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みなさん さようなら

2018.10.11 06:00|社長の軌跡/人に四季あり
1991年(H3)月刊「NewTRUCK」8月号
『人に四季あり 』

吉田茂元総理の国際性の教え
心なきは人間にあらず

梁瀬次郎 ① ヤナセ会長・社長

ヤナセ会長・社長 梁瀬次郎氏 1991年

 写真左: 梁瀬次郎氏(1991年)
   右: 吉田茂元首相の色紙 「老鶴萬里心」 素淮(そわい)は頭文字S・Yをもじった号 

大正5年(1916)東京都で出生。
昭和14年3月慶應義塾大学経済学部卒業。同月(株)ヤナセ入社、16年11月取締役就任、20年5月代表取締役社長就任(60年12月まで)60年12月代表取締役会長就任、62年10月兼ねて代表取締役社長に就任。
(社)日本輸入団体連合会副理事長、(特)日本自動車輸入組合理事長その他の公職多数に就任。藍綬褒章・勲2等瑞宝章・西独功労勲章大功労十字章受章。

人生 ジャンケンポン
新随筆集に取り組み中

増田 先日お亡くなりになった堀久さんから、ヤナセさんのことはよくお聞きしていましたし、先代の梁瀬長太郎さんが堀久さんに贈られた署名入りの「日本自動車史と梁瀬長太郎」と、会長のこれも署名入りの「轍(わだち)」5巻をお借りして、是非とも会長にはお目にかかりたいと思っておりました。
梁瀬 大変にご丁寧なお手紙を戴きました。取材の前にマスコミの方からこういうお手紙を戴いたのは初めてのことで、それだけに時間をかけていいお話をしたいと思いますが、生憎、今はこれからお葬式もあります。
(5月28日逝去の勝田龍夫日本債券信用銀行名誉会長の)
 目の具合が少し悪くて、近く白内障の手術をしなければと思っていますし、それが済んで調子が良くなってから本格的にスタートしましょう。
―― よく分かりました。白内障の手術も随分簡単になったようですが。
梁瀬 白内障でない方は皆さんそうおっしゃる。男が女性を摑まえて、お産なんか大したことないよ、というようなものですよ。(笑)
―― こうしてお目にかかれるようになって、会長のお書きになった随筆集の「あごひげ」を読ませて戴きました。実にすらすらと流暢に運ばれている、いい文章だと感服しました。
梁瀬 文才のない者が頭かきかき書いて、恥をかく、書いてゆくのは苦しいことでね。
―― 苦しんで書いておられるようには見えませんが。
梁瀬 いま又、書いているんですよ。
 去年、書き始めることを決意して、この2月あたり迄は割に順調に来たのですが、目の具合も悪くなったりで、調子に乗ると1日に20枚や30枚書けるのですが、ダメになると3ヵ月位も放り出したままになっちゃう。シロウトというのは気が乗らないと書かないもので。
―― 会長さんのような立場の方が、いい文章をどんどん書いていかれると、我々それでメシを食ってるのは困ってしまいます。こちらは気が乗ろうと乗るまいと、書き続けなきゃならんのですから。(笑)
梁瀬 私がいま書いているのは実に変わった題の本なんです。こういう題の本は今までないと思いますよ。
 ジャンケンポンという。
 人生というのは振り返ってみますと、大体ジャンケンポンの繰り返しだと思うんですね。
 相手がいてのジャンケンポンもありますけど、ひとり心の中で、どう決めようかなァと思っている時、心の中でジャンケンポンをやっているんです。…
―― 面白い題名だと思いますよ。是非、書き進めて下さい。
梁瀬 夏過ぎ迄に何とかまとめようと思っているのですがテープが使えないし、口述して誰かに書かせることもできない。自分で書くしかないんですが、ポッと思い出した時にパアーッと書きますからどこへ入ってゆくかわからない。大きく分けて戦前、戦中、戦後、晩年と4つに分けるつもりです。
―― ご自分で晩年とおっしゃるにはまだ早いんじゃないですか。
梁瀬 その言葉がいかんというお説もありますが、晩を過ぎれば夜で、今晩は、と言う人はあっても、今夜は、とは言わない。晩を過ぎれば夜で、晩というのは夜の前、昼と夜との間だ。秋が暮れていくと晩秋と言うしね。
 熟年という歳でもないし、これはもう晩年ですよ。

