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みなさん さようなら

2018.10.15 10:32|社長の軌跡/人に四季あり
1991年(H3)月刊「NewTRUCK」9月号
『人に四季あり 』

敗戦直前焼土の中、29歳の劇的な社長就任

梁瀬次郎 ② ヤナセ会長・社長


会社と同じ年を生きて
山あり谷あり長い歴史

増田 前回は取材の時間も短くて、正式の対談記事は1号送りにしたいとおっしゃったのを無理にお願いして、筋書きらしいものがないままに掲載して申し訳なく思っております。
 今日は多少の筋書きらしきものを追ってお話を承って参りたいと存じます。
 先月お会いした時、近く白内障の手術をなさるとおっしゃっておられましたが、無事に終わりましたか。
梁瀬 いや、お会いした日に勝田龍夫さんのお葬式があって、奥様にどうしてとお聞きすると、元気だったのだが、目が見えにくくなって、白内障の手術をなさっているうちに心臓が止まったとおっしゃったのをお聞きしたものですから、いま手術をちょっと止めています。
 まあ、目も耳も多少不自由だといっても取り替えるわけにもいかず、不平を言ってもどうにもならない、ある年齢に達するとそうなりますね。
―― ご尊父(長太郎氏) が三井物産から独立して梁瀬商会を創立されたのが大正4年(1915)、会長のお生まれは翌年の大正5年、ほぼ4分の3世紀が過ぎました。
梁瀬 会社の方が私よりほんのちょっと年上ですが、長い歴史にはラクダの背中のようにコブもあれば谷もある、人間には平和な時と、戦わねばならぬ時がありますよね。
 ちょうど今、元気な時に、戦うべき時にぶつかったものですから幸せだと思っています。
 私にとって戦いというものはお医者様から戴くビタミン剤、ホルモン剤より健康にはいいですね。
―― 性(しょう)に合ってますか。
梁瀬 合ってる。
―― 戦国乱世の武将のようなもので、平和な時のお大名じゃないですな。
梁瀬 平和で何もしなくてもメシが食えて、銀行に行けばなにがしかのお金がおりる、旅ができて、のんびりできたらさぞかし幸せだと思うでしょう。ところが、それでは三カ月持たないと思うんですね。
 のんびりしたら急に腑抜けになって老け込んでしまいますね。人間には何か目標とか目的がないと老い込む。学校の同窓生も皆さん引退して、毎日やっていることを聞くと、よくそれで生きてゆく気力が出てくるものだなァと感心するほど暢気な生活をしています。…

