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みなさん さようなら

2018.07.23 06:00|「周作閑話」
徳不孤
               右: 孔子第77代 孔徳懋女史の書

1992年(H4)月刊 NewTRUCK 7月号
周作閑話

中国寸描 北京から曲阜へ

……
 定刻より少し遅れてJAL785便は離陸、上海上空を経由して現地時間2時前北京着、空港は大改修中であった。
 バスで北京の文廟に向かう。『日本論語普及会孔子聖廟巡拝団』としては当然のことでも、一般の日本人が訪れた例は珍しい。
 昨年の訪中も『孔子を訪ねる旅』で、文廟(孔子廟・聖廟)のすぐお隣のきらびやかなラマ教の雍和宮に来ながら足を踏み入れていない。主催者の調査不足だろう。

 曲阜の孔廟には及ばないが、数百年を経た柏樹に囲まれた堂々たる建物は首都の文廟としてふさわしい威容である。
 責任者の方々の説明を聞き、廟内で大陸では最初の論語斉誦の後、古典を刻んだ石碑群などを見る。隣接する国子監は文部省に似た官庁であったところで、学問の中心地としての静かな雰囲気の漂う一帯だった。
 ホテルで文廟の方々と夕食をご一緒したが、所長さんが回教徒でお酒を飲まないのには驚いた。信仰上の理由で禁酒の人が、酒を愛した孔子をお祀りする廟の責任者であるのが現代中国らしくて面白い
……

 5月1日、メーデーの休日で万里の長城は大変な混雑になるからその前にと早く出発したのに、到着時既に相当な人出になっていた。
 長城は3回目、これ迄は左側の坂道のきつい男坂を上った。今回は叔父夫婦と女坂へ、叔母は途中までで、叔父と上る。要所要所には古代の兵士の扮装をした若者が立っていて、突然ドドーンと合図の太鼓のような大きな音がスピーカーから流れ出して、狼煙台から煙が上がった。すわ、外的襲来のシーンだが、長城を舞台にしたスペクタクルショーとは中国もやるものだ。
 市内に引き返して故宮見学。ここも3度目だが、大きな城壁の角に立つ鼓楼を見たのは初めて。堀を隔てたその姿は、紫禁城にふさわしい光景だ。天安門広場には沢山の凧が揚がって平和そのもの。昨年はまだ事件の傷跡の修理中であったが、今は綺麗になっている。天安門の毛沢東に対するように、大きな孫文の肖像画が掲げられている。
 北京ダックなどで充分アルコールが入った上に、曲阜に向かう夜行列車の中でまた酒になる。同室の人がツマミに売店で買ってきたのが、犬の肉のスッポンスープ煮のパック。羊頭狗肉(ようとうくにく)の言葉があるが、犬肉を食ったのは生まれて初めて。

 曲阜では市長、孔子77代直系の孔徳懋(ぼう)女史はじめ要人からホテルのロビーで熱烈歓迎を受ける。爆竹を鳴らし、賑やかなものだ。
 闕里賓舎(けつりひんしゃ)で3泊。孔廟、孔林、孔府の三孔はじめ、孔子、孟子、顔回、曽子の廟や故里を訪れる。孔廟などでは浅草観音の縁日のごとき賑わいぶりで、やたらと記念写真を撮りまくる風習は日本人以上である。曲阜からかなり離れた曽子廟は文化大革命の傷跡を残したまま訪れる人もない。曽子の子孫の老人が切々と窮状を訴える。

 2泊した早朝、机に向かって原稿を書いていると何か争っている女達の甲高い声が耳に入ってきて、下を見ると叔父が歩いている。すぐ着替えて飛び出して、孔廟の正門前で待っているとやって来た。孔子のお墓にもう一度早朝参拝しようと、門前に沢山たむろする馬車にするか輪タクにするか迷ったが、時間も余りないことだし、輪タクの方が早かろうと、なるべく若そうな車夫を選んだ。

