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みなさん さようなら

2018.10.22 06:00|社長の軌跡/人に四季あり
1991年(H3)月刊「NewTRUCK」11月号
『人に四季あり 』

若さの勝利ベンツとVW取引
体制を固めて自由化時代に


梁瀬次郎 ④ ヤナセ会長・社長

GM直訴アメリカ行
TVアンテナに驚く

増田 前回は戦後の日本にとって神風ともいうべき朝鮮動乱が昭和25年に起こりまして日本の経済は立ち直りのきっかけが与えられました。この年にGMから日本に派遣されていた海兵隊上がりの退役大佐スチーブンソンの解任依頼のためにアメリカに行くという思い切った行動に出られました。今でこそ誰でも自由に海外に出られますが、当時は大変だったのでしょう。
梁瀬 まだパスポートはない時代で、大蔵省の外貨割当が航空券別にして1日5ドル、これでニューヨークの町中でホテルを探して、食事をするには苦労しました。日本で通用しているドルは軍票ですから、軍票を買って闇をやっていた人もいたようですが、何といってもグリーンというアメリカのUSダラーが一番値打ちがありました。
―― まだアメリカまで直行では飛べなかったのでしょう。
梁瀬 羽田空港は木造のバラックの50坪ほどの建物で、飛行機はボーイング・ストラトクルーザーのダブルデッキでした。ウエーキ島で燃料を積むのですが、珊瑚礁の洞窟の中に日本兵のしゃれこうべや骨がぎっしり詰まって、日本軍の戦車が仰向けにひっくり返ったりしていた。エンジントラブルがあったりして羽田から24時間かけてやっとハワイ到着です。
 ハワイからロサンゼルスに渡ってびっくりしたのは、テレビのアンテナが椰子のように林立していること、道の中央に白線いわゆるセンターラインが引いてあったことです。
 日本でも遠からずテレビジョン時代が来ると感じまして、帰国してから「日本テレビジョン株式会社」を設立することになったのが昭和27年6月です。NHKの放送開始が昭和28年2月ですから、かなり早かった。スタジオ用機材、建設用地も手当てした直後の昭和28年一萬田(いちまだ)日銀総裁の「不用不急の設備投資禁止」方針のため銀行融資が駄目になり、折角輸入した機材は発足したばかりの東京放送(TBS)の今道潤三社長に半価でお譲りした。そして日本テレビジョン(TCJ)はその後、テレビCMとアニメの製作会社として「サザエさん」はじめ数々の名作を提供し、テレビ業界の発展に寄与している。
 センターラインの方も、警視庁に行って、当時の交通課長の片桐さんに「アメリカの道路にはセンターラインが引いてあって、越えてはいけない厳しい規則がある。日本も今の内からそろそろセンターラインを入れておかないと」と申し入れました。それは大いに結構だが、警視庁にはペンキ代の予算が計上されてない、それではうちの費用でと第二京浜に引いたのが日本のセンターラインの最初である筈です。
 片桐さんの上に交通部長として内海倫さんがおられ、現在の道路交通法などの基礎になるものを作られた人です。内海さんは防衛事務次官等を歴任の後、昭和59年から人事院総裁に就任され昨春退任されました。
―― スチーブンソンの件はどうなったのですか。
梁瀬 GM側でも事情がわかったと見えまして、私が訪問したのは1950年(昭和25)の11月で、翌年3月にはミスター・バンカードがサービス担当者として東京事務所に加わったし、戦前に日本ゼネラルモーターズの専務をやった鈴木針溢さんが1952年4月にGMの極東代表者になって、ミスター・スチーブンソンの独裁時代は私がアメリカから帰国する頃には終わりを告げました。
―― やはり誠意を以てぶつかると道は開けるものですね。
梁瀬 ミューヨークに廻って、朝はコーヒー1杯5セント、昼はコーヒー1杯とドーナツで10セント、そういう生活をしながら毎土曜日に家族に送ったのは石鹸とタオルです。
 当時の日本のタオルはお湯に入れると融けてしまうような代物だし、石鹸はまるで泡が立たない。
 アメリカでよく使われていたのはアイボリーという白い石鹸でした。子供が学校へ入る前だったんで、1着3ドルほどの安い洋服を買って送ったりもしました。