禍が福に 関東大震災
GMの間の不幸な歴史

―― ヤナセの歴史そのものがそれだけ波乱に満ちていたともいえるのじゃないですか。
 ご尊父が創業されてから暫くは第一次大戦下の好況で社業も伸びたのですが、戦後の大正9年の大不況の大ガラ(株の暴落)で、会社を思い切って縮小した先代は、奥様をお連れになって、海外に旅立たれました。その帰途、フランスからアメリカに向かう船で関東大震災のニュースを聞いて、アメリカで大量の乗用車を発注、不況で在庫の車も、新輸入車も全部捌けて、いっぺんに会社が立ち直ったお話は前回お聞きしました。
 先程のラクダの背中のコブと谷のように、実に大きな浮沈を体験しておられますね。
梁瀬 外国へ出発する時の顔と帰国した時の顔があれほど違った人は見たことがない、と人から聞きました。
 ところがいいことのあった後は必ず悪いことのあるもので、慢心か安心か、油断大敵、火のぼうぼうで、今度は芝浦工場が失火で全焼してしまいました。
(大正14年12月18日)
 この時、宮様からお預かりしていた乗用車2台も焼失、宮内省にモーニングを着用してお詫びに参上したのが堀久さんです。(堀政樹自動車精工社長の父)
―― 堀久さんといえば、純国産乗用車(ヤナセ号)の製作の中心人物でしたが、製造原価が輸入車より高くついて大損をするので、ヤナセが国産車製作を断念するきっかけを作った方です。たしかに失敗でしたが、大正時代に、ヤナセが国産車を製造した事実は、日本の自動車史に特筆すべき事実でしょう。
 昭和に入って大恐慌に見舞われましたが、一方で自動車業界はバス、トラック、タクシーが普及して、外国車、国産車入り乱れての販売合戦が展開されます。その過程で、永年GM車の国内販売をしていたヤナセがその販売権を自ら放棄する悲劇が起きました。
 この原因は先代の意地、短気、或いは思い違い、何だったのでしょう。
梁瀬 私はその時まだ子供だったので、理由はわかりませんでした。この昭和2年から暫く機嫌の悪かったこと悪かったこと、お袋にばかり当たるわけにもいかぬし、妹の他に男の子は私ひとりだからよく当たられました。
 もっとも、その前、大正9年からの不況の時にも機嫌が悪かったことが記憶に残っています。
 後になって事情がわかったのですが、関東大震災のあと、アメリカ車はどっと日本に入って、これは大変な市場であると認識したフォードは大正14年に横浜(新子安)に日本フォードを設立、組立を開始したのに続いてGMが昭和2年、大阪にSM日本社を作って組立工場を作りました。
 フォードの方は全国に販売店を作って大量販売に乗り出しているし、GMとしても販売政策の再検討が迫られた。
 そこで出てきた案が、キャデラック、ラサール、ビュイック、オールズモービルなどの高級車は従来通りヤナセに、量産大衆車のシボレーだけはヤナセの店のあるところはそのまま、店のない県は全県1社ずつの販売店を設けさせてほしい、そして折角長い間GM車の販売に協力してくれたのだから、3年間は3%だったかのコミッションを差し上げましょう、という条件だったようです。
―― 悪くない条件ですな。
梁瀬 悪くない。私だったら有難うございます、といって承諾するところです。
 どうしてもわからないので、オヤジも亡くなったずっと後年、その交渉の席に出たGM側の人が健在だとお聞きしたので、一生の勉強にしたいので、なぜオヤジがあの時怒って席を立って決裂させてしまったのか、その間の事情を教えて戴きたいと手紙を書いたら、80過ぎたそのアメリカ人が、タイプを使わずにペンで書いた詳細な手紙を寄越してくれ、その中に「お父上はGM側の英語をよく理解していなかった」との一文がありました。
―― 先代は一橋大学を出て三井物産に入社され、英語はペラペラの筈じゃなかったですか。
梁瀬 ニューヨークでオヤジのスピーチを聞いた人が、まるでシェークスピアのスピーチのよう実に美しかったけれども、ちっともわからなかったと言った人もありました。
 このことがあったものですからあちらの方とお話ししていても、お天気や食事、冗談までで、仕事の方に話が移った途端にパッと日本語に切り替えます。私より英語の上手な社員がうちには沢山いますから。
 それと商人は忍耐強くなければならないこと、こちらから喧嘩をしかけてはならないことをオヤジから無言で教えられました。
 現在も、外国車のメーカーとの間にはいろいろなことがあります。しかし、オヤジのように長い間GM車の販売に努力してきたからというようなプライドで、販売権も放棄してしまうようなことはいたしません。あくまでもスジを通して忍耐強く折衝してゆきます。
―― 貴重な教訓ですが、授業料は高くつきましたね。
 決裂したGMともシボレー以外の高級車がGM側の販売店では扱いきれず、4年後に再びヤナセにシボレー以外のGM車の販売権は戻っています。
梁瀬 昭和14年頃から外国車と部品の輸入ができなくなって、GM系の販売店は多くトヨタの販売店になって、神谷正太郎氏、加藤誠之氏など、その後の自動車販売をリードする人材が輩出しました。

戦時中の工場づとめ
代燃車と架装で操業

―― 慶応をご卒業になってヤナセにご入社されたのが昭和14年、既に戦時色はかなり濃くなっておりました。
瀬 外国製自動車の完全禁止の年です。満州事変が昭和6年、日中戦争が昭和12年に起こって、私の入社した昭和14年にはヨーロッパで第二次大戦が勃発、さらに翌々年には太平洋戦争が始まる、戦争の真っ最中という状態でした。
 会社に入って配属されたのは現在本社のある芝浦工場で、当時の本社は日本橋にありました。
 芝浦の方は砂利道で市電が走っており、私の念願はコンクリートの道を通って会社に通い、エレベータに乗りたい、そんなことでした。(笑)
―― ヤナセの本業である外車の輸入が禁止されて、会社はどうしてメシを食っていたのですか。
梁瀬 ガソリンが統制されて、トラックとかバスは薪、タクシーは木炭、自家用は天然ガスなどの代用燃料に切り替えました。うちは天然ガスに非常に強かった。千葉の茂原に湧いていた天然ガスを圧縮して瓶に詰めて、ガソリンスタンドで車のタンクに充填装置を作っていましたが、これは評判が良かった。たしか1280円であったと記憶します。私が最初に配属されたのがこの代用燃料の係です。
 もうひとつの柱がボデー架装や修理の部門で、軍用の特殊ボデーの仕事が急増してきましたので、そのために昭和14年に品川駅の裏に高浜工場を作りました。この工場へは田町駅から歩いて40分もかかる遠い所でしたし、勤労動員の女子学生なども増えてきてこれでは困るので、沖電気さんやうちなどの地域の工場が資金を出し合ってトンネルを掘り、品川駅から通えるようになりました。
―― 今は立派な地下道になって裏口に駅もできています。
梁瀬 このトンネルは電灯もなく、立ったままでは頭をぶつける程低いもので、上から水滴がポタポタ落ちてくるひどいものでしたが、それでも田町から歩くよりずっと近いし、楽でした。
―― 戦時中は車の販売はできなくて、芝浦と高浜の工務部門で会社を支えていたことになりますか。
梁瀬 日本橋の本社は殆どすることもなくなってしまったのですが、本社意識が強くて工務部を軽視する風があり、工務部は自分達で会社を支えているのだ、との意識に燃えていました。
―― そういう中で昭和16年、会長は26歳で取締役に選任されました、空襲も段々激しくなってくる段階で大変だったでしょう。
梁瀬 日本橋の本社の人達は、プーッと警戒警報が鳴るとさっさと帰宅してしまって寝泊まりしているのは留守番の年寄り夫婦だけでしたが、こちらの方は大事な工場を燃やしちゃいかんと空襲から守る意気に燃えて、殆どの人が食べる物もろくにないのに工場に寝泊まりしてくれました。

