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みなさん さようなら

2018.10.11 06:00|社長の軌跡/人に四季あり
1991年(H3)月刊「NewTRUCK」8月号
『人に四季あり 』

吉田茂元総理の国際性の教え
心なきは人間にあらず

梁瀬次郎  ヤナセ会長・社長

ヤナセ会長・社長 梁瀬次郎氏 1991年

 写真左: 梁瀬次郎氏(1991年)
   右: 吉田茂元首相の色紙 「老鶴萬里心」 素淮(そわい)は頭文字S・Yをもじった号 

大正5年(1916)東京都で出生。
昭和14年3月慶應義塾大学経済学部卒業。同月(株)ヤナセ入社、16年11月取締役就任、20年5月代表取締役社長就任(60年12月まで)60年12月代表取締役会長就任、62年10月兼ねて代表取締役社長に就任。
(社)日本輸入団体連合会副理事長、(特)日本自動車輸入組合理事長その他の公職多数に就任。藍綬褒章・勲2等瑞宝章・西独功労勲章大功労十字章受章。

人生 ジャンケンポン
新随筆集に取り組み中

増田 先日お亡くなりになった堀久さんから、ヤナセさんのことはよくお聞きしていましたし、先代の梁瀬長太郎さんが堀久さんに贈られた署名入りの「日本自動車史と梁瀬長太郎」と、会長のこれも署名入りの「轍(わだち)」5巻をお借りして、是非とも会長にはお目にかかりたいと思っておりました。
梁瀬 大変にご丁寧なお手紙を戴きました。取材の前にマスコミの方からこういうお手紙を戴いたのは初めてのことで、それだけに時間をかけていいお話をしたいと思いますが、生憎、今はこれからお葬式もあります。
(5月28日逝去の勝田龍夫日本債券信用銀行名誉会長の)
 目の具合が少し悪くて、近く白内障の手術をしなければと思っていますし、それが済んで調子が良くなってから本格的にスタートしましょう。
―― よく分かりました。白内障の手術も随分簡単になったようですが。
梁瀬 白内障でない方は皆さんそうおっしゃる。男が女性を摑まえて、お産なんか大したことないよ、というようなものですよ。(笑)
―― こうしてお目にかかれるようになって、会長のお書きになった随筆集の「あごひげ」を読ませて戴きました。実にすらすらと流暢に運ばれている、いい文章だと感服しました。
梁瀬 文才のない者が頭かきかき書いて、恥をかく、書いてゆくのは苦しいことでね。
―― 苦しんで書いておられるようには見えませんが。
梁瀬 いま又、書いているんですよ。
 去年、書き始めることを決意して、この2月あたり迄は割に順調に来たのですが、目の具合も悪くなったりで、調子に乗ると1日に20枚や30枚書けるのですが、ダメになると3ヵ月位も放り出したままになっちゃう。シロウトというのは気が乗らないと書かないもので。
―― 会長さんのような立場の方が、いい文章をどんどん書いていかれると、我々それでメシを食ってるのは困ってしまいます。こちらは気が乗ろうと乗るまいと、書き続けなきゃならんのですから。(笑)
梁瀬 私がいま書いているのは実に変わった題の本なんです。こういう題の本は今までないと思いますよ。
 ジャンケンポンという。
 人生というのは振り返ってみますと、大体ジャンケンポンの繰り返しだと思うんですね。
 相手がいてのジャンケンポンもありますけど、ひとり心の中で、どう決めようかなァと思っている時、心の中でジャンケンポンをやっているんです。…
―― 面白い題名だと思いますよ。是非、書き進めて下さい。
梁瀬 夏過ぎ迄に何とかまとめようと思っているのですがテープが使えないし、口述して誰かに書かせることもできない。自分で書くしかないんですが、ポッと思い出した時にパアーッと書きますからどこへ入ってゆくかわからない。大きく分けて戦前、戦中、戦後、晩年と4つに分けるつもりです。
―― ご自分で晩年とおっしゃるにはまだ早いんじゃないですか。
梁瀬 その言葉がいかんというお説もありますが、晩を過ぎれば夜で、今晩は、と言う人はあっても、今夜は、とは言わない。晩を過ぎれば夜で、晩というのは夜の前、昼と夜との間だ。秋が暮れていくと晩秋と言うしね。
 熟年という歳でもないし、これはもう晩年ですよ。

禍が福に 関東大震災
父子ともに大きな転機

梁瀬 私には兄がいたんだが、生後3ヵ月の時、隣の家事で、消防の水を頭からかぶって急性肺炎を起こして死んじゃった。これもジャンケンポンで、もし、おぶっていた女中が気を利かせて、ねんねこを頭からかぶせてくれてりゃ、私は自動車屋にならないですんだかも知れない。
―― 大正5年(1916)のお生まれで、ヤナセの創業はその前年の大正4年、殆ど同時ですね。お小さい頃、随分弱かったのが、大正12年の関東大震災で田舎の方へ行かれて健康になったと書かれています。
梁瀬 震災で家も小学校も焼けてしまって、群馬のオヤジの郷里に行かされました。そこで初めて井戸水飲んで、胡瓜やトマトを囓っているうちに元気になりました。
 震災は物質的には非常に大きな損失だったけれども、一生涯通じてみて、健康体になったというのは大変な幸せで、出会い、巡り合いというのは本当に恐いですね。
―― その関東大震災の時にご尊父も大きなジャンケンポンを体験しておられますね。
梁瀬 大正10年頃には第一次大戦後の不況で在庫は増えるし、その対策に追われて疲れたオヤジが母親を連れて、欧米の自動車業界の視察に出発したのが大正12年の5月。アメリカを経てヨーロッパを廻ってフランスから地中海を経て帰国する予定をしていたのに、急に変更してもう一度アメリカに行くことにした。乗船した日が9月1日、時差の関係で2日に富士山がなくなったとか東京湾が埋まってしまったというニュースが船に届いたのですね。
 そこでオヤジは船の図書館で、サンフランシスコなどの大地震の勉強をして、大きな異変のあった後は、物が動くよりまず人が動くと確信して、アメリカで2千台の乗用車の買い付けをしました。日本の在庫の5百台の車も全部売り切れて、2千台も荷が着くまでに全部売れてしまった。
 お陰で、会社が立ち直ったのですが、あの時どうして予定を変更してもういっぺんアメリカに戻ったのかと聞いても、わからないと言っていました。なぜグーを出したのかと聞かれても答えられないと同じで、これもジャンケンなんですよね。
 その時にトラックが売れると輸入した会社は在庫を抱えて困ったと聞きました。

