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みなさん さようなら

2005年11月4日(金)
大阪の日本橋(ニッポンバシ)、地盤沈下

 大阪のトラック用品の大手会社社長と車を待つ間の立ち話で、東京と大阪の格差の拡大についての話題が出た。商人的感覚から脱皮でけんからでしょうな、市長選挙や言うと、吉本の漫才のうようなのが話に出てくる、東京も立派なことは言えなくて青島幸男という妙なのが出たこともありますが、石原になって大分締まってきた、大阪は地方都市の大きな町になった、などということを話しているうちにクルマが来た。

 大阪にも日本橋がある。但しニホンバシでなくてニッポンバシで、1丁目を日本一などと言い、その3丁目から4丁目あたりにかけてかつては古書店街があり、戦後は電気街になった。ところが、東京の秋葉原がこの電気街のお株を奪って、外国からも買い物客が殺到するまでになった。商人の町、商都といわれた大阪は顔色なしである。

 なぜ大阪が地盤沈下を起こしたのか。理由はいろいろあろうが、私は大阪の学問のあり方に一つの問題があったと思う。大阪には、商人に学問は不要だとの意識が根強くあった。せめて最低限の中等教育をということで、大阪には天王寺商業、扇町商業など有名な商業学校が生まれて、その中には浪速商業などの野球の名門校も含まれている。(続く)


2005年11月7日(月)
大阪の地盤沈下は大学教育による人材育成を怠ったため

 大阪の隣の京都には京都帝国大学始め第3高等学校、立命館、同志社など、官立私立の個性のある大学があったが、大阪はそれを持ち得なかった。私の出た旧制の大阪商科大学は一名「町人大学」と呼ばれた。そのくせ、凡そ現実離れしたマルクス経済学の信奉教授陣が多く、彼らについて勉強していた学生は卒業すると、就職するなり家業を継いで、学業はサッパリ忘れてひたすらサラリーマンと金儲けに徹するタイプがほとんどだった。

 従って起業を志すのは皆無に近く、わが同級生を見ても独立したのは私1人。異端児として見られる風があった。私立の関西大学は法学部が有名で、法曹界に進む人材は多かったものの、経済学部商学部は今ひとつ。兵庫県の関西(かんせい)学院はクリスチャン校で、いわゆるお坊ちゃんが進学していたように思う。

 これを東京の私立6大学や、日大、拓殖、国士舘などの個性溢れる大学陣に比べると、まったく歯が立たない大阪の大学だった。東京の大学卒業生は大阪に何の魅力も執着も持たない。大阪の地盤沈下を大阪の大学出身者ではどうにも防ぎきれなかったのだろう。大学の世界で東京に大きく水を開けられた、大阪の辿るべき当然の宿命であった気がする。


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プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学処分。
15歳で安岡正篤先生門下に入る。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。
 みなさん さようなら  11月13日 】
絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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