米国製冷蔵庫などを
密かに技術者に公開

―― アメリカに初めて行かれた昭和25年には日本橋のそれ迄の本社をヤナセストアーとして開店しておられます。
梁瀬 アメリカ軍に接収されて181ポストオフィスになっていた日本橋本社が昭和24年の暮れに解除されました。
 返還された本社をどうするか、日本人向けに並べる自動車も品物もない。この際、思い切って本社を芝浦に移そうとしたのですが、オヤジに「芝浦くんだりまで車を見に来て下さるお客はいない」と反対された。オヤジとしては精魂込めて作った日本橋の本社を離れることは辛かったのだと思います。
 日本橋は便利すぎて車1台止められない、駐車場がなければ商売できないと私は思っておりましたので、名目上の本社は日本橋に残して本社事務所は芝浦に移し、空いた本社の建物を使ったのが梁瀬商事の経営したヤナセストアーです。
 当時はまだ講和条約締結前で日本人立入禁止のお店が軍人専用のPX,非軍人のOSS、OASなど扱い商品別による小売店がありました。
 ヤナセストアーは米貨建ての店で、1階ではデュポンの塗料、ウエスチングハウス社製の電気製品、2階では洋服と洋品類を扱っておりました。
 よせばいいのに、日本橋の店が閉まるのが5時。6時から電気メーカーのエンジニアにどうぞ遊びにいらっしゃいとお話したものですから殆ど毎晩お見えになって写真を撮ったり、図面を書いたりなさっていました。現在の日本の家電が非常に立派に発展したのに、いささか火を付けたのではないかと私は思っております。規則には反したかもわかりませんが。

貨幣割当制に挑戦して
ベンツ・VW販売権獲得

―― 昭和27年4月に対日講和条約が発効して日本も独立国になり、占領政策も大きく変わりましたが、まだまだ日本の経済はひ弱い状態でした。外車輸入の方はどうだったのですか。
梁瀬 同じ年に輸入自動車協会(JAIA)が誕生して、輸入車業界も活気づいてきたのですが、昭和25年から外貨割当方式による輸入車販売がタクシー、ハイヤー、病院、医師、報道機関向けに許されることになっていました。
 外貨の割当はアメリカのドル、イギリスのポンドスターリング、ドイツ・フランス・イタリアのオープンアカウントの3種の貨幣で行われたのですが、日本はアメリカから食糧を買わなければならないので、貿易収支は必ずしも黒字にならなくて赤字が多かった。赤字が多かったから、アメリカからの輸入には非常に大きな制限があった。
 従って、アメリカの車の販売権を全部持っていたとしても、ドルの割当が少なければ殆ど意味が無い。
 そこで私は自動車の車種の種類による販売権よりも、貨幣の種類による販売権に切り換えるべきである、ということを言い出しました。
 このヒントになったのは銀座のキャバレー「美松」の女の子の話です。
 若い社員達を連れていって、他の連中はダンスをして私ひとり残ってテーブルに坐っていると女の子が「社長さん11時半のラスト迄ここにいても私の手に入るのは1500円ですが、あそこにお得意さんが来ている、15分ずつ3回廻らせてくれるなら1回500円で1500円になる、社長さんのお勘定は1000円にお負けします。私も1000円得しますが、あなたも500円得をします」と言うんで、ああそう行ってらっしゃいと送り出してひとりボンヤリ待っている間に、成る程、アメリカの車だけより、イギリス、ドイツ、フランスと貨幣の種類、テーブルの数を増やすことだと気がついた。
 アメリカ以外、ポンドスターリングだとやはりGMの系統ですがボクスフォールの乗用車とボッドフォードというトラック、オープンアカウントではやはりドイツで、そうなるとベンツとフォルクスワーゲンだ、よしこの販売権を取ってこよう、そのためにGMの許可を貰ってきたいとオヤジに申し上げると、絶対にまかりならぬ、GMに話せばいけないと言うに決まっている、と猛反対です。オヤジとすれば一時期の中断はあったものの長い取引をしているGM社以外の車種の取扱など考えたくなかったと思います。
―― 先代の強い反対を押し切って2度目の渡米をされたのが昭和28年1月となっています。
梁瀬 それ迄に、ある商社を通じてフォルクスワーゲン社との間には一応の諒解事項はできていました。
 ロサンゼルスに到着するとオヤジから「この話をGMの幹部にしたり、西独に行くようなことがあれば社長を解任する」との電報が着いていて「解任されても結構だ、新しい会社を設立する」と返電した。
―― どうも大変な父子ですな。結果はどうなりました。
梁瀬 ニューヨークに着いたら日本担当のマクナップ氏は明朝8時に出張の為出かけるという。そこで同行させたジャック石尾君に私が日本文で書いた原稿を英訳して貰ってタイプに打ち、でき上がったのが午前3時、空港に行ってマクナップ氏の来るのを待ったのですが、1月末のニューヨークの早朝はまことに寒い。それでもマクナップ氏を見失ったら大変だと2人でガタガタ震えながら待っていると7時頃やってきた。
 日本からやって来たのはこういうことだ、日本は外貨が少ないので割当が行われている、アメリカの車だけではヤナセは食っていけないので、ドイツの車も扱うことを認めてほしいと用件を述べて手紙を渡した。わかった、上のビッグボスに相談すると答えを貰って、彼がチェックアウトした後、コーヒーショップで冷えた体を温めました。
 その日の昼、いよいよそのビッグボスのフィリップ氏と食事をしながらこの件で会談をしました。この人は昭和2年にGM日本を作った時の初代の社長で、小学生だった私をジロージローと言って可愛がってくれたいいおじさんだった。
 お前がそうやって苦しんでいる状況はよくわかった、よろしい、とOKを貰いました。
 その足でヨーロッパへ飛んで、フォルクスワーゲン社に行ってノルドホフ社長とエルツィン氏に会い、フォルクスワーゲン社の日本輸入についての話をしました。仲介した商社との行き違いもあったりしましたが、結局昭和29年になってフォルクスワーゲンの日本での販売権がヤナセに与えられました。
―― ベンツはどうだったのですか。
梁瀬 ベンツについては私がGMの諒解を取りつけるためにアメリカにゆく前年の昭和27年に系列のウエスタン自動車や他社との間に販売契約がありましたが、ヤナセ本体としてはGMとの関係もあって、ベンツ社の日本でも販売権を全部取得していなかった。
 ドイツ車を扱うについてGMの諒解を取り付けたことでもあるし、誰の紹介もなくベンツに乗り込んだのですが、その時に出てきたのがミスター・ヴィショディルで、この人が非常にいい人で、実は今日本のどこかに販売権を与えようとしているところだ、と言う。そこで、日本でベンツ車の販売を成功させたいのか、と聞くとそうだ、それなら唯一成功する道がある、何だ、それは俺に任せることだ、お前は若いくせして図々しい、えらいことを言う奴だ、面白い、じゃあやらせよう、となりました。
―― ヤナセ従来のアメリカ車に加えて、ベンツ、フォルクスワーゲンのドイツ車が加わって盤石の体制です、よくそれだけの働きができたものだと感心します。

