みなさん さようなら
2018.07.19 03:50|「周作閑話」|
1985年(S60)7月号
周作閑話
あかり
長女が遊びに行った土産に手造りの和蝋燭を買ってきた。
普通に使っている洋蝋燭と違って、少し黄ばんで上方が大きく、さわるとねばねばした感じでひんやりとしている。
朝晩のお勤めに火を点(つ)けてみると、やはり黄色っぽい焔が出て、大きくなったり小さくなったり。風がないのにゆらゆら揺れたりして、神秘的とも思える燃え方をする。
途中で火を消すと、燃えつきた灯芯はそのまま白くなって残る。この白くなった部分を取り去っておかないと、火をともすことはできない。灯芯を切っておくことが、昔の“あかり”を担当する人達の重要な仕事であったことは聞いていたものの、実際に体験したのは初めてである。
西洋蝋燭は、鉱物性、動物性の油脂を型に流し込んで作る。和蝋燭はハゼの実の木蠟を芯にねりつけて次第に大きくしてゆくので量産できないし、一本ごとに多少の違いが出る。
西洋蝋燭はドライで、和蝋燭はウエット、前者が蛍光灯なら後者は白熱灯という見方もできよう。
この仏壇によく似合う和蝋燭も 洋蝋燭に押されて、現在は民芸品扱いに近く、一部の寺院や映画TVなどで使われているだけという。
周作閑話
あかり
長女が遊びに行った土産に手造りの和蝋燭を買ってきた。
普通に使っている洋蝋燭と違って、少し黄ばんで上方が大きく、さわるとねばねばした感じでひんやりとしている。
朝晩のお勤めに火を点(つ)けてみると、やはり黄色っぽい焔が出て、大きくなったり小さくなったり。風がないのにゆらゆら揺れたりして、神秘的とも思える燃え方をする。
途中で火を消すと、燃えつきた灯芯はそのまま白くなって残る。この白くなった部分を取り去っておかないと、火をともすことはできない。灯芯を切っておくことが、昔の“あかり”を担当する人達の重要な仕事であったことは聞いていたものの、実際に体験したのは初めてである。
西洋蝋燭は、鉱物性、動物性の油脂を型に流し込んで作る。和蝋燭はハゼの実の木蠟を芯にねりつけて次第に大きくしてゆくので量産できないし、一本ごとに多少の違いが出る。
西洋蝋燭はドライで、和蝋燭はウエット、前者が蛍光灯なら後者は白熱灯という見方もできよう。
この仏壇によく似合う和蝋燭も 洋蝋燭に押されて、現在は民芸品扱いに近く、一部の寺院や映画TVなどで使われているだけという。
現在の私達はスイッチひとつで自由に点滅する便利な“あかり”を持っているが、電灯の発明される迄の人類は“あかり”をとることに苦心してきた。お灯明もそうであるし、火祭りのような形での宗教的行事はその名残である。
仏壇にゆらめく和蝋燭の炎を見ながら、これ迄体験したいろいろの“あかり”について想いを回(めぐ)らすこともある。
私の両親は土佐の出身だが大阪で世帯を持っていて、大阪で生まれた私が初めて郷里を訪れたのは昭和7年の4月、5歳の時だった。
養子に出ていた父の弟が、新しく建てる居宅の木材の伐採中に墜落死した。即死ではなかったが、余程の重傷で「キトクスグカエレ」というような電報を父宛に打ったものであろう。
私を連れた父は神戸港から土佐商船の「浦戸丸」か「室戸丸」かに乗船した。四国山地を横切る土讃線はまだ開通していなくて、海路による他なかったのである。
初めての船旅で、酔った私は食物をもどして苦しんだ。外の風に当てようと思ったのか、室戸岬の灯台の灯を見せようとしたのか、父は私を抱いてデッキに上がった。くろぐろとした海の向こうに、点滅する灯台の“あかり”が見えた。郷里の土佐との初めての出会いである。
高知からさらに西の中村まで鉄道やバスに乗り継いだ筈だが、初めて乗ったであろう汽車の記憶はない。瀕死の叔父は40km近くの道をこの中村まで運ばれた。救急車のある時代ではないし、恐らくその途中で絶命したと思われる。杉という病院で叔父の死を知った2人が、叔父の養家のある小さな部落に辿り着いた時はもうすっかり暗くなっていて、その庭先であかあかと、まるで火事のように大きな炎を上げて木が燃やされていた。
その炎の中で、父は弟との最後の対面をしてそのまま埋葬された。私も棺の中を見たが、ただ黒い物体が横たわっていたという記憶しかない。闇の中に燃え上がる炎に照らされた白木の棺の印象だけが鮮烈である。