写す人の心が映像に
アマとプロとの違い

―― 随筆「あごひげ」の他に立派な写真集を2冊も出しておられます。写真はお若い頃からですか。
梁瀬 いや、写真を始めたのは還暦を過ぎた時からです。
 これから死ぬ迄、何か趣味と道楽を持ちたいと思ったのですが、俳句をやるにもその才能がない、碁は相手がいる、麻雀は3人探さなきゃいけない、ひとりでできて、余り金も時間もかからないというので写真を始めたんです。
 60過ぎて始めたものですから、夕日を写すことが多いのですが、今日一日うまくいったと喜んでいる時にお帰りになるおてんと様と、今日は嫌な日だった、あの野郎は何と不愉快な奴だと思って見るおてんと様の泣きながらお帰りになる時と、夕日が全部違うんですね。
 しかし、よく考えてみると、おてんと様のお顔は変わっていなくて、写す人の心が出ちゃうんですよね。
 ああ、嫌な日だったが、おてんと様はきれいだなァと思って写すと、おてんと様はポロポロ涙をこぼしていなさる。
―― 私は商売柄、カメラを持って旅行することは多いのですが、とても会長のように突っ込んだ写真は撮れません。
梁瀬 先だって、立木義浩さんと対談させられたのですが、シロウトの方は楽しみながら撮りたいものを撮っておられる、我々プロは撮りたくないものでも苦しみながら撮っている、違いますねと言っていました。
 写真を写すために旅行したことは一度もなくて、出張の時、あーっいいアングルだと思うとすまないが止めてくれといって窓から撮ったりします。
 ところが、理解してくれない運転手なんかだと、ここは帰りにもう一度通りますから、なんて言う。(笑)
―― 先程、隣の部屋で沢山の写真を拝見しました。夕日もいいですが、花をモチーフにしたのにもいい作品が多くて、会長の温かさを感じました。

梁瀬次郎氏撮影
                    本年の連休ハワイでの会長撮影写真(1991年)


愛国心を持つ国際人
吉田茂元総理の教え

―― 吉田茂総理の書と、お二人の写真がありますね。
梁瀬 大磯のお屋敷のお玄関で写したものです。
 吉田さんは首相ご在任の頃、西ドイツを訪問されて当時のアデナウアー首相にベンツを買うと約束されたのですが、当時は輸入が自由化されていなくて、首相といっても購入はできなかった。やっと昭和38年になって一般の人が輸入車を購入できることになって、ベンツ300Eモデルの第一号車のシートに真っ赤なバラを飾って大磯にお届けしました。
 大変お喜び戴いて、その日のうちにアデナウアー元首相に約束を果たして新しいベンツに乗っていると電報を打たれたところ、約束をお守り戴いたことを感謝すると返電があったと伺いました。
 それからすぐ大磯にお招きを受けて、昼食をご一緒しながら2時間ばかりお話を拝聴することができました。私にとって一生の思い出です。
―― 吉田さんは、私の郷里土佐のご出身で、私の尊敬する政治家のひとりです。
 この色紙は「老鶴、萬里に心す」と読むのでしょうか。外交官出身の吉田さんらしいいい言葉ですね。
梁瀬 吉田さんがおっしゃったのは、これからの日本は国際化しなきゃ駄目だ、地下資源は何もないんだ、国際化というのは英語を勉強するだけじゃない、ニューヨークのハーレムに行けばハーレムの乞食でも英語喋ってるんだ、国際化、国際人というものは日本の将来を考え、日本を愛する愛国心の持主でなければならないと強調されました。
―― 私も時折外国へ出かけますが、日本のことを殆ど知らなくて、ただ物見遊山や買物に出かけている人が多いですね。
梁瀬 貿易収支で黒字が余っているから、もっと休め、外国に行って金を使えなんてこと言うから、日本のことも分からない人達が外国にどんどん出かけて行って、日本人の品性を疑わせるようなことばかりやっている。
 ああいうことより、お金が余っているなら困っているところに出して、アパートでも病院でも建ててあげる、そういう方向に使うべきです。
―― 吉田さんが生きておられたらどうお考えになるでしょう。
梁瀬 お前ら何をしてんだ、と政治家にコップの水をぶっかけたかも知れませんね。

心なき者は人間に非ず
池波正太郎の世界

―― 「あごひげ」を拝読して、重症の池波正太郎病患者であるのには驚きました。ハイカラな梁瀬さんと「剣客商売」の秋山小平の世界はちょっと結びつかない気もしたのですが。
梁瀬 偶然、本屋で先生の「その男」を手に取って読み出してから病みつきになりました。
 先生の著書の中に秋山小兵衛という、悪しき者を叩き、命を張って実に気持ち良く生きてゆく老剣客がいるのですが、どうしても秋山小兵衛のような老人になりたい。先生の本の中にある、人が人に褒められようと思って生きているうちは餓鬼である、人に好かれようと思っている間は屑であり、思った通り生きるのが60歳以降の生き方である、というところに打たれましたね。
 人間はひとりで生まれてひとりで死んでゆく、その人と人との間にあるのが人間で、親や友人、まわりの人達の尊敬と協調によって生きてゆける。
 池波先生は「男は知あり、力、富、あれど、心なき者は人間にあらず。女は眉目美しく、体型すぐれていても、心なき者は美人にあらず」とよく言っておられますが、本当にそうだと思いますね。
 心とは何かというと、思いやりであり、感性なんであり、人に対する親切です。
―― 衣食足りて礼節を知ると言いますが、心の方は貧しくなる一方のような気がしますね。
梁瀬 デパートのエスカレータに乗っているように、誰でも上に昇ってゆく、階段を苦労して昇ってれば、有難みがわかりますが、エスカレータやエレベータばかりだから、親、友達など周囲の人達、空気や水まで全てのものに対する感謝の心を忘れてしまった。
 池波先生はまた「人の一生は出会いと巡り合いによって幸、不幸が決まる」と言っておられます。恵まれた家庭や家業の二代目、三代目が、その巡り合わせに感謝することを忘れて自分の力でそうなったと考えるのは大きな心得違いです。


