FC2ブログ

みなさん さようなら

2018.10.18 06:00|社長の軌跡/人に四季あり
1991年(H3)月刊「NewTRUCK」10月号
『人に四季あり 』

混乱から回復へ 必死の模索の中で活路を

梁瀬次郎 ③ ヤナセ会長・社長

梁瀬次郎氏 1991年
  写真右: 左から梁瀬長太郎氏 スチーブンソン氏 2人おいて梁瀬次郎氏 (昭和24年 GM契約新車展示会)

一致結束で克服の
敗戦直後の混乱期

増田 東京が焼土になった後の昭和20年の5月30日、29歳で社長にご就任になってすぐ終戦になりました。これで外車の輸入もできる、明るい展望が開けるとお考えになりましたか。
梁瀬 とてもそこ迄は。日本そのものがどうなるのかわからない時です。そこで8月16日、全員を集めて、これから新しい日本になる、これ迄のことはお仕舞いになるのだから、今日限り辞めて欲しいと言って、退職金を全部払っちゃった。
 その上で、オレと一緒に今後、命を張ってやろうという者だけ再入社してくれと言ったところ、何人か田舎へ帰りましたが、それも何時でも御用があればお呼び下さい、と言って、後はみんな命をお預けします、と申し出てくれました。
 そう言われても毎月給料払えるかどうかわからん、と言うと、乞食やってでも食ってゆきますから一緒にやってゆきましょう、と殆ど全員言ってくれた。組合もなければストライキもない、皆ガチンと固まっていました。
 オヤジからは金もないのに退職金払って辞めさせるとは何事かと怒られたのですが、それ位の区切りをつけた方がいいと思っていました。
 仕事の方は、8月15日で以て、それ迄多かった軍の仕事がピタッと止まってしまった。8月の給料はそれ迄の仕事のお金で支払うことができたのですが、9月の給料の目途が立たない。芝浦の土地を売るといってもおいそれと買い手はない。そこで皆で車座になってどうしようかと相談したところ、木工の連中がゲタを作りましょうと言い出して、内張りの連中はそれじゃ鼻緒を作ろうと、9月になってゲタを売り出した。9月の給料は木工と内張りで食わして貰った。今度は鈑金の連中が、木工の連中に食わせて貰ったんじゃオレ達の男が立たない、オレ達も作りますといってやってくれたのがフライパン。
 それを大八車に積んで御徒町のヤミ市までガラガラ引っ張ってゆくのが一番若い私の仕事だった。売れた分のお金を新聞紙に包んで、風呂敷に入れてお腹に巻いて帰ってきて、翌日また売りに行く。
 薄い鉄板をパンチボールで丸、四角、三角、六角、八角と打ち抜いて、自動車用のペイントを塗って作った女性用のブローチを担いで名古屋に行くのも最年少の私の仕事で、名古屋駅から丸栄デパートまで名古屋支店の人に大八車の後押しして貰って運んだこともあります。
―― 敗戦直後は大変な混乱の時代でしたが、そこ迄ご苦労なさっていたとは知りませんでした。
梁瀬 私の唯一自慢できることは、昭和20年5月に社長になってから今日迄、従業員の月給の欠配、遅配は1回もしなかったこと、これは私の人生の誇りです。
―― 昭和20年代から30年初め頃まで経済の混乱していた時代では、大企業でも欠配、遅配がよくありました。ヤナセでそれが一切無かったのは立派なことです。それだけ社長も従業員も頑張ったということでしょう。
 9月2日に降伏文書の調印がありまして、いよいよ米軍が東京へ入ってきました。ヤナセでも高浜工場と日本橋の本社が接収されます。
梁瀬 調印後すぐ、芝浦工場の前の海からまるで敵前上陸のような形で米兵が上陸して工場へ入ってきた。女子は2階へ上げて私と英語のできるのが応対したのだが、ラッキーストライクだったかタバコを買わされた。横流しのアメリカタバコが街に出る少し前の恐らく第一号だと思います。
―― 新品は貴重品で、ポイと投げ捨てたタバコを拾って、再生して売る商売がありました。
梁瀬 高浜工場は進駐軍のパン工場になって、朝から晩までいい匂いさせてパンを焼いている。みんなお腹を空(す)かせて本当にグーグー鳴るがどうしようもない。
 パンの焼き損ないや屑を捨てるからというので、工場の周囲の金網にはそれは沢山の女の人が集まった。中には手を摑まれて中に引きずり込まれるのもある。
―― 子供がGI(進駐軍兵士)にチョコレートやチューインガムをねだったり、情けないですが敗戦直後の日本人の姿でした。

