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みなさん さようなら

2004年9月18日
孔子の時代にはどのようにして学習したのか

 「学習」という言葉は、誰でも知っている論語の最初に「子曰わく、学びて時にこれを習う、亦説(よろこ)ばしからずや」に由来する。
 では具体的に、孔子とその弟子たちが活躍したほぼ2500年前の学習の状態はどんなものだったのか、読者には想像できるだろうか。現在の学習といえば、教科書やテキストが簡単に手に入るし、テープレコーダーで録音、パソコン入力もできる。
 ところが、孔子の時代には、第一に紙がなく、印刷技術も発明されていない。従って、本そのものがない。弟子たちが、本による同じテキストで学習するという時代は、紙と印刷技術が発明されたかなり後世になってからである。

 ではどうして学習したのか。もちろん、その実態はわからないが、歴史や詩経などがどのように記録されていたのか、それを具体的に示す展示会があった。東京赤坂のサントリー美術館で現在開催中の「古代中国の文字と至宝」展である。8月からかな文字を習っている書道塾で知ったのだが、日本の書道界に指導的な役割を果たしている毎日書道展の記念事業として、中国の湖南省長沙市で発見された文書などの至宝を初めて大量に日本に運んで公開したのである。

 約2200年前の、まだ柔らかさが残っていた女性のソフトなミイラが発見されたことで、世界に一大センセーションを巻き起こした馬王堆(まおうたい)墳墓の発掘は、夥しい副葬品が出土した。その中には古典『老子』の解釈に変更を加えた原文なども含まれていたし、中国古代の書法を研究する超一級の多くの資料を提供した。さらに、その後に発見された貴重な古代の書法の変遷を物語る資料も展示されて、書を学ぶ人には必見の展示会であった。もちろん私もじっくりと見学したが、有難い展示会であった。

 「名を竹帛(ちくはく)に垂れる」という言葉は、その人の功名を記録に長く留めるという意味で、この場合の竹帛は記録文書に当たる。紙がなかった古代では、記録するのは竹か木を削いで作った竹簡や木簡が多く使用され、貴重なものは帛(きぬ)に書かれた。その竹帛が大量に出土したのが馬王堆その他の湖南省の遺跡だったのである。

 帛は貴重品だったから、一般には竹簡木簡が使用されたので、長い文章を記録するためには、それらを紐で結び合わして巻くのである。「韋編(いへん)三たび絶つ」とは、孔子が易経を編集していた時、繰り返し繰り返し読んだので、綴じ紐に使った韋(い・なめし皮)が切れてしまったことから、読書に熱心になることを表すようになった。(続く)


2004年9月25日

 現代の我々は、授業の時にノートなどに記録を取ることができるし、テープで録音も可能である。しかし、孔子の時代のように紙がない時代に、先生の講義をどのようにして記録したのだろうか。論語の冒頭に出る「学んで時にこれを習う」状況は、どうだったのか。先週のこのページに紹介した中国湖南省馬王堆の墓から出土した夥しい竹簡、木簡と貴重な帛(きぬ)に書かれた帛書(はくしょ)は当時の記録、あるいは書物がどのようなものであったかについて、推察するに十分な資料であった。

 短い記録や文章は、一本の竹簡木簡に書き留めることはできるが、少し多くなると、何本、何十本、何百本もの竹簡木簡が必要になる。それらをバラバラに保存していては整理がつかなくなるので、これを綴じ紐でつなぎ合わせて巻物にする。たびたび、巻物を広げると綴じ紐が切れるので、「韋編(いへん)三度絶つ」という読書熱心を表す言葉ができたことも述べた。講義の記録を取ることも、読書することも大変な時代だったのである。

 従って、孔子の講義を聴く弟子たちの態度は真剣そのもので、一字一句聞き洩らすまいと、耳をそばだてて覚え込もうとしたに違いない。竹簡を一々取り出して、メモするゆとりはないのである。あの言葉だけはどうしても記録して置きたい、という場合には竹簡に書き留めたのであろう。

 子張という孔子より48歳も若い弟子が、先生に「行われんことを問う」つまり、どうすれば思うように道が行われましょうか、と聞いたことがある。この答えは次のようにかなり長い。

「言忠信、行篤敬なれば蛮貊(ばんぱく)の邦と雖も行われん。言忠信ならず、行篤敬ならざれば州里と雖も行われんや。立ちては則ちその前に参するを見、輿(よ)にありては則ちその衡(こう)に倚(よ)るを見るなり。それ然る後に行われん。子張これを紳に書す。」

 要するに、言葉にまごころがこもり、行いがねんごろであれば、どんな辺鄙なところでも行われ、その反対の場合はごく近いところでも行われないものだ。この忠信篤敬の4字が何時でも何処でも、見えるようになれば初めて思うように行われるのだ、という意味である。子張はこの言葉を忘れまいとして紳つまり、帯の前に結んで垂れる布の上に書いたというのである。これも記録の方法であり、人に示すこともできる。

 論語が編集されたのは孔子の孫弟子の頃で、彼らは孔子の言葉や、問答、言動を書きつけた竹簡や木簡を持ち寄って、それらを並べた上で編み直して巻物にして行ったのだろう。論語の制作過程は、文字通りの編集作業の原点を示すものであった。





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プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学処分。
15歳で安岡正篤先生門下に入る。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。
 みなさん さようなら  11月13日 】
絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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