 昨年、北京でホテルから天壇まで歩いたが、地図で見るよりはるかに遠く、歩いて引き返せば朝食の集合時間にかなり遅れる。タクシーもない。やむなく天壇の前にいた老車夫の輪タクに乗ったが、脚力が衰えているのかノロノロ運転で、俺が漕ぐから座席で坐っていろと言っても頑として聞かない。結局、朝食を食べ損ねた苦い経験があるからだ。

 若い車夫の輪タクは少し離れた所に置いてあるらしく、走って取りに行った。嬉しそうに飛び上がって手足を舞わせるようなその走り方は、感動的ですらあった。
 前に2人坐る席があって、叔父と甥は並び、車夫は後ろでペダルを踏む。孔林の参道の柏の老木は杉並木のように高くはないけれども、1本1本にそれぞれの味わいがある。

 孔林の門前でいったん放して戻りはまた拾おうと思ったが、彼は案内についてきた。早朝既にかなりのお詣りの人はいたものの、孔子とその子の鯉、孫の子思のお墓を静かに拝むことができた。芋の子を洗うような人出の中での参拝とは違い、こうして叔父甥ふたりで再びお詣りできたのは望外の喜びであった。

 ホテルに着いて、いくらだと聞くそぶりをすると、紙に「先生随意也」としっかりした字で書いて示す。手元の小銭合わせて40元ばかり(邦貨約千円)を渡すと、謝謝と本当に嬉しそうな顔をして去って行った。

 曲阜の早朝、孔子のお墓参りに雇った輪タクの運転手に運賃を聞くと「先生随意也」と書いてよこしたことは前号に書いた。
 「随意」は中国語では「スゥーイ」というような発音で、酒席でもよく使われる。
 中国の酒といえば日本では紹興酒がよく知られている。モチ米を原料とする醸造酒で、揚子江流域の南方系であり、アルコール度は日本酒よりほんの僅か強い程度。
……
 われわれの曲阜滞在の3日間、孔子77代の直裔の孔徳懋(ぼう)女史が、女史というより優しいおばさんのような温かい雰囲気の方だったが、ご一緒して下さった孔徳懋女史は孔府家酒のメーカーの名誉会長のような役割を果たしておられ、そのパンフレットには数枚の女史の写真やPRのために書かれた書が載っている。その写真の中にラストエンペラーの溥儀元満州国皇帝の弟の溥傑氏と孔女史が乾杯している1枚がある。元皇弟の妃に日本の貴族嵯峨侯爵家の浩子姫が配され、その娘さんが日本留学中、心中事件を起こして大きな話題になったことを記憶している。

 『孔府家酒』など孔府酒庄で製造されるお酒は日本や東南アジアにも輸出され、中国の外貨獲得に一役買っているらしい。
 孔女史から巡拝団全員に『孔府家酒』2本ずつ戴いたが、その1本は紹興郊外にある王陽明の墓の上に撒き、1本は帰国した当夜の私の論語講座の後のミーティングの席で出席者が賞味した。
 曲阜でのお別れの宴のあと、ホテルの一室で女史から懇切なご挨拶があり、お酒の他に女史の書を戴く。
 書は『徳不孤必有鄰』。論語の中でも私の好きな言葉の一つである。トラックショーがやっと成立した昭和59年の第一回の開会式で「徳は孤ならず、必ず鄰あり」の言葉を述べた。孤立無援と周辺から見られる状態の中で、大きな励ましとなったこの字を戴いたのは嬉しい。

 孔徳懋女史の弟さんが台湾におられる孔徳成先生である。孔家77代の当主で、孔子直系が住んだ孔府の奥の部屋で、ここで徳成が生まれ、この部屋で徳成夫婦は住んでいた、と嬉しそうに女史は話しておられた.社会主義中国の出現で姉弟は大陸と台湾に別れ別れになり、40数年ぶりに東京で再会した。
 孔徳成先生に書いて戴いたわが社名ゆかりの『苟日新』(まことに日に新たなり)の書と女史の『有鄰』、本当に有難いことだ。

 曲阜を離れる朝は雷も伴う大雨だった。渇き切った黄土に、ロバで運んだ僅かな水をかけながら苗を植えていたあの農民達がどれ程喜んでいることか。この時節これだけの豪雨は珍しいそうである。