この叔父の急死が、父と一家の運命を大きく変えることになった。消防車運転手という学歴も全くない男にとっては比較的に恵まれていた父は、恩給受給の資格が成立する翌年を待ちかねていたかのように退職して、一家を挙げて叔父の養家先に身を寄せた。
その地域の資産家として知られた養父はまた大変なしまりやで、電気よりランプの方が安上がりと言い張って、電灯の取付を拒否したほどの人である。
食事の時などはまだ薄暗いランプを点(とも)しているが、そのあとは灯がついているのがわかる程度のカンテラだけ。便所は外のはるかに遠い所にあり、真の闇に出てゆくのが恐ろしかった。
養父と父は忽ちのうちに衝突して、一家はまた大阪へ舞い戻る。ところが無学の父に適当な就職先などあろう筈がなく、土方をしているうちに結核に罹って、また土佐へ帰ることになった。この間、わずか1年そこそこでしかない。
父は単身で先に引き揚げて、母と私(長男)の兄妹4人は瀬戸内海まわりの第○○宇和島丸に乗船した。1年ほど前の引き揚げは高知まわりで、高知で小さな船に乗り換えて、叔父の養家の部落に近い漁港に夜明け前に上陸したが、艀(はしけ)から波打ち際に降り立って、遠ざかってゆく船の灯を心細く眺めていたことを記憶する。
「宇和島丸」は石炭炊きの貨客船で、大阪天保山桟橋を出港して、翌日夕刻に母港の愛媛県の西にある宇和島に着く。ここで、あらかたの乗客は降りてしまうし、終点の片島港まで行く人も深夜の出港までの時間を利用して活動を見に行ったり、町へ出て、残ったのは母子5人だけ。船室も荷物と同居の汚い所に移され、カマの火が消えているため電灯は点かず、薄暗いカンテラがひとつ、貨物を梱包した藁の匂いの中での夜は悲惨で、母は生前このことをよく口にしていた。
一家が引き揚げた小さな漁村にもまだ電気は点いていなくて私の日課はホヤ掃除。小さな棒の先にボロ切れをつけて、ガラスの筒の煤を拭い取る。ここでも夜はカンテラだった。
秋祭りなどに村芝居がやってくると、急作りの舞台が作られ、集魚灯用のカーバイトを点す。独特の臭気と青白い焔、昼間見るとしわだらけの爺さん婆さんが若衆やお姫様に見えたものである。
数年して電気が点いたとき、ランプに慣らされた目には眩しいほどであったし、夜でも朝でも気兼ねなく本が読めたのが嬉しかった。当時は従量制でなく、1灯いくらの料金で、電球が切れると交換に持って行った。
戦時中の灯火管制が敗戦で解除されたと思ったら、今度はのべつ幕なしの停電に悩まされた。ポマードや油に灯芯を浸して小さな灯りを点すようなこともやったが、これでは行燈(あんどん)への逆行である。
何処も明るくなって、鼻をつままれても分からぬというような真の闇は我々の周辺には殆ど見られなくなった。
しかし、明る過ぎるということは決していいことばかりではないと思う。闇の中に、かすかに点る“あかり”の厳粛さ、うれしさ、頼もしさを知らぬ人はむしろ不幸ではないだろうか。
想い出すと、木を燃やすだけの原始的な“あかり”に照らされた叔父の葬式、電気からランプへの繰り返しの子供時代、暗夜の海上で見た灯台、カンテラの灯火の下の船底など、そのどれを取っても明るいものはないが、何かしら運命の変わり目と“あかり”とのかかわりが感じられる。それは明るいところを探し求めて放浪した、その後の人生と無縁ではないと思う。
仏壇にゆらめく和蝋燭の炎を見ながら、これ迄体験したいろいろの“あかり”について想いを回(めぐ)らすこともある。
私の両親は土佐の出身だが大阪で世帯を持っていて、大阪で生まれた私が初めて郷里を訪れたのは昭和7年の4月、5歳の時だった。
養子に出ていた父の弟が、新しく建てる居宅の木材の伐採中に墜落死した。即死ではなかったが、余程の重傷で「キトクスグカエレ」というような電報を父宛に打ったものであろう。
私を連れた父は神戸港から土佐商船の「浦戸丸」か「室戸丸」かに乗船した。四国山地を横切る土讃線はまだ開通していなくて、海路による他なかったのである。