禍が福に 関東大震災
父子ともに大きな転機

梁瀬 私には兄がいたんだが、生後3ヵ月の時、隣の家事で、消防の水を頭からかぶって急性肺炎を起こして死んじゃった。これもジャンケンポンで、もし、おぶっていた女中が気を利かせて、ねんねこを頭からかぶせてくれてりゃ、私は自動車屋にならないですんだかも知れない。
―― 大正5年(1916)のお生まれで、ヤナセの創業はその前年の大正4年、殆ど同時ですね。お小さい頃、随分弱かったのが、大正12年の関東大震災で田舎の方へ行かれて健康になったと書かれています。
梁瀬 震災で家も小学校も焼けてしまって、群馬のオヤジの郷里に行かされました。そこで初めて井戸水飲んで、胡瓜やトマトを囓っているうちに元気になりました。
 震災は物質的には非常に大きな損失だったけれども、一生涯通じてみて、健康体になったというのは大変な幸せで、出会い、巡り合いというのは本当に恐いですね。
―― その関東大震災の時にご尊父も大きなジャンケンポンを体験しておられますね。
梁瀬 大正10年頃には第一次大戦後の不況で在庫は増えるし、その対策に追われて疲れたオヤジが母親を連れて、欧米の自動車業界の視察に出発したのが大正12年の5月。アメリカを経てヨーロッパを廻ってフランスから地中海を経て帰国する予定をしていたのに、急に変更してもう一度アメリカに行くことにした。乗船した日が9月1日、時差の関係で2日に富士山がなくなったとか東京湾が埋まってしまったというニュースが船に届いたのですね。
 そこでオヤジは船の図書館で、サンフランシスコなどの大地震の勉強をして、大きな異変のあった後は、物が動くよりまず人が動くと確信して、アメリカで2千台の乗用車の買い付けをしました。日本の在庫の5百台の車も全部売り切れて、2千台も荷が着くまでに全部売れてしまった。
 お陰で、会社が立ち直ったのですが、あの時どうして予定を変更してもういっぺんアメリカに戻ったのかと聞いても、わからないと言っていました。なぜグーを出したのかと聞かれても答えられないと同じで、これもジャンケンなんですよね。
 その時にトラックが売れると輸入した会社は在庫を抱えて困ったと聞きました。

写す人の心が映像に
アマとプロとの違い

―― 随筆「あごひげ」の他に立派な写真集を2冊も出しておられます。写真はお若い頃からですか。
梁瀬 いや、写真を始めたのは還暦を過ぎた時からです。
 これから死ぬ迄、何か趣味と道楽を持ちたいと思ったのですが、俳句をやるにもその才能がない、碁は相手がいる、麻雀は3人探さなきゃいけない、ひとりでできて、余り金も時間もかからないというので写真を始めたんです。
 60過ぎて始めたものですから、夕日を写すことが多いのですが、今日一日うまくいったと喜んでいる時にお帰りになるおてんと様と、今日は嫌な日だった、あの野郎は何と不愉快な奴だと思って見るおてんと様の泣きながらお帰りになる時と、夕日が全部違うんですね。
 しかし、よく考えてみると、おてんと様のお顔は変わっていなくて、写す人の心が出ちゃうんですよね。
 ああ、嫌な日だったが、おてんと様はきれいだなァと思って写すと、おてんと様はポロポロ涙をこぼしていなさる。
―― 私は商売柄、カメラを持って旅行することは多いのですが、とても会長のように突っ込んだ写真は撮れません。
梁瀬 先だって、立木義浩さんと対談させられたのですが、シロウトの方は楽しみながら撮りたいものを撮っておられる、我々プロは撮りたくないものでも苦しみながら撮っている、違いますねと言っていました。
 写真を写すために旅行したことは一度もなくて、出張の時、あーっいいアングルだと思うとすまないが止めてくれといって窓から撮ったりします。
 ところが、理解してくれない運転手なんかだと、ここは帰りにもう一度通りますから、なんて言う。(笑)
―― 先程、隣の部屋で沢山の写真を拝見しました。夕日もいいですが、花をモチーフにしたのにもいい作品が多くて、会長の温かさを感じました。

梁瀬次郎氏撮影
                    本年の連休ハワイでの会長撮影写真(1991年)