会社と同じ年を生きて
山あり谷あり長い歴史

増田 前回は取材の時間も短くて、正式の対談記事は1号送りにしたいとおっしゃったのを無理にお願いして、筋書きらしいものがないままに掲載して申し訳なく思っております。
 今日は多少の筋書きらしきものを追ってお話を承って参りたいと存じます。
 先月お会いした時、近く白内障の手術をなさるとおっしゃっておられましたが、無事に終わりましたか。
梁瀬 いや、お会いした日に勝田龍夫さんのお葬式があって、奥様にどうしてとお聞きすると、元気だったのだが、目が見えにくくなって、白内障の手術をなさっているうちに心臓が止まったとおっしゃったのをお聞きしたものですから、いま手術をちょっと止めています。
 まあ、目も耳も多少不自由だといっても取り替えるわけにもいかず、不平を言ってもどうにもならない、ある年齢に達するとそうなりますね。
―― ご尊父(長太郎氏) が三井物産から独立して梁瀬商会を創立されたのが大正4年(1915)、会長のお生まれは翌年の大正5年、ほぼ4分の3世紀が過ぎました。
梁瀬 会社の方が私よりほんのちょっと年上ですが、長い歴史にはラクダの背中のようにコブもあれば谷もある、人間には平和な時と、戦わねばならぬ時がありますよね。
 ちょうど今、元気な時に、戦うべき時にぶつかったものですから幸せだと思っています。
 私にとって戦いというものはお医者様から戴くビタミン剤、ホルモン剤より健康にはいいですね。
―― 性(しょう)に合ってますか。
梁瀬 合ってる。
―― 戦国乱世の武将のようなもので、平和な時のお大名じゃないですな。
梁瀬 平和で何もしなくてもメシが食えて、銀行に行けばなにがしかのお金がおりる、旅ができて、のんびりできたらさぞかし幸せだと思うでしょう。ところが、それでは三カ月持たないと思うんですね。
 のんびりしたら急に腑抜けになって老け込んでしまいますね。人間には何か目標とか目的がないと老い込む。学校の同窓生も皆さん引退して、毎日やっていることを聞くと、よくそれで生きてゆく気力が出てくるものだなァと感心するほど暢気な生活をしています。…

禍が福に 関東大震災
GMの間の不幸な歴史

―― ヤナセの歴史そのものがそれだけ波乱に満ちていたともいえるのじゃないですか。
 ご尊父が創業されてから暫くは第一次大戦下の好況で社業も伸びたのですが、戦後の大正9年の大不況の大ガラ(株の暴落)で、会社を思い切って縮小した先代は、奥様をお連れになって、海外に旅立たれました。その帰途、フランスからアメリカに向かう船で関東大震災のニュースを聞いて、アメリカで大量の乗用車を発注、不況で在庫の車も、新輸入車も全部捌けて、いっぺんに会社が立ち直ったお話は前回お聞きしました。
 先程のラクダの背中のコブと谷のように、実に大きな浮沈を体験しておられますね。
梁瀬 外国へ出発する時の顔と帰国した時の顔があれほど違った人は見たことがない、と人から聞きました。
 ところがいいことのあった後は必ず悪いことのあるもので、慢心か安心か、油断大敵、火のぼうぼうで、今度は芝浦工場が失火で全焼してしまいました。
(大正14年12月18日)
 この時、宮様からお預かりしていた乗用車2台も焼失、宮内省にモーニングを着用してお詫びに参上したのが堀久さんです。(堀政樹自動車精工社長の父)
―― 堀久さんといえば、純国産乗用車(ヤナセ号)の製作の中心人物でしたが、製造原価が輸入車より高くついて大損をするので、ヤナセが国産車製作を断念するきっかけを作った方です。たしかに失敗でしたが、大正時代に、ヤナセが国産車を製造した事実は、日本の自動車史に特筆すべき事実でしょう。
 昭和に入って大恐慌に見舞われましたが、一方で自動車業界はバス、トラック、タクシーが普及して、外国車、国産車入り乱れての販売合戦が展開されます。その過程で、永年GM車の国内販売をしていたヤナセがその販売権を自ら放棄する悲劇が起きました。
 この原因は先代の意地、短気、或いは思い違い、何だったのでしょう。
梁瀬 私はその時まだ子供だったので、理由はわかりませんでした。この昭和2年から暫く機嫌の悪かったこと悪かったこと、お袋にばかり当たるわけにもいかぬし、妹の他に男の子は私ひとりだからよく当たられました。
 もっとも、その前、大正9年からの不況の時にも機嫌が悪かったことが記憶に残っています。
 後になって事情がわかったのですが、関東大震災のあと、アメリカ車はどっと日本に入って、これは大変な市場であると認識したフォードは大正14年に横浜(新子安)に日本フォードを設立、組立を開始したのに続いてGMが昭和2年、大阪にSM日本社を作って組立工場を作りました。
 フォードの方は全国に販売店を作って大量販売に乗り出しているし、GMとしても販売政策の再検討が迫られた。
 そこで出てきた案が、キャデラック、ラサール、ビュイック、オールズモービルなどの高級車は従来通りヤナセに、量産大衆車のシボレーだけはヤナセの店のあるところはそのまま、店のない県は全県1社ずつの販売店を設けさせてほしい、そして折角長い間GM車の販売に協力してくれたのだから、3年間は3%だったかのコミッションを差し上げましょう、という条件だったようです。
―― 悪くない条件ですな。
梁瀬 悪くない。私だったら有難うございます、といって承諾するところです。
 どうしてもわからないので、オヤジも亡くなったずっと後年、その交渉の席に出たGM側の人が健在だとお聞きしたので、一生の勉強にしたいので、なぜオヤジがあの時怒って席を立って決裂させてしまったのか、その間の事情を教えて戴きたいと手紙を書いたら、80過ぎたそのアメリカ人が、タイプを使わずにペンで書いた詳細な手紙を寄越してくれ、その中に「お父上はGM側の英語をよく理解していなかった」との一文がありました。
―― 先代は一橋大学を出て三井物産に入社され、英語はペラペラの筈じゃなかったですか。
梁瀬 ニューヨークでオヤジのスピーチを聞いた人が、まるでシェークスピアのスピーチのよう実に美しかったけれども、ちっともわからなかったと言った人もありました。
 このことがあったものですからあちらの方とお話ししていても、お天気や食事、冗談までで、仕事の方に話が移った途端にパッと日本語に切り替えます。私より英語の上手な社員がうちには沢山いますから。
 それと商人は忍耐強くなければならないこと、こちらから喧嘩をしかけてはならないことをオヤジから無言で教えられました。
 現在も、外国車のメーカーとの間にはいろいろなことがあります。しかし、オヤジのように長い間GM車の販売に努力してきたからというようなプライドで、販売権も放棄してしまうようなことはいたしません。あくまでもスジを通して忍耐強く折衝してゆきます。
―― 貴重な教訓ですが、授業料は高くつきましたね。
 決裂したGMともシボレー以外の高級車がGM側の販売店では扱いきれず、4年後に再びヤナセにシボレー以外のGM車の販売権は戻っています。
梁瀬 昭和14年頃から外国車と部品の輸入ができなくなって、GM系の販売店は多くトヨタの販売店になって、神谷正太郎氏、加藤誠之氏など、その後の自動車販売をリードする人材が輩出しました。

