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みなさん さようなら

2008年8月18日
太平洋戦争開戦、原爆、終戦調印式を体験した人物の自叙伝

 昭和20年(1945)8月15日に敗戦で終わった太平洋戦争は、昭和16年12月8日のハワイ真珠湾奇襲で開戦した。その奇襲隊の指揮を執ったのが、淵田美津雄(当時海軍中佐)であった。淵田率いる奇襲隊によって瞬時に激沈した「戦艦アリゾナ」は、現在も真珠湾の海底に沈んだままになっており、その上を跨ぐ形で、アリゾナ・メモリアルホールが作られている。その「アリゾナ・メモリアルホール」のすぐ前に、日本降伏の調印式を行った「戦艦ミズーリ」が、現役当時の姿のままで保存されている。

 アメリカにとって屈辱の「戦艦アリゾナ」の沈没した姿と、栄光のシンボルである「戦艦ミズーリ」を並べたことは、太平洋戦争の終始を同場所の戦艦で示している唯一の例である。

 淵田は、開戦の立て役者であると同時に、敗戦の調印式にも参加した希有の人物であった。さらに、敗戦直前に広島、長崎に投下された原子爆弾の被害調査のため、直後に現地を訪れている。調査団の多くは原爆の後遺症で間もなく死亡したにもかかわらず、淵田は生き残った。それだけでなく、キリスト教の伝道師になって、アメリカはもとより世界各地で平和を説いて一生を終えた。『真珠湾攻撃総隊長の回想』は淵田の自叙伝である。

戦艦アリゾナ砲塔と真珠湾 18418
         淵田らによって撃沈された「戦艦アリゾナ」の砲塔と真珠湾


2008年8.月19日
淵田の死後30年も遅れた自叙伝の発行

 真珠湾攻撃総隊長の淵田美津雄は、開戦当時は37歳で海軍中佐、戦闘に参加する現役の飛行機乗りとしては限界に近い年齢だった。後に第一航空艦隊、連合艦隊の参謀として作戦計画に携わることになって終戦を迎える。幕僚は明晰な頭脳と同時に、優れた文章の作成力の持ち主であることが要求された。日本海海戦の連合艦隊の秋山真之参謀は文学青年を目指したほどで「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」「本日天気晴朗なれども波高し」の戦闘開始にあたって発した信号文は長く日本人に記憶された。

 淵田もまた、筆まめで良い文章を書いている。淵田が郷里の奈良県で73歳で死亡したのは昭和51年(1976)のことであった。生前すでに書き溜めていた自叙伝の発行が、なぜ没後30年余りも遅れて昨年末になったのだろうか。その資料的価値は絶大で、しかも数奇な運命に生きた男の自叙伝とあって、不況下の出版界にとっては絶好の素材であったはずなのに、である。

 事実、昨年末の発売以来、売れ行きは極めて好調で、重版を繰り返している。なぜ、発行がこれほど遅れたのか、それは淵田の生き方にも大きく関わっている。
(つづく)





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プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学処分。
15歳で安岡正篤先生門下に入る。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。
 みなさん さようなら  11月13日 】
絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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