愛国心を持つ国際人
吉田茂元総理の教え

―― 吉田茂総理の書と、お二人の写真がありますね。
梁瀬 大磯のお屋敷のお玄関で写したものです。
 吉田さんは首相ご在任の頃、西ドイツを訪問されて当時のアデナウアー首相にベンツを買うと約束されたのですが、当時は輸入が自由化されていなくて、首相といっても購入はできなかった。やっと昭和38年になって一般の人が輸入車を購入できることになって、ベンツ300Eモデルの第一号車のシートに真っ赤なバラを飾って大磯にお届けしました。
 大変お喜び戴いて、その日のうちにアデナウアー元首相に約束を果たして新しいベンツに乗っていると電報を打たれたところ、約束をお守り戴いたことを感謝すると返電があったと伺いました。
 それからすぐ大磯にお招きを受けて、昼食をご一緒しながら2時間ばかりお話を拝聴することができました。私にとって一生の思い出です。
―― 吉田さんは、私の郷里土佐のご出身で、私の尊敬する政治家のひとりです。
 この色紙は「老鶴、萬里に心す」と読むのでしょうか。外交官出身の吉田さんらしいいい言葉ですね。
梁瀬 吉田さんがおっしゃったのは、これからの日本は国際化しなきゃ駄目だ、地下資源は何もないんだ、国際化というのは英語を勉強するだけじゃない、ニューヨークのハーレムに行けばハーレムの乞食でも英語喋ってるんだ、国際化、国際人というものは日本の将来を考え、日本を愛する愛国心の持主でなければならないと強調されました。
―― 私も時折外国へ出かけますが、日本のことを殆ど知らなくて、ただ物見遊山や買物に出かけている人が多いですね。
梁瀬 貿易収支で黒字が余っているから、もっと休め、外国に行って金を使えなんてこと言うから、日本のことも分からない人達が外国にどんどん出かけて行って、日本人の品性を疑わせるようなことばかりやっている。
 ああいうことより、お金が余っているなら困っているところに出して、アパートでも病院でも建ててあげる、そういう方向に使うべきです。
―― 吉田さんが生きておられたらどうお考えになるでしょう。
梁瀬 お前ら何をしてんだ、と政治家にコップの水をぶっかけたかも知れませんね。

心なき者は人間に非ず
池波正太郎の世界

―― 「あごひげ」を拝読して、重症の池波正太郎病患者であるのには驚きました。ハイカラな梁瀬さんと「剣客商売」の秋山小平の世界はちょっと結びつかない気もしたのですが。
梁瀬 偶然、本屋で先生の「その男」を手に取って読み出してから病みつきになりました。
 先生の著書の中に秋山小兵衛という、悪しき者を叩き、命を張って実に気持ち良く生きてゆく老剣客がいるのですが、どうしても秋山小兵衛のような老人になりたい。先生の本の中にある、人が人に褒められようと思って生きているうちは餓鬼である、人に好かれようと思っている間は屑であり、思った通り生きるのが60歳以降の生き方である、というところに打たれましたね。
 人間はひとりで生まれてひとりで死んでゆく、その人と人との間にあるのが人間で、親や友人、まわりの人達の尊敬と協調によって生きてゆける。
 池波先生は「男は知あり、力、富、あれど、心なき者は人間にあらず。女は眉目美しく、体型すぐれていても、心なき者は美人にあらず」とよく言っておられますが、本当にそうだと思いますね。
 心とは何かというと、思いやりであり、感性なんであり、人に対する親切です。
―― 衣食足りて礼節を知ると言いますが、心の方は貧しくなる一方のような気がしますね。
梁瀬 デパートのエスカレータに乗っているように、誰でも上に昇ってゆく、階段を苦労して昇ってれば、有難みがわかりますが、エスカレータやエレベータばかりだから、親、友達など周囲の人達、空気や水まで全てのものに対する感謝の心を忘れてしまった。
 池波先生はまた「人の一生は出会いと巡り合いによって幸、不幸が決まる」と言っておられます。恵まれた家庭や家業の二代目、三代目が、その巡り合わせに感謝することを忘れて自分の力でそうなったと考えるのは大きな心得違いです。
―― 有難うございました。次回から本筋に入ります。
(つづく)


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プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学処分。
15歳で安岡正篤先生門下に入る。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。
 みなさん さようなら  11月13日 】
絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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