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みなさん さようなら

2018.10.04 10:00|外部 寄稿者
1991年(H3) 月刊「NewTRUCK」 10月号 外部寄稿
東欧州2700km ひた走りの旅 その②

戦後46年なお残る傷痕と押し寄せる自由化の波
イーワンエンジニアリング(有) 島西 保 代表取締役

日本の警察に見せられない話
 夕方早く入ったホテルベルビエのテラスから旧市街とエルベ河に架かるジョージ・ディミトロフ橋を眺めながらの食事は、時間がたつのを忘れさす雰囲気だ。第二次大戦の終末の頃、中世の壮麗さを伝える古都ドレスデンは米英の空軍の猛爆撃で一夜にして灰燼に帰したといわれ、その焼け跡、聖母教会がそのまま残されているのを見るに広島の原爆ドームを想い出さずにはいられない。

 7月24日、ドレスデンを離れ国道E55号で一路プラハを目指し南下する。国境越えの大型車が少ないせいか、小さいながら1.1Lのフェイスタは地元のトラバントをスイスイ追い越して走る。また、キャンプ場のマークを見付けて昼食にと脇道に5kmほど入った。受付で日本から来たこと、キャンプ場の施設の写真を撮りたいことを伝えると「どうぞ自由に」と指示された。キャンプ場はかなりの広さだがレイアウトは雑然として設備も悪く、トイレも仮設で現在シャワートイレ棟を建設中だ。レストランを探しながら湖畔に出て、やっと小さな売店を見付けてほっとした。私が店の行列に並び、焼き肉、ポテト、ジュースを買って湖畔の草地に帰り、腰を下ろしビールを飲み始めた。同行の妻が「お父さんちょっと!!」。「おかしいわよ?」家内の見詰める目の方を見ると、エエ!!??…何も付けてない!!。大勢いるビーチの中で、何も付けないで遊んでいる。男、男、女、女、日光浴している女性ももちろん隠しもせずに仰向けに大きく足をおっぴろげて…いる、いる、いっぱいいる。

 やはり女性は強い!「もうちょっと奥の方を見て来るわ」と、奥方ひとりでヨットハーバーの方まで鑑賞に。当方ビールを飲み飲みあっけにとられ、隠し撮りのカメラも手に力が入らず、目のフィルムに焼き付けた。奥のほうはもっと凄く、目のやり場に困ったとの報告。この場所、チェコにすぐ近いドイツ。Paulsdorf Malterのキャンプ場。来夏はツアーコンダクターをやります。よろしく。

自由化に呑まれた一等書記官
 国境越えは少し緊張した。トランクからはみ出したダンボール箱を見て電子部品ではないかと二度も止められトランクまで開けさせた。キャンプに行くとの説明とトランク内のテントを見て「よし」と手で合図されほっとする。8年前ドイツ、フランスの国境で車のルーフまで積んだ荷物に目を付けられトランクを開けられるや、それをまた写真を撮って国境警備に睨まれたことを思いだした。

 チェコ側に入るや道路が急に良くなったが、噂に聞く黒い森林地帯だ。道路脇の枯れた木々が目立つ。ドイツに向かうトラックの検問が厳しいのか反対車線の車は動かない。

チェコ 1991年
       写真左: チェコ側からドイツに向かうトラックの列   右: 宝くじ売りの美女 プラハで


 プラハのホテルには日本に長く駐在した元大使館員P氏夫妻の出迎えを受けた。P氏はバリバリの社会主義者で1968年の「プラハの春」の折、ソ連から侵入した戦車の前で赤旗を振って迎えたという人物。これらの功績で日本駐在一等書記官になった。キャンプを通じて知り合い、彼の家でパーティを開いたり、一緒によく呑んだものだが、一昨年のソ連からの解放の後すぐに本国へ送還され、身分の低い役人になったが、日本の繁栄と日本での一時の優雅な生活のギャップから職を捨てて自立した。その名はコンサルタント「東」。日本を愛するがゆえに、忘れられない大好きな東方の国を思い、「トーネット」とつけた。「まだたくさんの仕事はないよ」と、彼は自分の安アパートを車の窓から見上げながら語った。その遠くを見詰める目元は寂しそうに思えた。
(つづく)



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プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学処分。
15歳で安岡正篤先生門下に入る。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。
 みなさん さようなら  11月13日 】
絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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