三輪・電気自動車販売
戦後初タイプライター

―― ゲタやフライパンは切羽詰まったその場しのぎの仕事で、一日も早く本業の方に戻ることを考えられたと思うのですが。
梁瀬 昭和21年になると、三井精機で作っていたオリエント号というオート三輪と、立川飛行機製の電気自動車のタマ号の販売を始めました。
 オート三輪は大阪のダイハツ、広島のマツダがあって、オリエント号は関東を地盤としていました。戦時中は営業活動を殆どしていなかったため、セールスマンが不在のような状態だったし、タマ号はボデーが重くてバッテリーがすぐ上がってしまう有様で、このふたつの車の販売で全従業員が生活するのは非常に難しい状態でした。
 外車の方は、進駐軍の軍人と軍属相手に横浜PX(ポストエキスチェンジ)が乗用車の販売と修理を行っていて、我々戦前からの輸入業者が進駐軍払い下げトラックの修理をしたり、組合を作って軍用車払い下げや自動車輸入の陳情などを行ったのが昭和21年から22年にかけての状態です。
 自動車の方はモタモタしていたのですが、調子よくいったのがタイプライターの輸入販売です。
―― 自動車のヤナセがタイプライターですか。
梁瀬 私が親しくしていた友人で、UP通信の記者だったイワン陸奥氏から「いま日本で一番困っているのはタイプライターだから、その輸入販売をしたら」という話を聞きました。イワン陸奥氏は明治の有名な外務大臣陸奥宗光さんのお孫さんです。
 このイワン陸奥氏が進駐軍相手の新聞に、日本の企業はいろいろな書類の提出をGHQ(連合軍司令部)から求められるが、タイプライターがなくて困っている、緊急輸入を許可すべきだと書いてくれた。
 戦災で焼けた上に英文の文書が急増したためタイプライターがない、この記事が出てGHQにお願いに行ったら、緊急輸入として2000台の許可が下りた。
 タイプライターの輸入については戦前から黒沢商会などが、スミスなどの一流品を取り扱っていたのですが、そちらには手をつけずに二流品のウッドストック社から輸入して、これが飛ぶように売れた。戦後の輸入品としては第一号だった筈です。

HDOで外貨獲得
激烈な販売権争い

―― 昭和22年には富士重工のラビットスクーター、ダットサン、トヨペットが登場して、翌年には自動車工業会が結成され戦後の自動車生産の歩みが始まりました。外車の方の状況はどうだったのですか。
梁瀬 進駐軍の軍人軍属に対しては横浜PXが輸入車の販売とサービスをしていて、その他のノン・オキュペーション・パースン、訳すると非占領軍の人、つまりバイヤーなどの民間外国人に対する輸入車販売OAS(Overseas Automotive Service)が許可されて、昭和23年には年間126台の新車が輸入され、ヤナセではGM社と契約を結んで業務を開始しました。
 このOASは輸入台数も限られていたのですが、活況を呈したのはHDO(Home Delivery Order)です、
―― HDOとはどういう仕組みですか。
梁瀬 アメリカでも戦時中は軍用車の生産が主体で、戦後になっても乗用車の生産は需要に追いつかず、オーダーしてから1年も2年も待たされていた。
 これでは進駐軍の軍人さんが帰国しても暫くは車が手に入らない。そこで、GHQに軍人さんの帰国予定は前以て決まっているのですかと聞くと、そうだとのお答えで、それなら日本でオーダーを受けてGM社に発註、帰国した時にはお望みの車が手に入ることにしたら、ということで始まりました。これが軍人さんに好評で、芝浦工場には軍人さんが沢山みえるし、進駐軍のキャンプのあるところにはこちらから社員が手分けして出かけてゆく。
 何しろ、車を動かさずに、その小売価格とディーラー価格の差額がドル紙幣で大蔵省に入って、我々にはその手数料が円で支払われる。
―― 実に結構な商売ですな。
梁瀬 モノを輸出せずにドルが日本に入ってくる。当時の日本は外貨不足で食糧を買うこともできないような状態でしたから、HDOは外貨稼ぎに大いに貢献したと思っています。
―― 外車のヤナセがGM社と提携してOAS、HDOで復活してきたのですが、戦前に先代がGM社といったん決裂してその後、修復されたものの、ヤナセはビュイックなどの高級車を、シボレーなどの一般車は別の販売組織が扱うことになっていたでしょう。その人達が指をくわえて見ていたとは思えませんが。
梁瀬 その人達はヤナセのようにHDOやOASに素早く対応できなかったのです。GMとヤナセとが全面的に契約したことについては大きな衝撃を受けて、京都の大沢商会を中心にして猛然と反抗しました。その矢面に立ったのは私です。サービス工場があり、直ちに販売もアフターサービスができる店はヤナセしかないというGM側の判断で、GMの全販売権はヤナセに決まりました。その間に、ニューエンパイヤモータース1社に、フォード、GM、クライスラーの全てを任せた方が便利ではないかとGHQの意向が出されて、この撤回を求める運動を起こすなど、慌ただしいことでした。
―― そのGMの販売権も、昭和23年末にGMの駐在員として日本に来た海兵隊上がりの退役海軍大佐スチーブンソンによって東西分割され、シボレーも他の系統に移されました。
 このスチーブンソンというのには会長も相当に手こずったようですね。
梁瀬 ビジネスの何たるかも全く理解できず、日本人を虫ケラのように思っている男で、何でも命令で、こちらはイエス・サーというより仕方が無い。
―― 軍人上がりのお固いばかりの人間ということですか。
梁瀬 そうではない。ヤナセに対しても個人的な取引のようなことを口にして、私が拒絶すると、ピストルでお前を撃ち殺しても何の罪にもならないんだ、などと放言して、地域や車種で分断する新しい方針を発表しました。このスチーブンソンに取り入った多くの人々があったと聞きましたが、余り思い出したくない。