焼跡の東京で社長に
工場の莚の上で寝る

―― 度重なる空襲で東京が焼け野原になり、日本の敗色も明らかになった昭和20年5月30日、29歳で社長に就任されました。
 この難局の中での社長交代はちょっと奇異な感じもしますが。
梁瀬 昭和20年の春頃からオヤジは弱気になって、国の将来もないし、輸入自動車が再開されることも難しいと判断したようです。実は会社を解散しようとしたのは2度目で、1度目は先程お話しした大正9年です。
 5月25日に大空襲があって、三番町のオヤジの大好きな家も全焼して、5月30日の第51期定時株主総会の席上、オヤジは本日を以て会社を解散する、と言い出しました。
 そう言われても、工場で命を張って空襲から守っている人達のことを思うと、黙って承知するわけにはいかない。そう申し出たのですが、他の役員は黙ったまま。お考え直し戴きたいと何度か言っているうちに、雷様が落ちて、今後どうなるかわからないのに、大勢の従業員を抱えてやってゆけると思うのか、思えません、じゃ何故やるんだ、やってみなければわかりません、試合でも始めから負けると思ってはやれない、と言った時に、じゃお前がやれ、社長がやれないものをこんな若僧がやれるわけがない、できないなら余計なことを言うなと又雷様です。こんなことを7~8回繰り返した挙げ句、それではお前がやれ、本日の取締役会はこれで終わり、で社長に就任です。
 日本橋から市電に乗って芝浦口で降りて、えらいことになった、あの時黙って結構でございますと解散に賛成しとけば何ともなかったのに、つい若気の至りで愚かなことをしたものだと考えながら工場へ戻りました。
 そこで工場の主だった者を集めて、実はこういう事情で社長になっちゃった、どうだ、皆手伝って助けてくれるかと言うと、やりましょうと手を挙げてくれた。有難う、だけどオレのような若僧にはやれないよ、やれなくてもやりましょう、で力を合わせて頑張りました。
―― 29歳でよくその決心がついたものですね。今ならとても。
梁瀬 昔でもなかなかです。
―― 先代の足跡を見ますと、多少無理でもぐいぐい押してゆく面がある一方で、これはいけないと思ったらサッと引く、諦めの早いところがあったように見えます。
梁瀬 これはオヤジに限ったことではないと思いますが、創業者はゼロから始めて2とか3とか4になっている、止めてもどうってことはなく、故郷に錦を飾ってメシが食える、出発点に戻るのをそれほど気にしない。
 ところが2代目で、2か3か4をゼロにしたらバカ息子といわれる。そういう運命を自分で選んで生まれてくる人はひとりもない筈です。
―― 奥様と子供さんを田舎に疎開させて、お家を焼け出され着替えもないまま、工場のコンクリートの床のムシロの上で寝た、と「轍」に書いてあります。
梁瀬 食べるものもろくにない、それは悲惨なものでしたが、現場の人がシャツや猿股をお使い下さい、と持ち寄ってくれました。いま、有難いと思うのは、そういう試練を経たお陰で、どんなことがあっても自分さえしっかりしていれば、乗り越えられるものだという自信が身についたことです。
―― 会社の幹部の清水さんが5月25日の大空襲の日に自宅で急死して、その遺体を荼毘(だび)になさった記事がやはり「轍」にありました。
梁瀬 自宅の玄関でうつぶせになって死んでいて、疎開した家族にすぐ連絡も取れない、火葬場もないし、生まれて初めて人さまを焼きました。ガソリンをかけて焼いたのですが、シロウトの悲しさ、純毛の上着を脱がせるのを忘れたもので、それが縮んで身体の中に入って固まる、うちの社員と二人で2時間位かけてお骨にしたころ、弟さんが駆けつけてきてお骨をお渡ししました。その煙を見てグラマンが機銃掃射する、慌てて穴の中に逃げる。もう二度とご免ですね。
―― いや、恐れ入りました。
 その年の8月15日に終戦、日本も新しい時代に入ります。戦後の動きについては次回以降にお聞きします。
(つづく)



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プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学処分。
15歳で安岡正篤先生門下に入る。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。
 みなさん さようなら  11月13日 】
絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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