戦時中の工場づとめ
代燃車と架装で操業

―― 慶応をご卒業になってヤナセにご入社されたのが昭和14年、既に戦時色はかなり濃くなっておりました。
瀬 外国製自動車の完全禁止の年です。満州事変が昭和6年、日中戦争が昭和12年に起こって、私の入社した昭和14年にはヨーロッパで第二次大戦が勃発、さらに翌々年には太平洋戦争が始まる、戦争の真っ最中という状態でした。
 会社に入って配属されたのは現在本社のある芝浦工場で、当時の本社は日本橋にありました。
 芝浦の方は砂利道で市電が走っており、私の念願はコンクリートの道を通って会社に通い、エレベータに乗りたい、そんなことでした。(笑)
―― ヤナセの本業である外車の輸入が禁止されて、会社はどうしてメシを食っていたのですか。
梁瀬 ガソリンが統制されて、トラックとかバスは薪、タクシーは木炭、自家用は天然ガスなどの代用燃料に切り替えました。うちは天然ガスに非常に強かった。千葉の茂原に湧いていた天然ガスを圧縮して瓶に詰めて、ガソリンスタンドで車のタンクに充填装置を作っていましたが、これは評判が良かった。たしか1280円であったと記憶します。私が最初に配属されたのがこの代用燃料の係です。
 もうひとつの柱がボデー架装や修理の部門で、軍用の特殊ボデーの仕事が急増してきましたので、そのために昭和14年に品川駅の裏に高浜工場を作りました。この工場へは田町駅から歩いて40分もかかる遠い所でしたし、勤労動員の女子学生なども増えてきてこれでは困るので、沖電気さんやうちなどの地域の工場が資金を出し合ってトンネルを掘り、品川駅から通えるようになりました。
―― 今は立派な地下道になって裏口に駅もできています。
梁瀬 このトンネルは電灯もなく、立ったままでは頭をぶつける程低いもので、上から水滴がポタポタ落ちてくるひどいものでしたが、それでも田町から歩くよりずっと近いし、楽でした。
―― 戦時中は車の販売はできなくて、芝浦と高浜の工務部門で会社を支えていたことになりますか。
梁瀬 日本橋の本社は殆どすることもなくなってしまったのですが、本社意識が強くて工務部を軽視する風があり、工務部は自分達で会社を支えているのだ、との意識に燃えていました。
―― そういう中で昭和16年、会長は26歳で取締役に選任されました、空襲も段々激しくなってくる段階で大変だったでしょう。
梁瀬 日本橋の本社の人達は、プーッと警戒警報が鳴るとさっさと帰宅してしまって寝泊まりしているのは留守番の年寄り夫婦だけでしたが、こちらの方は大事な工場を燃やしちゃいかんと空襲から守る意気に燃えて、殆どの人が食べる物もろくにないのに工場に寝泊まりしてくれました。

焼跡の東京で社長に
工場の莚の上で寝る

―― 度重なる空襲で東京が焼け野原になり、日本の敗色も明らかになった昭和20年5月30日、29歳で社長に就任されました。
 この難局の中での社長交代はちょっと奇異な感じもしますが。
梁瀬 昭和20年の春頃からオヤジは弱気になって、国の将来もないし、輸入自動車が再開されることも難しいと判断したようです。実は会社を解散しようとしたのは2度目で、1度目は先程お話しした大正9年です。
 5月25日に大空襲があって、三番町のオヤジの大好きな家も全焼して、5月30日の第51期定時株主総会の席上、オヤジは本日を以て会社を解散する、と言い出しました。
 そう言われても、工場で命を張って空襲から守っている人達のことを思うと、黙って承知するわけにはいかない。そう申し出たのですが、他の役員は黙ったまま。お考え直し戴きたいと何度か言っているうちに、雷様が落ちて、今後どうなるかわからないのに、大勢の従業員を抱えてやってゆけると思うのか、思えません、じゃ何故やるんだ、やってみなければわかりません、試合でも始めから負けると思ってはやれない、と言った時に、じゃお前がやれ、社長がやれないものをこんな若僧がやれるわけがない、できないなら余計なことを言うなと又雷様です。こんなことを7~8回繰り返した挙げ句、それではお前がやれ、本日の取締役会はこれで終わり、で社長に就任です。
 日本橋から市電に乗って芝浦口で降りて、えらいことになった、あの時黙って結構でございますと解散に賛成しとけば何ともなかったのに、つい若気の至りで愚かなことをしたものだと考えながら工場へ戻りました。
 そこで工場の主だった者を集めて、実はこういう事情で社長になっちゃった、どうだ、皆手伝って助けてくれるかと言うと、やりましょうと手を挙げてくれた。有難う、だけどオレのような若僧にはやれないよ、やれなくてもやりましょう、で力を合わせて頑張りました。
―― 29歳でよくその決心がついたものですね。今ならとても。
梁瀬 昔でもなかなかです。
―― 先代の足跡を見ますと、多少無理でもぐいぐい押してゆく面がある一方で、これはいけないと思ったらサッと引く、諦めの早いところがあったように見えます。
梁瀬 これはオヤジに限ったことではないと思いますが、創業者はゼロから始めて2とか3とか4になっている、止めてもどうってことはなく、故郷に錦を飾ってメシが食える、出発点に戻るのをそれほど気にしない。
 ところが2代目で、2か3か4をゼロにしたらバカ息子といわれる。そういう運命を自分で選んで生まれてくる人はひとりもない筈です。
―― 奥様と子供さんを田舎に疎開させて、お家を焼け出され着替えもないまま、工場のコンクリートの床のムシロの上で寝た、と「轍」に書いてあります。
梁瀬 食べるものもろくにない、それは悲惨なものでしたが、現場の人がシャツや猿股をお使い下さい、と持ち寄ってくれました。いま、有難いと思うのは、そういう試練を経たお陰で、どんなことがあっても自分さえしっかりしていれば、乗り越えられるものだという自信が身についたことです。
―― 会社の幹部の清水さんが5月25日の大空襲の日に自宅で急死して、その遺体を荼毘(だび)になさった記事がやはり「轍」にありました。
梁瀬 自宅の玄関でうつぶせになって死んでいて、疎開した家族にすぐ連絡も取れない、火葬場もないし、生まれて初めて人さまを焼きました。ガソリンをかけて焼いたのですが、シロウトの悲しさ、純毛の上着を脱がせるのを忘れたもので、それが縮んで身体の中に入って固まる、うちの社員と二人で2時間位かけてお骨にしたころ、弟さんが駆けつけてきてお骨をお渡ししました。その煙を見てグラマンが機銃掃射する、慌てて穴の中に逃げる。もう二度とご免ですね。
―― いや、恐れ入りました。
 その年の8月15日に終戦、日本も新しい時代に入ります。戦後の動きについては次回以降にお聞きします。


混乱から回復へ 必死の模索の中で活路を

梁瀬次郎氏 1991年
  写真右: 左から梁瀬長太郎氏 スチーブンソン氏 2人おいて梁瀬次郎氏 (昭和24年 GM契約新車展示会)

