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みなさん さようなら

2018.11.15 07:15|「呉越会」
1990年(H2)月刊 「NewTRUCK」11月号
「第18回 呉越会レポート」

トラバントと西独車
                 トラバントと西独車 (ベルリン1990年)

ベルリンからベンツ社、パリへ (2018年11月15日~12月3日アップ分)

美しくなったロンドン

 9月26日、成田午後1時30分発の英国航空BA008便はシベリア上空を飛んでロンドンに向かう。正月、エジプト往還の時に見たシベリアは白一色だったが、氷雪も溶けて果てしない緑の山野が眼下に展開する。
 ブラインドを下ろして機内を暗くしているが外は明るいまま。ほぼ12時間後の午後6時ごろロンドンのヒースロー空港に到着、薄暮の道を市内のスキタス・セントアーミンズホテルへ1時間ほどかけて入る。

 現在、日本とベルリンを結ぶ直行便はないが、出発の朝、航空会社が申請を出していると新聞に出ていたので、近く実現することになるだろう。当初はパリ経由でベルリンに入ることになっていたのが変更されてロンドン経由になり、訪問国は東・西ドイツ、フランス、チェコスロバキア、オーストリアにイギリスが加わることになった。このうち、東西ドイツは10月3日に統合されたのはご承知の通りで、我々一行はその日の朝を西ドイツの大学の町ハイデルベルグで迎えて、夕刻パリ入りした。

 イギリスは11年ぶり、昭和54年に「第7回 呉越会 欧州自動車産業視察団」の団長として訪れて以来。空港からロンドンの都心に向かう高速道路の両側に見る風景は余り変わっていない。
 宿舎のスキタス・セントアーミンズは1世紀を超える歴史を持つ古いホテル。ロンドンは単なる経由地で公式的な行事は何もないが、せめて夜景でも名物のタクシーで見に行こうと玄関へ出たが生憎、客待ちの車はない。クロークにタクシーを呼んでくれと頼んだら、タクシーは高いし不親切だ、観光用のいい車を呼んでやるという。いや、こちらはあのクラシックタクシーに乗りたいんだ、と頑張っても、グッド、ノープロブレムと譲らない。

 根負けして、彼の言う通りにしたが、結果から見ると、これが正解であった。
 ロンドン塔、タワーブリッジ、バッキンガム宮殿、ビッグベンの国会議事堂、ウエストミンスター寺院、ネルソンの高い記念塔のあるトラファルガー・スクエア、金融街など、市内の観光ポイントを、遅めのテンポの英語で説明したり、タワーブリッジでは橋の上をゆっくり案内するなど、丁寧なガイドぶりで1時間ちょっとの料金が8000円くらい、乗用車の質も良かった。

 ひと廻りして感じたのは、街が格段に美しくなっていたことで、鮮やかに表面を塗装したのが白色の照明に映えている。この化粧直しはごく最近のことらしいが、それだけにかつてのロンドンの持っていた重厚な古色といったものが少し失われた。
 テームズ河畔の、エジプトから持ってきたオベリスクが黒ずんでいるのに驚く。エジプトのはピカピカなのに、気象条件と煤煙などの公害が僅かな年月で貴重な人類の遺産を汚すのだ。

ベルリンの壁
                      ベルリンの壁

東西冷戦の象徴ベルリン
 4時起き。ホテルのロビーで、コーヒーとパンだけの簡単な朝食を取る。夜通し飲んだらしい若い男女がわいわいやっている。
 5時過ぎ空港へ。昨夕の渋滞がウソのような高速道路で到着した空港は6時前なのに、かなりのビジネスマンがいる。ヨーロッパの各地へ散ってゆくのだろうが、働き蜂は日本人だけではなさそうだ。
 西ドイツのその西端、ベルギーとの国境に近いデュッセルドルフで乗り換えて、12時少し過ぎベルリン空港に到着した。