初めての船旅で、酔った私は食物をもどして苦しんだ。外の風に当てようと思ったのか、室戸岬の灯台の灯を見せようとしたのか、父は私を抱いてデッキに上がった。くろぐろとした海の向こうに、点滅する灯台の“あかり”が見えた。郷里の土佐との初めての出会いである。
高知からさらに西の中村まで鉄道やバスに乗り継いだ筈だが、初めて乗ったであろう汽車の記憶はない。瀕死の叔父は40km近くの道をこの中村まで運ばれた。救急車のある時代ではないし、恐らくその途中で絶命したと思われる。杉という病院で叔父の死を知った2人が、叔父の養家のある小さな部落に辿り着いた時はもうすっかり暗くなっていて、その庭先であかあかと、まるで火事のように大きな炎を上げて木が燃やされていた。
その炎の中で、父は弟との最後の対面をしてそのまま埋葬された。私も棺の中を見たが、ただ黒い物体が横たわっていたという記憶しかない。闇の中に燃え上がる炎に照らされた白木の棺の印象だけが鮮烈である。
この叔父の急死が、父と一家の運命を大きく変えることになった。消防車運転手という学歴も全くない男にとっては比較的に恵まれていた父は、恩給受給の資格が成立する翌年を待ちかねていたかのように退職して、一家を挙げて叔父の養家先に身を寄せた。
その地域の資産家として知られた養父はまた大変なしまりやで、電気よりランプの方が安上がりと言い張って、電灯の取付を拒否したほどの人である。
食事の時などはまだ薄暗いランプを点(とも)しているが、そのあとは灯がついているのがわかる程度のカンテラだけ。便所は外のはるかに遠い所にあり、真の闇に出てゆくのが恐ろしかった。
養父と父は忽ちのうちに衝突して、一家はまた大阪へ舞い戻る。ところが無学の父に適当な就職先などあろう筈がなく、土方をしているうちに結核に罹って、また土佐へ帰ることになった。この間、わずか1年そこそこでしかない。
父は単身で先に引き揚げて、母と私(長男)の兄妹4人は瀬戸内海まわりの第○○宇和島丸に乗船した。1年ほど前の引き揚げは高知まわりで、高知で小さな船に乗り換えて、叔父の養家の部落に近い漁港に夜明け前に上陸したが、艀(はしけ)から波打ち際に降り立って、遠ざかってゆく船の灯を心細く眺めていたことを記憶する。
「宇和島丸」は石炭炊きの貨客船で、大阪天保山桟橋を出港して、翌日夕刻に母港の愛媛県の西にある宇和島に着く。ここで、あらかたの乗客は降りてしまうし、終点の片島港まで行く人も深夜の出港までの時間を利用して活動を見に行ったり、町へ出て、残ったのは母子5人だけ。船室も荷物と同居の汚い所に移され、カマの火が消えているため電灯は点かず、薄暗いカンテラがひとつ、貨物を梱包した藁の匂いの中での夜は悲惨で、母は生前このことをよく口にしていた。
一家が引き揚げた小さな漁村にもまだ電気は点いていなくて私の日課はホヤ掃除。小さな棒の先にボロ切れをつけて、ガラスの筒の煤を拭い取る。ここでも夜はカンテラだった。
秋祭りなどに村芝居がやってくると、急作りの舞台が作られ、集魚灯用のカーバイトを点す。独特の臭気と青白い焔、昼間見るとしわだらけの爺さん婆さんが若衆やお姫様に見えたものである。
数年して電気が点いたとき、ランプに慣らされた目には眩しいほどであったし、夜でも朝でも気兼ねなく本が読めたのが嬉しかった。当時は従量制でなく、1灯いくらの料金で、電球が切れると交換に持って行った。
戦時中の灯火管制が敗戦で解除されたと思ったら、今度はのべつ幕なしの停電に悩まされた。ポマードや油に灯芯を浸して小さな灯りを点すようなこともやったが、これでは行燈(あんどん)への逆行である。
何処も明るくなって、鼻をつままれても分からぬというような真の闇は我々の周辺には殆ど見られなくなった。
しかし、明る過ぎるということは決していいことばかりではないと思う。闇の中に、かすかに点る“あかり”の厳粛さ、うれしさ、頼もしさを知らぬ人はむしろ不幸ではないだろうか。
想い出すと、木を燃やすだけの原始的な“あかり”に照らされた叔父の葬式、電気からランプへの繰り返しの子供時代、暗夜の海上で見た灯台、カンテラの灯火の下の船底など、そのどれを取っても明るいものはないが、何かしら運命の変わり目と“あかり”とのかかわりが感じられる。それは明るいところを探し求めて放浪した、その後の人生と無縁ではないと思う。
スポンサーサイト