 名峰泰山は雨のため、ロープウェイの運行中止で登山不能、天子が泰山を祀った麓の岱(たい)廟から雲の切れ目に僅かに頂上が見えた。昨年春登った時には雪が残っていたが、楽しみにしていた一行の人達にとっては残念なことだったろう。ここには2200年前の秦代に書かれた李斯(りし)の書の石刻など、珍しい書碑がある。本殿の天貺(てんきょう)殿は、故宮、孔子廟と並ぶ中国三大建築物のひとつ。

 山東省の省都済南は黄河のすぐ南の町。有志の人達は泥沼のような道を黄河見物にバスから降りて行く。昨年は舟を繋いだフェリー桟橋に黄土を溶かした急流が押し寄せていたが、戻った人の話によると水量は少なかったそうだ。

 欠航かと心配された杭州行きの空便は厚い雲の中に飛び立ったものの、すぐ引き返した。計器不調が原因で、空港で2時間余り待機している間に叔父(伊與田覺成人教学研修所長)の王陽明についての話を聴く。講義は数知れず各地で行っている人でも、空港待合室でのそれは初めてだろう。テキストもなく1時間、陽明の生涯を語ったのはさすがと感心させられた。
 到着が大幅に遅れたこともあって、西湖見物と杭州大学訪問だけになった。杭州は名だたる観光名所、六和塔や岳王廟など訪問できなかった皆さんは心残りであったろう。

 宿舎は政府や軍幹部の泊まる保養所のような建物、窓のすぐ下は西湖の水である。杭州大学の学長さんや幹部の方をお招きしての夜宴でいい気持ちになってぐっすり寝込んで知らなかったが、夜半物凄い雷鳴と豪雨に見舞われたらしい。西湖を照らす稲妻をショーだと思ったと叔母は話したが、壮観だったろう。

 バスで紹興へ。この地域は水に恵まれ、気候も温暖、中国きっての豊かな農村地帯で、高さを競うように3階建て、中には4階の農家が並ぶ。かつて万元戸といって珍しがられたのが、今や軒並みである。曲阜郊外の、あの渇き切った畑に僅かの水を注ぎながら苗を植えていた農民達と何という相違であろう。ひたひたと水を張った田で、昔懐かしい田園風景が見られる。

 紹興は紹興酒の産地であり、魯迅(ろじん)の生地で、その旧居の一部は保存されている。土地きっての旧家、名家であった。名著『阿Q正伝』に1世紀も前の紹興の町が生き生きと描かれていて、当時の居酒屋もある。
 紹興の町外れに王陽明の墓がある。文革で破壊された跡を我々の同人である、九州大学名誉教授岡田武彦先生が主導者となって日本の有志から浄罪を募り、中国側も呼応して立派に修復した。

 王陽明墓からすぐ書聖王羲之(おうぎし)の蘭亭跡がある。この地で文人が会して曲水の宴を催した時の事を書いた『蘭亭叙』は古来の書跡の中でも最も有名で、真蹟は伝わらないものの多くの優れた写本がある。
 紹興から上海へ列車、女子乗務員がセールスウーマンに早変わりして絹のスカーフなどを売りに来た。以前は男性が掛け軸を売りに廻ってきたが、JR商魂そこのけだ。

 最終日の早朝、上海駅前のホテル食堂で復且大学日本研究中心鄭励志主任教授のお話で鄭先生とのご縁は15年にもなる。前回は自転車でやってきたのが、立派な乗用車で乗りつけた。自信に満ちた口調で、経済発展を目指す中国の新体制について話される。

 ガイドがしきりに目配せするのは空港へ行く時間を超過したからで、先生に挨拶もそこそこにタクシーに飛び乗る。前方から車や自転車がビュンビュン、交通ルール無視だ。
 空港内を駆け抜けて機中に。東京着4時。6時半から本場仕込みの論語講義で、中国の話に花が咲いた。
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プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学処分。
15歳で安岡正篤先生門下に入る。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。
 みなさん さようなら  11月13日 】
絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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