一致結束で克服の
敗戦直後の混乱期

増田 東京が焼土になった後の昭和20年の5月30日、29歳で社長にご就任になってすぐ終戦になりました。これで外車の輸入もできる、明るい展望が開けるとお考えになりましたか。
梁瀬 とてもそこ迄は。日本そのものがどうなるのかわからない時です。そこで8月16日、全員を集めて、これから新しい日本になる、これ迄のことはお仕舞いになるのだから、今日限り辞めて欲しいと言って、退職金を全部払っちゃった。
 その上で、オレと一緒に今後、命を張ってやろうという者だけ再入社してくれと言ったところ、何人か田舎へ帰りましたが、それも何時でも御用があればお呼び下さい、と言って、後はみんな命をお預けします、と申し出てくれました。
 そう言われても毎月給料払えるかどうかわからん、と言うと、乞食やってでも食ってゆきますから一緒にやってゆきましょう、と殆ど全員言ってくれた。組合もなければストライキもない、皆ガチンと固まっていました。
 オヤジからは金もないのに退職金払って辞めさせるとは何事かと怒られたのですが、それ位の区切りをつけた方がいいと思っていました。
 仕事の方は、8月15日で以て、それ迄多かった軍の仕事がピタッと止まってしまった。8月の給料はそれ迄の仕事のお金で支払うことができたのですが、9月の給料の目途が立たない。芝浦の土地を売るといってもおいそれと買い手はない。そこで皆で車座になってどうしようかと相談したところ、木工の連中がゲタを作りましょうと言い出して、内張りの連中はそれじゃ鼻緒を作ろうと、9月になってゲタを売り出した。9月の給料は木工と内張りで食わして貰った。今度は鈑金の連中が、木工の連中に食わせて貰ったんじゃオレ達の男が立たない、オレ達も作りますといってやってくれたのがフライパン。
 それを大八車に積んで御徒町のヤミ市までガラガラ引っ張ってゆくのが一番若い私の仕事だった。売れた分のお金を新聞紙に包んで、風呂敷に入れてお腹に巻いて帰ってきて、翌日また売りに行く。
 薄い鉄板をパンチボールで丸、四角、三角、六角、八角と打ち抜いて、自動車用のペイントを塗って作った女性用のブローチを担いで名古屋に行くのも最年少の私の仕事で、名古屋駅から丸栄デパートまで名古屋支店の人に大八車の後押しして貰って運んだこともあります。
―― 敗戦直後は大変な混乱の時代でしたが、そこ迄ご苦労なさっていたとは知りませんでした。
梁瀬 私の唯一自慢できることは、昭和20年5月に社長になってから今日迄、従業員の月給の欠配、遅配は1回もしなかったこと、これは私の人生の誇りです。
―― 昭和20年代から30年初め頃まで経済の混乱していた時代では、大企業でも欠配、遅配がよくありました。ヤナセでそれが一切無かったのは立派なことです。それだけ社長も従業員も頑張ったということでしょう。
 9月2日に降伏文書の調印がありまして、いよいよ米軍が東京へ入ってきました。ヤナセでも高浜工場と日本橋の本社が接収されます。
梁瀬 調印後すぐ、芝浦工場の前の海からまるで敵前上陸のような形で米兵が上陸して工場へ入ってきた。女子は2階へ上げて私と英語のできるのが応対したのだが、ラッキーストライクだったかタバコを買わされた。横流しのアメリカタバコが街に出る少し前の恐らく第一号だと思います。
―― 新品は貴重品で、ポイと投げ捨てたタバコを拾って、再生して売る商売がありました。
梁瀬 高浜工場は進駐軍のパン工場になって、朝から晩までいい匂いさせてパンを焼いている。みんなお腹を空(す)かせて本当にグーグー鳴るがどうしようもない。
 パンの焼き損ないや屑を捨てるからというので、工場の周囲の金網にはそれは沢山の女の人が集まった。中には手を摑まれて中に引きずり込まれるのもある。
―― 子供がGI(進駐軍兵士)にチョコレートやチューインガムをねだったり、情けないですが敗戦直後の日本人の姿でした。

三輪・電気自動車販売
戦後初タイプライター

―― ゲタやフライパンは切羽詰まったその場しのぎの仕事で、一日も早く本業の方に戻ることを考えられたと思うのですが。
梁瀬 昭和21年になると、三井精機で作っていたオリエント号というオート三輪と、立川飛行機製の電気自動車のタマ号の販売を始めました。
 オート三輪は大阪のダイハツ、広島のマツダがあって、オリエント号は関東を地盤としていました。戦時中は営業活動を殆どしていなかったため、セールスマンが不在のような状態だったし、タマ号はボデーが重くてバッテリーがすぐ上がってしまう有様で、このふたつの車の販売で全従業員が生活するのは非常に難しい状態でした。
 外車の方は、進駐軍の軍人と軍属相手に横浜PX(ポストエキスチェンジ)が乗用車の販売と修理を行っていて、我々戦前からの輸入業者が進駐軍払い下げトラックの修理をしたり、組合を作って軍用車払い下げや自動車輸入の陳情などを行ったのが昭和21年から22年にかけての状態です。
 自動車の方はモタモタしていたのですが、調子よくいったのがタイプライターの輸入販売です。
―― 自動車のヤナセがタイプライターですか。
梁瀬 私が親しくしていた友人で、UP通信の記者だったイワン陸奥氏から「いま日本で一番困っているのはタイプライターだから、その輸入販売をしたら」という話を聞きました。イワン陸奥氏は明治の有名な外務大臣陸奥宗光さんのお孫さんです。
 このイワン陸奥氏が進駐軍相手の新聞に、日本の企業はいろいろな書類の提出をGHQ(連合軍司令部)から求められるが、タイプライターがなくて困っている、緊急輸入を許可すべきだと書いてくれた。
 戦災で焼けた上に英文の文書が急増したためタイプライターがない、この記事が出てGHQにお願いに行ったら、緊急輸入として2000台の許可が下りた。
 タイプライターの輸入については戦前から黒沢商会などが、スミスなどの一流品を取り扱っていたのですが、そちらには手をつけずに二流品のウッドストック社から輸入して、これが飛ぶように売れた。戦後の輸入品としては第一号だった筈です。

