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みなさん さようなら

2018.08.16 07:21|伊與田先生コラム
軍旗奉焼塚―隠れたるより現るるはなし
伊與田 覺

 終戦の直後、昭和20年8月18日、軍隊のシンボルである連隊旗(軍旗)を奉焼し、駐屯地(高知県入野町御坊畑)近くの三百米の山頂、ジャングルの中に埋めました。そうして黒潮打ち寄せる磯辺の石を極秘に運び「神州不滅」の文字を彫り込んで、その上に立てたことは今年3月14日の本ホームページに掲載しました。なおご記憶の方もあろうかと存じます。

 本年は戦後60年の節目にも当たりますので私は去る10月9日、帰省の途次、20年振りに神州不滅の碑を訪ねようと、在郷の姪二人と同伴の孫を促して現地へ参りました。村の状態は60年前と大きな変わりはありませんでしたが、新たに「剣立部隊第三五三連隊軍旗奉焼塚・八五〇米」の石の指標が建てられていました。従って一同は安心して山道を登っていきましたが、私の錯覚から方向を間違え、遂に道を失って樹の間を右往左往する事3時間半、残念ながら空しく下山せざるを得ませんでした。私は迷いながら60年前の暑中、しかも深夜に碑石を運び上げた10余名の兵の苦労は如何ばかりであったかと、今更のように心から感謝いたした次第です。

 その後(10月28日)姪姉妹は地許の方の案内で難なく登頂し、無量の感慨を以て対面、先日その記念の写真を送ってくれました。併せて昭和56年、碑域の整備をした地許の老人クラブと地区戦没者遺族会の代表出島益馬氏(故人)の手記が同封されていました。


 「玉垣の建設に当たっては、老人が二十名ほど出役勤労奉仕してくれた。三百米と言う高い山坂道をビニールの袋に入れた洗砂バラスを背負いながら歩むというより這い登って行った。そんなに老人としては重労働であるのに、不平不満の者はなかった。終始この作業を指揮していた私は、涙がこぼれるほど嬉しかった。

 塚石には神州不滅以外に何も記入していない。それでは百年後に奉焼塚の意味が判らなくなってくる。それを慮って碑文を建てることになった。而もその碑文は私が書くことになった。私にとっては無上の光栄であるが、有りもしない知恵を絞り出して漸く書き上げたのである。それを山岳用の車に積んで運んだが、頂上の奉焼塚のある地点まで3時間を要した。加えて参道の登り口に道標を立てた。また人の通れるような道がないので山主の許可を得て道をつけた。(中略)

とにも角にも軍旗の奉焼塚こそ愛国の至情より生じた文化財とも言えるだろう。神州の不滅と世界平和を希って、軍旗奉焼塚よ永遠なれ、平和国家日本よ永遠なれと祈る。そうして平和の「シンボル」として、これを後世に伝えんとするものである」と。
「子曰わく、三軍も帥を奪うべきなり。匹夫も志を奪うべからざるなり」(子罕第九)



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プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学処分。
15歳で安岡正篤先生門下に入る。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。
 みなさん さようなら  11月13日 】
絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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