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みなさん さようなら

2018.07.05 06:00|社長の軌跡/人に四季あり
92年 トヨタ車体 尾藤社長
     トヨタ車体 尾藤三郎社長 (1992年)

1992年(H4) 月刊「NewTRUCK」7月号 社長の軌跡

手作りの時代から自動車生産を見続け40年
トヨタ車体(株) 尾藤三郎社長

酒飲めるかの入社面接
まだ苦しかったトヨタ


増田 昭和3年のお生まれで辰年、私は大正15年の寅年、龍虎対談ですが、宜しくお願いします。私のような、学校も生活の場所も、職業もくるくる変わった人間から、生まれた地域の学校出て企業に勤めて一生過ごされた方を見ますと、全く別の世界の人という気がします。
 こういう方との対談はどちらかと言えば苦手なんですが、お話を進めているうちに、面白いことがいろいろお聞きできるかと思います。
 旧制の高校、大学最後のクラスになりますか。
尾藤 そうです。落第して留年したら新制の方になってしまう。(笑)それなりに勉強はしましたよ。(第八高等学校〈名古屋〉から名古屋大学工学部へ進学)
―― トヨタ自動車にすんなりと入社されて。
尾藤 いや、昭和28年頃は今のトヨタと違って、昭和25年の大争議の後遺症で経営が非常に苦しく、従業員の給料もろくろく払えない状況であり、朝鮮特需でやっと息をついていた頃です。
 富士通の前身の富士電機の入社試験受けて落っこちて、教授のところに相談に行くと、紹介状書くからトヨタへ行けと言う。もう入社試験は終わっていましたが、トコトコ出かけた。面接に出てきたのが、当社の元社長の堤さん(頴雄氏)で、簡単な質問があって、オイお前お酒飲めるか、ハイ2~3合はいけます。元気がいいなア、一升はいけるだろう、そんなやりとりで入社が決定しました。(笑)来る人がなかったんでしょう。
―― わが社も酒飲めるかで採用したのがいますが、社長のような逸材じゃなかった。(笑)それにしても、昭和20年代は松下電器も苦しい時期があったし、まだまだ企業にとっては厳しい時代でした。
尾藤 企業は一本調子に伸びるものではなくで、30年周期位で盛衰を繰り返すという人があります。いま調子がいいからと入社しても、10年先、20年先はどうなるかわからない。
―― そうですね。どうも今の若い人は目先のことばかり考えているような気がします。 入社した頃のトヨタはどうでした。
尾藤 特需で息がつけて、このままではいけないと取組を始めた頃で、同期に12名採用されたのですが、昭和12年から入社した事務技術系の社員の通しの工番で私は988番でした。工員籍は別で、全社員2,500人位の規模でした。
 建物は終戦直後のオンボロのままで、自動車の本社といっても、グラグラ揺れる掘立小屋のような建物で、階段はミシミシ、ストライキで大勢押し寄せると潰れてしまいそう。(笑)本当に小さなものでしたよ。

お手本だったアメリカ
急成長を肌で感じて

―― 入社されてからの足跡は。
尾藤 先ず車体工場の技術課に配属されまして、初代のBXというトラックのフレーム型を作り、これも初代のクラウンの原図からパネル図面を作って型を設計しました。それから暫くして工場の技術員室に入りました。この時、課長として来られたのが前社長の藤本俊さんで、その下で現場の改善に取り組みました。
 当時は鈑金の七つ道具などといって、ヤスリ、鋏、ハンマー、当て盤などを使って、チンタラチンタラやって、鉄板を叩き出して、クラウンが1日に10台くらい、2直にしても20台という状態でした。
―― 手作りの職人芸の時代、まさに今昔の感がありますね。
尾藤 手作りばかり、ドアでも木ハンマーで叩き曲げする、ドアの内板は一発で絞れないから、4つくらいに分割してつなぎ合わせる、精度なんてとんでもない。
―― 鉄板の改良に藤本さんが大きな役割を果たされたと聞いたことがあります。
尾藤 当時の鉄板というのは切板(きりいた)で、アームコから輸入していた高級キルド鋼で、スキンパスをかけなきゃならないのですが、かけ過ぎると板が硬くなっちゃう。板の質が物凄く悪かったですね。そういう鉄板を、スチールメーカーの協力を得て、テストを繰り返しながら品質を向上させてとうとう現在の世界一の鉄板に仕上げました。私も藤本さんのお手伝いをしましたが、よくここ迄来たものだと思います。
―― 日本の自動車工業の現在を築き上げるために克服しなければならないハードルが沢山あったと思います。鉄板の改良もその重要な部分でしょう。
尾藤 わからないことが一杯あって、元町工場を作る時、アメリカの自動車工場を見て来いと命令を受けて派遣されました。1960年(S35)の正月明け早々で、デトロイト、シカゴは凄く寒い。片コトの英語で難行苦行しながら3ヵ月ほどひとり歩きしました。その時のGM、フォード、クライスラーは絶好調の時代で、見るもの聞くもの目新しいものばかり、日本とは月とスッポンほどの違いがありました。
 ところが数年前、同じ工場を訪ねてみますと、30年間まるでタイムカプセルの中に入っちゃったように全く変わってないんですね。はるかに日本の方が進んでいます。
―― 30年前のアメリカといえばまだまだ輝いていて、いろいろな分野で日本は教えを受けていた時代でした。
尾藤 私共もアメリカから教えて貰ったいろいろの技術があります。私がアメリカから帰国してから2年ほど後、フォードの技術をベースにしたボデー鈑金フレームなどの加工技術を持ち込んで技術提携をしないかとの申入れを受けました。
 技術提携より、買っちゃおうということで、野口さん(正秋氏)の決断で、2千万円で買い取った上、技術者ひとり、こちらで月給と生活費をみることで付けて貰いました。他社が1台いくらという技術料を払っていたのに較べると、これは非常に安い買物でした。
 ちょうど、弁当箱型のコロナが出た当時で、その中にこの買い取ったプレス・溶接・鈑金の技術が全部活きています。
 それ迄は本当にお粗末なモノしかできなかったのが、これがきっかけで大きく進歩したのですから、瓢箪から駒が出たようなものです。
―― 今とはお金の値打ちが違うにしても、2千万円で画期的な技術が買えたとは驚きです。
 その頃から、日本の自動車の生産技術はぐんぐん向上して、高度成長時代のモータリゼーションを支えてゆくことになりました。
尾藤 NCがどんどん入ってきて、ロボットが加わり、モノを作ってゆくキャド化が進んでゆく、その過程を見ると非常に面白いし、日本人は器用だな、と思いますね。
―― 戦後の自動車産業の成長を社長はずっと見て来られたようです。得意な分野は。
尾藤 一番得意なのはプレス板金ですが、地位が段々上にいくに従って、いろいろな部門を持たされる。機械工場も、ダイキャストも、二次加工も、最後にはオートマチックトランスミッションの品質向上に存分のお金を使わせて貰って、良い品質の月産4万台の生産ラインを作ることができました。
 私の大学での専攻はエンジンだったのですが、トヨタではとうとうエンジンをいじらせて貰えなかった。(笑)
(つづく)




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プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学処分。
15歳で安岡正篤先生門下に入る。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。
 みなさん さようなら  11月13日 】
絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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