HDOで外貨獲得
激烈な販売権争い

―― 昭和22年には富士重工のラビットスクーター、ダットサン、トヨペットが登場して、翌年には自動車工業会が結成され戦後の自動車生産の歩みが始まりました。外車の方の状況はどうだったのですか。
梁瀬 進駐軍の軍人軍属に対しては横浜PXが輸入車の販売とサービスをしていて、その他のノン・オキュペーション・パースン、訳すると非占領軍の人、つまりバイヤーなどの民間外国人に対する輸入車販売OAS(Overseas Automotive Service)が許可されて、昭和23年には年間126台の新車が輸入され、ヤナセではGM社と契約を結んで業務を開始しました。
 このOASは輸入台数も限られていたのですが、活況を呈したのはHDO(Home Delivery Order)です、
―― HDOとはどういう仕組みですか。
梁瀬 アメリカでも戦時中は軍用車の生産が主体で、戦後になっても乗用車の生産は需要に追いつかず、オーダーしてから1年も2年も待たされていた。
 これでは進駐軍の軍人さんが帰国しても暫くは車が手に入らない。そこで、GHQに軍人さんの帰国予定は前以て決まっているのですかと聞くと、そうだとのお答えで、それなら日本でオーダーを受けてGM社に発註、帰国した時にはお望みの車が手に入ることにしたら、ということで始まりました。これが軍人さんに好評で、芝浦工場には軍人さんが沢山みえるし、進駐軍のキャンプのあるところにはこちらから社員が手分けして出かけてゆく。
 何しろ、車を動かさずに、その小売価格とディーラー価格の差額がドル紙幣で大蔵省に入って、我々にはその手数料が円で支払われる。
―― 実に結構な商売ですな。
梁瀬 モノを輸出せずにドルが日本に入ってくる。当時の日本は外貨不足で食糧を買うこともできないような状態でしたから、HDOは外貨稼ぎに大いに貢献したと思っています。
―― 外車のヤナセがGM社と提携してOAS、HDOで復活してきたのですが、戦前に先代がGM社といったん決裂してその後、修復されたものの、ヤナセはビュイックなどの高級車を、シボレーなどの一般車は別の販売組織が扱うことになっていたでしょう。その人達が指をくわえて見ていたとは思えませんが。
梁瀬 その人達はヤナセのようにHDOやOASに素早く対応できなかったのです。GMとヤナセとが全面的に契約したことについては大きな衝撃を受けて、京都の大沢商会を中心にして猛然と反抗しました。その矢面に立ったのは私です。サービス工場があり、直ちに販売もアフターサービスができる店はヤナセしかないというGM側の判断で、GMの全販売権はヤナセに決まりました。その間に、ニューエンパイヤモータース1社に、フォード、GM、クライスラーの全てを任せた方が便利ではないかとGHQの意向が出されて、この撤回を求める運動を起こすなど、慌ただしいことでした。
―― そのGMの販売権も、昭和23年末にGMの駐在員として日本に来た海兵隊上がりの退役海軍大佐スチーブンソンによって東西分割され、シボレーも他の系統に移されました。
 このスチーブンソンというのには会長も相当に手こずったようですね。
梁瀬 ビジネスの何たるかも全く理解できず、日本人を虫ケラのように思っている男で、何でも命令で、こちらはイエス・サーというより仕方が無い。
―― 軍人上がりのお固いばかりの人間ということですか。
梁瀬 そうではない。ヤナセに対しても個人的な取引のようなことを口にして、私が拒絶すると、ピストルでお前を撃ち殺しても何の罪にもならないんだ、などと放言して、地域や車種で分断する新しい方針を発表しました。このスチーブンソンに取り入った多くの人々があったと聞きましたが、余り思い出したくない。

神風に恵まれた日本
先代長太郎氏の卓見

―― 昭和20年から敗戦の混乱が続いて、昭和24年のドッジラインの衝撃はありましたが、25年の朝鮮動乱で日本経済は復興のきっかけを摑んだといえますか。
梁瀬 昭和20年に戦争が終わって、25年迄は混乱の時代、または日本人の腑(ふ)抜けの時代で、餌だけを漁って町中を歩き、焼け野が原で何とかやっと生きていた5年間といっていいでしょう。
 過去が否定されて、価値観、道徳、思想、宗教に対する考えが大きく変わりました。
 現在の日本の繁栄の大きな引き金は何といっても朝鮮動乱で、これを契機としてアメリカの占領政策が一変したのが原因だと思います。
 当初の占領政策は、日本の弱体化を図るため財閥、商社を解体し、軍需産業は禁止したりしたのですが、朝鮮動乱をきっかけにして、日本を相当程度に繁栄させておいた方がアメリカにも得策であると、大きく政策変更をしました。
 これを日本人は働き蜂で、一生懸命泥まみれになって働いたから今日の繁栄があると自惚れたらいけないと思います。
 たしかに、働きはしたけれどもそれは「食」を得るためのものであって日本人の力だけでここまできたと考えてはいけない。
 日本は軍備を認められない代わりに、すべてを経済発展のために集中できたのが日本経済繁栄の原動力です。
 軍備というものは非常の時には役に立つが、後は金を食うだけです。
 日本は有難いことに、本当に困ってくると神風が吹いてくれる、人力を超越したツキ、或いは運命(さだめ)のようなものに日本は恵まれていると思います。
―― あの食うや食わずの敗戦日本が現在のようになるとは本当に夢みたいで、これを予測した人は恐らく皆無でしょう。
梁瀬 たしか昭和23年の或る日、オヤジがついてこいと言うので一緒にGHQに行ったことがあります。
 トランスポート・ディビジョンというのかな、交通関係の中佐か大佐の人に会って、オヤジが話をしました。
 20年30年先になると東京は車で一杯になって通れなくなってしまうおそれがある。いま、進駐軍の命令であれば何でも通る時代だ。将来の日本の自動車の氾濫に対する受け皿、即ち道路、駐車場、パーキングスペース、交通規制、交通道徳の確立など進駐軍の命令でやっておけば必ず感謝される時代がやってくる。道路についても、建物や田畑を潰さないでも、山手線や京浜東北線、中央線の上に作ればいい。皇居や各地のお城のお堀は鴨が降りる程度の2m位の深さがあれば風致を害することもなく、その下を駐車場に利用できる筈である。今これをやらねば将来は手が付けられなくなる。
 こう説明したら、相手の軍人は腹を抱えて笑い出して、お前は気が狂ってるのではないか、20年経っても30年経っても日本に自動車が溢れるなんて考えられない、と言って取り合ってくれませんでした。
 現在の自動車の状況を考える時、40余年前に今日を予測したオヤジはやはり先見の明があったと思います。
―― 千載一遇のチャンスであったかもわからないのに、進駐軍にはそこ迄の見通しはつかなかったのでしょう。


