでいる子供達に「外野、やかましい」とか言って叱るのだが、こういう叱り方はやはり現代のママさんである。
 自分のことは自分でさせるという習慣、食事で出されたものは残さない、必要に迫られたせいでもあろうが、実にいい躾をつけていると思う。全員揃って廊下の雑巾がけをしているシーンがあって、そのうち親の手助けで集団の威力を発揮することになるのだろう。
 少年期から思春期へと、幼児期とはまた異なった苦労もあるかと思うが、このご両親と子供達なら、きっとその難関を乗り越えて、立派にやっていけると思う。

 この五つ子がきっかけとなったわけでもないだろうが、わが国の未熟児の哺育レベルの最近の進歩には目覚ましいものがあると聞く。この世に生を享けた者に、一人でも多くその生を尽くさせることは単に医学的な問題でなく、生命の尊厳という点からも歓迎すべきであろう。

 私は未熟児ではなかったが虚弱児の代表のようなもので、とてもまともには育つまいと言われたし、本当に健康に自信が持てるようになったのは40代に入ってからである。
 この3月にはやっと女房に月給らしきものをまとめて渡した。経営する出版社が昨年9月の決算期で累積赤字を解消、黒字に転じ、銀行の勧めもあって国民金融公庫から借り入れて、漸く手元資金に多少のゆとりができたからである。税務署の査察も何事もなく終了して、社会生活で未熟児、未熟人だった私も、どうやら一人前になった。

 未熟であるからこそ、発育の可能性は大きい。成熟してしまえば、発展は止まってしまう。老子の言葉であったが、嬰児のようにありたい、というのがある。
 落ちこぼれ、というイヤな言葉もある。何を基準として、落ちこぼれ、というのであろうか。或る時点に限って、一定の基準に達していないからといって、これを落ちこぼれであるとキメつけてしまうことは許されないのではないか。

 人生はすべて未熟から成熟への道程であろう。熟年という言葉もあり、私もこれに相当する年齢には到達しているのに、とてもとても成熟には程遠い。事業人、経済人としてはやっとスタート地点に立ったばかりだと考えている。
 人生五十、まさに未熟人で過ごしてきたが、未熟であったからこそ、まだまだ可能性も楽しみもあるというものだ。三女もこの春、就職して、子育ては一応の終了を見た。未熟ぶりを発揮しながら、将来に夢を託して、これからも頑張るつもりである。


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コメント

No title

今から20年以上前、トラックショー開催の記者会見で
初めて増田様をお見かけしました。
優しい目をした、上品なお方だったことを覚えています。
その後、自分の文章力に限界を感じ他の業界に移り月日が流れ、
ふと、増田様のことを思い出し、ネットで検索したところ、
このブログにたどりつきました。

もうずっと更新内容を拝読していますが、
こんなに素晴らしい方だったのか、もっと早くきちんと
出会いたかったと悔やむばかりです。

今、こうして当時の増田様の思いを記していただき、
感謝しております。そして、更新を日々楽しみにしております。

穏やかに眠っているであろう増田様に、
感謝の気持ちをお伝えください。

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プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学処分。
15歳で安岡正篤先生門下に入る。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。
 みなさん さようなら  11月13日 】
絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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