初代長太郎氏の逝去と
26年ぶり自由化の達成

―― 昭和29年には創立40周年を迎えて盛大な記念式典を催しておられます。先代の胸像はその時に作られたものですか。
梁瀬 そうです。除幕式の翌日、椿山荘で祝賀会をやったのですがこれがえらい雨だった。
―― 昭和31年6月11日に先代がお亡くなりになる、その直前の5月25日の株主総会には衰弱した体を押して出席しておられます。事業家の魂を感じますね。
梁瀬 母が付き添って、先ず宮城へ行ってほしいと言われ、一時止めてそこで最敬礼、日本橋の本社の前を通り、芝浦のフォルクスワーゲンの工場の2階の会場へ背負って上がりましたが、実に軽くて寂しい気持ちがしたものです。
 宮城、本社前、芝浦工場のコースは葬儀の時も同じでした。
総会での後、お茶とお菓子が配られて、三田の大坂屋の菓子を、うまそうだと少し口に入れましたが、もう喉を通りませんでした。大坂屋さんからは今でも命日にお菓子を頂戴しています。
―― ご葬儀の時の、佐藤尚武さん(著名な外交官で戦前の外務大臣、戦後は参議院議長を歴任、梁瀬長太郎氏の学友)の弔辞を「轍」で読まして戴きました。心にしみるいいお別れの言葉で、私の師である安岡正篤先生のご葬儀で岸慎介元総理が述べられた弔辞と共に、深く感銘を覚えます。
 佐藤さんからこれだけのお別れの言葉が頂けた先代はやはり素晴らしい方であったと思います。
 先代の亡くなられた昭和31年の『経済白書』では「もはや戦後ではない」の言葉が使われました。昭和30年代をどうお考えになりますか。
梁瀬 いろいろな表現の仕方はあるかと思いますが、季節にたとえるなら復興の春の時代が過ぎて強烈な太陽の照りつける夏の時代であった、苦労も多い反面、明るく活発な時代であったという印象が強く残っています。
 神武景気、ナベ底景気、岩戸景気と高下しましても、基調としては経済成長の時代であり、後半はモータリゼーションが軌道に乗りました。
 輸入自動車業界は自由化問題に明け暮れした感があって、国産品愛用運動が起こると、通産省などでは敵が来たとドアを閉められたりすることもありました。
 昭和28年から一般用の外貨割当は禁止されていましたが、昭和36年になって、過去の実績等による外貨割当が再開され、公開入札による販売が可能になって、業者からの提供価格と入札価格の差をJETROが吸収して巡航見本市船「さくら丸」の建造費に充てられました。
 輸出振興にもこれで大いにお役に立ったわけで、かなり風向きが変わり、私達の熱望した外車の輸入が昭和14年以来、実に26年ぶりに昭和40年10月1日から自由化になりました。
 国産車メーカーは自由化を非常に懸念しておりましたが、この頃から日本社の輸出が激増していったのはご承知の通りです。
 ヤナセとしては拠点整備に全力をあげ、新しいヤナセの基礎づくりの時代であったといえます。
―― 大正4年に創業のヤナセが50周年を迎えて新社屋を建設されたのが昭和38年です。
 昭和40年代、50年代、そして平成のヤナセについては大方の読者もご承知のことですし、4回にわたりましたこの対談もこれでピリオドにしたいと思います。貴重なお時間を拝借して有難うございました。
(おわり)


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プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学処分。
15歳で安岡正篤先生門下に入る。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。
 みなさん さようなら  11月13日 】
絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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