GM直訴アメリカ行
TVアンテナに驚く

増田 前回は戦後の日本にとって神風ともいうべき朝鮮動乱が昭和25年に起こりまして日本の経済は立ち直りのきっかけが与えられました。この年にGMから日本に派遣されていた海兵隊上がりの退役大佐スチーブンソンの解任依頼のためにアメリカに行くという思い切った行動に出られました。今でこそ誰でも自由に海外に出られますが、当時は大変だったのでしょう。
梁瀬 まだパスポートはない時代で、大蔵省の外貨割当が航空券別にして1日5ドル、これでニューヨークの町中でホテルを探して、食事をするには苦労しました。日本で通用しているドルは軍票ですから、軍票を買って闇をやっていた人もいたようですが、何といってもグリーンというアメリカのUSダラーが一番値打ちがありました。
―― まだアメリカまで直行では飛べなかったのでしょう。
梁瀬 羽田空港は木造のバラックの50坪ほどの建物で、飛行機はボーイング・ストラトクルーザーのダブルデッキでした。ウエーキ島で燃料を積むのですが、珊瑚礁の洞窟の中に日本兵のしゃれこうべや骨がぎっしり詰まって、日本軍の戦車が仰向けにひっくり返ったりしていた。エンジントラブルがあったりして羽田から24時間かけてやっとハワイ到着です。
 ハワイからロサンゼルスに渡ってびっくりしたのは、テレビのアンテナが椰子のように林立していること、道の中央に白線いわゆるセンターラインが引いてあったことです。
 日本でも遠からずテレビジョン時代が来ると感じまして、帰国してから「日本テレビジョン株式会社」を設立することになったのが昭和27年6月です。NHKの放送開始が昭和28年2月ですから、かなり早かった。スタジオ用機材、建設用地も手当てした直後の昭和28年一萬田(いちまだ)日銀総裁の「不用不急の設備投資禁止」方針のため銀行融資が駄目になり、折角輸入した機材は発足したばかりの東京放送(TBS)の今道潤三社長に半価でお譲りした。そして日本テレビジョン(TCJ)はその後、テレビCMとアニメの製作会社として「サザエさん」はじめ数々の名作を提供し、テレビ業界の発展に寄与している。
 センターラインの方も、警視庁に行って、当時の交通課長の片桐さんに「アメリカの道路にはセンターラインが引いてあって、越えてはいけない厳しい規則がある。日本も今の内からそろそろセンターラインを入れておかないと」と申し入れました。それは大いに結構だが、警視庁にはペンキ代の予算が計上されてない、それではうちの費用でと第二京浜に引いたのが日本のセンターラインの最初である筈です。
 片桐さんの上に交通部長として内海倫さんがおられ、現在の道路交通法などの基礎になるものを作られた人です。内海さんは防衛事務次官等を歴任の後、昭和59年から人事院総裁に就任され昨春退任されました。
―― スチーブンソンの件はどうなったのですか。
梁瀬 GM側でも事情がわかったと見えまして、私が訪問したのは1950年(昭和25)の11月で、翌年3月にはミスター・バンカードがサービス担当者として東京事務所に加わったし、戦前に日本ゼネラルモーターズの専務をやった鈴木針溢さんが1952年4月にGMの極東代表者になって、ミスター・スチーブンソンの独裁時代は私がアメリカから帰国する頃には終わりを告げました。
―― やはり誠意を以てぶつかると道は開けるものですね。
梁瀬 ミューヨークに廻って、朝はコーヒー1杯5セント、昼はコーヒー1杯とドーナツで10セント、そういう生活をしながら毎土曜日に家族に送ったのは石鹸とタオルです。
 当時の日本のタオルはお湯に入れると融けてしまうような代物だし、石鹸はまるで泡が立たない。
 アメリカでよく使われていたのはアイボリーという白い石鹸でした。子供が学校へ入る前だったんで、1着3ドルほどの安い洋服を買って送ったりもしました。

米国製冷蔵庫などを
密かに技術者に公開

―― アメリカに初めて行かれた昭和25年には日本橋のそれ迄の本社をヤナセストアーとして開店しておられます。
梁瀬 アメリカ軍に接収されて181ポストオフィスになっていた日本橋本社が昭和24年の暮れに解除されました。
 返還された本社をどうするか、日本人向けに並べる自動車も品物もない。この際、思い切って本社を芝浦に移そうとしたのですが、オヤジに「芝浦くんだりまで車を見に来て下さるお客はいない」と反対された。オヤジとしては精魂込めて作った日本橋の本社を離れることは辛かったのだと思います。
 日本橋は便利すぎて車1台止められない、駐車場がなければ商売できないと私は思っておりましたので、名目上の本社は日本橋に残して本社事務所は芝浦に移し、空いた本社の建物を使ったのが梁瀬商事の経営したヤナセストアーです。
 当時はまだ講和条約締結前で日本人立入禁止のお店が軍人専用のPX,非軍人のOSS、OASなど扱い商品別による小売店がありました。
 ヤナセストアーは米貨建ての店で、1階ではデュポンの塗料、ウエスチングハウス社製の電気製品、2階では洋服と洋品類を扱っておりました。
 よせばいいのに、日本橋の店が閉まるのが5時。6時から電気メーカーのエンジニアにどうぞ遊びにいらっしゃいとお話したものですから殆ど毎晩お見えになって写真を撮ったり、図面を書いたりなさっていました。現在の日本の家電が非常に立派に発展したのに、いささか火を付けたのではないかと私は思っております。規則には反したかもわかりませんが。