神風に恵まれた日本
先代長太郎氏の卓見

―― 昭和20年から敗戦の混乱が続いて、昭和24年のドッジラインの衝撃はありましたが、25年の朝鮮動乱で日本経済は復興のきっかけを摑んだといえますか。
梁瀬 昭和20年に戦争が終わって、25年迄は混乱の時代、または日本人の腑(ふ)抜けの時代で、餌だけを漁って町中を歩き、焼け野が原で何とかやっと生きていた5年間といっていいでしょう。
 過去が否定されて、価値観、道徳、思想、宗教に対する考えが大きく変わりました。
 現在の日本の繁栄の大きな引き金は何といっても朝鮮動乱で、これを契機としてアメリカの占領政策が一変したのが原因だと思います。
 当初の占領政策は、日本の弱体化を図るため財閥、商社を解体し、軍需産業は禁止したりしたのですが、朝鮮動乱をきっかけにして、日本を相当程度に繁栄させておいた方がアメリカにも得策であると、大きく政策変更をしました。
 これを日本人は働き蜂で、一生懸命泥まみれになって働いたから今日の繁栄があると自惚れたらいけないと思います。
 たしかに、働きはしたけれどもそれは「食」を得るためのものであって日本人の力だけでここまできたと考えてはいけない。
 日本は軍備を認められない代わりに、すべてを経済発展のために集中できたのが日本経済繁栄の原動力です。
 軍備というものは非常の時には役に立つが、後は金を食うだけです。
 日本は有難いことに、本当に困ってくると神風が吹いてくれる、人力を超越したツキ、或いは運命(さだめ)のようなものに日本は恵まれていると思います。
―― あの食うや食わずの敗戦日本が現在のようになるとは本当に夢みたいで、これを予測した人は恐らく皆無でしょう。
梁瀬 たしか昭和23年の或る日、オヤジがついてこいと言うので一緒にGHQに行ったことがあります。
 トランスポート・ディビジョンというのかな、交通関係の中佐か大佐の人に会って、オヤジが話をしました。
 20年30年先になると東京は車で一杯になって通れなくなってしまうおそれがある。いま、進駐軍の命令であれば何でも通る時代だ。将来の日本の自動車の氾濫に対する受け皿、即ち道路、駐車場、パーキングスペース、交通規制、交通道徳の確立など進駐軍の命令でやっておけば必ず感謝される時代がやってくる。道路についても、建物や田畑を潰さないでも、山手線や京浜東北線、中央線の上に作ればいい。皇居や各地のお城のお堀は鴨が降りる程度の2m位の深さがあれば風致を害することもなく、その下を駐車場に利用できる筈である。今これをやらねば将来は手が付けられなくなる。
 こう説明したら、相手の軍人は腹を抱えて笑い出して、お前は気が狂ってるのではないか、20年経っても30年経っても日本に自動車が溢れるなんて考えられない、と言って取り合ってくれませんでした。
 現在の自動車の状況を考える時、40余年前に今日を予測したオヤジはやはり先見の明があったと思います。
―― 千載一遇のチャンスであったかもわからないのに、進駐軍にはそこ迄の見通しはつかなかったのでしょう。お忙しいところ有難うございました。
(つづく)






スポンサーサイト

コメント

非公開コメント

プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学処分。
15歳で安岡正篤先生門下に入る。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。
 みなさん さようなら  11月13日 】
絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

人が好き 歴史が好き みなさんようこそ

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

  • ページトップへ
  • ホームへ