貨幣割当制に挑戦して
ベンツ・VW販売権獲得

―― 昭和27年4月に対日講和条約が発効して日本も独立国になり、占領政策も大きく変わりましたが、まだまだ日本の経済はひ弱い状態でした。外車輸入の方はどうだったのですか。
梁瀬 同じ年に輸入自動車協会(JAIA)が誕生して、輸入車業界も活気づいてきたのですが、昭和25年から外貨割当方式による輸入車販売がタクシー、ハイヤー、病院、医師、報道機関向けに許されることになっていました。
 外貨の割当はアメリカのドル、イギリスのポンドスターリング、ドイツ・フランス・イタリアのオープンアカウントの3種の貨幣で行われたのですが、日本はアメリカから食糧を買わなければならないので、貿易収支は必ずしも黒字にならなくて赤字が多かった。赤字が多かったから、アメリカからの輸入には非常に大きな制限があった。
 従って、アメリカの車の販売権を全部持っていたとしても、ドルの割当が少なければ殆ど意味が無い。
 そこで私は自動車の車種の種類による販売権よりも、貨幣の種類による販売権に切り換えるべきである、ということを言い出しました。
 このヒントになったのは銀座のキャバレー「美松」の女の子の話です。
 若い社員達を連れていって、他の連中はダンスをして私ひとり残ってテーブルに坐っていると女の子が「社長さん11時半のラスト迄ここにいても私の手に入るのは1500円ですが、あそこにお得意さんが来ている、15分ずつ3回廻らせてくれるなら1回500円で1500円になる、社長さんのお勘定は1000円にお負けします。私も1000円得しますが、あなたも500円得をします」と言うんで、ああそう行ってらっしゃいと送り出してひとりボンヤリ待っている間に、成る程、アメリカの車だけより、イギリス、ドイツ、フランスと貨幣の種類、テーブルの数を増やすことだと気がついた。
 アメリカ以外、ポンドスターリングだとやはりGMの系統ですがボクスフォールの乗用車とボッドフォードというトラック、オープンアカウントではやはりドイツで、そうなるとベンツとフォルクスワーゲンだ、よしこの販売権を取ってこよう、そのためにGMの許可を貰ってきたいとオヤジに申し上げると、絶対にまかりならぬ、GMに話せばいけないと言うに決まっている、と猛反対です。オヤジとすれば一時期の中断はあったものの長い取引をしているGM社以外の車種の取扱など考えたくなかったと思います。
―― 先代の強い反対を押し切って2度目の渡米をされたのが昭和28年1月となっています。
梁瀬 それ迄に、ある商社を通じてフォルクスワーゲン社との間には一応の諒解事項はできていました。
 ロサンゼルスに到着するとオヤジから「この話をGMの幹部にしたり、西独に行くようなことがあれば社長を解任する」との電報が着いていて「解任されても結構だ、新しい会社を設立する」と返電した。
―― どうも大変な父子ですな。結果はどうなりました。
梁瀬 ニューヨークに着いたら日本担当のマクナップ氏は明朝8時に出張の為出かけるという。そこで同行させたジャック石尾君に私が日本文で書いた原稿を英訳して貰ってタイプに打ち、でき上がったのが午前3時、空港に行ってマクナップ氏の来るのを待ったのですが、1月末のニューヨークの早朝はまことに寒い。それでもマクナップ氏を見失ったら大変だと2人でガタガタ震えながら待っていると7時頃やってきた。
 日本からやって来たのはこういうことだ、日本は外貨が少ないので割当が行われている、アメリカの車だけではヤナセは食っていけないので、ドイツの車も扱うことを認めてほしいと用件を述べて手紙を渡した。わかった、上のビッグボスに相談すると答えを貰って、彼がチェックアウトした後、コーヒーショップで冷えた体を温めました。
 その日の昼、いよいよそのビッグボスのフィリップ氏と食事をしながらこの件で会談をしました。この人は昭和2年にGM日本を作った時の初代の社長で、小学生だった私をジロージローと言って可愛がってくれたいいおじさんだった。
 お前がそうやって苦しんでいる状況はよくわかった、よろしい、とOKを貰いました。
 その足でヨーロッパへ飛んで、フォルクスワーゲン社に行ってノルドホフ社長とエルツィン氏に会い、フォルクスワーゲン社の日本輸入についての話をしました。仲介した商社との行き違いもあったりしましたが、結局昭和29年になってフォルクスワーゲンの日本での販売権がヤナセに与えられました。
―― ベンツはどうだったのですか。
梁瀬 ベンツについては私がGMの諒解を取りつけるためにアメリカにゆく前年の昭和27年に系列のウエスタン自動車や他社との間に販売契約がありましたが、ヤナセ本体としてはGMとの関係もあって、ベンツ社の日本でも販売権を全部取得していなかった。
 ドイツ車を扱うについてGMの諒解を取り付けたことでもあるし、誰の紹介もなくベンツに乗り込んだのですが、その時に出てきたのがミスター・ヴィショディルで、この人が非常にいい人で、実は今日本のどこかに販売権を与えようとしているところだ、と言う。そこで、日本でベンツ車の販売を成功させたいのか、と聞くとそうだ、それなら唯一成功する道がある、何だ、それは俺に任せることだ、お前は若いくせして図々しい、えらいことを言う奴だ、面白い、じゃあやらせよう、となりました。
―― ヤナセ従来のアメリカ車に加えて、ベンツ、フォルクスワーゲンのドイツ車が加わって盤石の体制です、よくそれだけの働きができたものだと感心します。

初代長太郎氏の逝去と
26年ぶり自由化の達成

―― 昭和29年には創立40周年を迎えて盛大な記念式典を催しておられます。先代の胸像はその時に作られたものですか。
梁瀬 そうです。除幕式の翌日、椿山荘で祝賀会をやったのですがこれがえらい雨だった。
―― 昭和31年6月11日に先代がお亡くなりになる、その直前の5月25日の株主総会には衰弱した体を押して出席しておられます。事業家の魂を感じますね。
梁瀬 母が付き添って、先ず宮城へ行ってほしいと言われ、一時止めてそこで最敬礼、日本橋の本社の前を通り、芝浦のフォルクスワーゲンの工場の2階の会場へ背負って上がりましたが、実に軽くて寂しい気持ちがしたものです。
 宮城、本社前、芝浦工場のコースは葬儀の時も同じでした。
総会での後、お茶とお菓子が配られて、三田の大坂屋の菓子を、うまそうだと少し口に入れましたが、もう喉を通りませんでした。大坂屋さんからは今でも命日にお菓子を頂戴しています。
―― ご葬儀の時の、佐藤尚武さん(著名な外交官で戦前の外務大臣、戦後は参議院議長を歴任、梁瀬長太郎氏の学友)の弔辞を「轍」で読まして戴きました。心にしみるいいお別れの言葉で、私の師である安岡正篤先生のご葬儀で岸慎介元総理が述べられた弔辞と共に、深く感銘を覚えます。
 佐藤さんからこれだけのお別れの言葉が頂けた先代はやはり素晴らしい方であったと思います。
 先代の亡くなられた昭和31年の『経済白書』では「もはや戦後ではない」の言葉が使われました。昭和30年代をどうお考えになりますか。
梁瀬 いろいろな表現の仕方はあるかと思いますが、季節にたとえるなら復興の春の時代が過ぎて強烈な太陽の照りつける夏の時代であった、苦労も多い反面、明るく活発な時代であったという印象が強く残っています。
 神武景気、ナベ底景気、岩戸景気と高下しましても、基調としては経済成長の時代であり、後半はモータリゼーションが軌道に乗りました。
 輸入自動車業界は自由化問題に明け暮れした感があって、国産品愛用運動が起こると、通産省などでは敵が来たとドアを閉められたりすることもありました。
 昭和28年から一般用の外貨割当は禁止されていましたが、昭和36年になって、過去の実績等による外貨割当が再開され、公開入札による販売が可能になって、業者からの提供価格と入札価格の差をJETROが吸収して巡航見本市船「さくら丸」の建造費に充てられました。
 輸出振興にもこれで大いにお役に立ったわけで、かなり風向きが変わり、私達の熱望した外車の輸入が昭和14年以来、実に26年ぶりに昭和40年10月1日から自由化になりました。
 国産車メーカーは自由化を非常に懸念しておりましたが、この頃から日本社の輸出が激増していったのはご承知の通りです。
 ヤナセとしては拠点整備に全力をあげ、新しいヤナセの基礎づくりの時代であったといえます。
―― 大正4年に創業のヤナセが50周年を迎えて新社屋を建設されたのが昭和38年です。
 昭和40年代、50年代、そして平成のヤナセについては大方の読者もご承知のことですし、4回にわたりましたこの対談もこれでピリオドにしたいと思います。貴重なお時間を拝借して有難うございました。
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プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学処分。
15歳で安岡正篤先生門下に入る。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。
 みなさん さようなら  11月13日 】
絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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