 東西ドイツの分割を象徴するのはベルリンであった。もともと水と油の米英連合国側とソ連は第二次大戦中こそ協力関係にあったものの、戦争が終結するとその対立は表面化して、東西冷戦、鉄のカーテン時代が始まる。
 戦後のドイツは暫定的に米・英・仏・ソの4国の共同管理のもとに置かれて、時期を見て統一ドイツを実現させるということになっていた。しかし米英仏とソ連との対立で、西ドイツ、東ドイツの分裂国家を生み、その体制が40年余りも続いてやっと統一に漕ぎつけたわけである。

 ソ連によるベルリンの封鎖が実施されたのが1948年6月、東ドイツの中央部やや東寄りのベルリンへの交通路遮断は、忽ち西ベルリン百数十万市民の死活にかかわる。
 アメリカ軍は戦争と装甲車による強行突破を考えたというが、それでは第三次大戦になる、との英仏両国の反対で西ベルリン市民救済のための『大空輸』作戦が実施された。
 11ヵ月の間の空輸回数は277,728回、物資の量は234万t余りに達した。最盛時には45秒ごとに着陸したというから、史上最大の空輸作戦であったろう。
ベルリンの壁犠牲者メモリー
                      ベルリンの壁 犠牲者メモリー

 ベルリンを前面支配しようとするソ連の意図は失敗して、1949年5月に封鎖は解かれた。しかし、対立そのものは依然として根強く残り、1961年8月東側は『ベルリンの壁』を作って、東西ベルリンの交通遮断の挙に出て多くの悲劇を生んだ。
 西ベルリン空港から市内へ入り、部分的に残るその『壁』を見て、戦後45年のドイツと日本の歩みを改めて思ったことである。


ベルリンの壁撤去 東ベルリン駅 1990年
   写真左: ベルリンの壁の撤去作業    右: 東ベルリン駅の混雑 (1990年)  


労働環境重視のリーナス社
 西ベルリンに一泊した翌日午前、総合物流業者リーナスRHENUSのベルリン支店を取材訪問した。

 その途中、オリンピック競技場と展示会場を見る。ヒトラーが総統に就任したのが1934年、2年後にはこの会場でオリンピック大会が開かれた。その記録映画『民族の祭典』で得意の絶頂期にあるヒトラーを見た。「前畑ガンバレ」の名放送があったのもこの時。その4年後に予定されていた東京大会は大戦で延期された。
 展示会場にはこの秋の自動車ショーの予告が出ていたが、東西合併後のことでもあり、盛大なものになるだろう。

 閑静な高級住宅地の小さな道を走らせながら、運転手が「この家が一番好きだ」などと言う。どうやら彼は建築が好きで、我々を自分の好きな家の前に案内したらしい。

 リーナスではペテル・クラウス副支店長ほか二人の方が応対して、ビデオで概要説明のあと施設内を案内された。
 リーナスは保有トラック1700台(トレーラを含む)、スワップボデー(脱着ボデー)1200台、クレーン車などの荷役車両300台、敷地面積約160万㎡、従業員5768名を持つドイツでは中の上クラスの物流業者であると思われる。総収入は125億ドイツマルク(1989年資料)。

 施設を見学して感心したのは、上の資料でも見るように、脱着ボデーのウエイトが非常に高いことである。ただ、この脱着ボデーは常時脱着して使用しているのではなく、普段は一般カーゴ車としてそのまま使い、必要な時だけ切り離して荷役・保管に使用するのだろう。また、ヨーロッパに多いフルトレーラと脱着ボデーのシステムを組み合わせて効率的運用を図っていると思われる。

 同社のキャッチフレーズは“ジャスト・イン・タイム”、これだけが英語であるのは面白い。わが国のカンバン方式ほどでなくても、定時集貨、定時配送が課題となっているのだろう。
 立体保管倉庫があったが、コンピュータ管理はされていない。故障した時、顧客に迷惑がかかるからとの回答であった。

 欧州トラックの典型スタイルのホロ式半固定ボデーが圧倒的で、クローズのバン型やウイングは見られない。理由を聞くと、カサの高いものが積めないからとの返事だった。欧州では車両の高さ制限はゆるくて、その高さを超える貨物はむしろ例外的なものの筈だが、これはやはり永年の習慣を踏襲していて、変更することをためらう保守的な体質があると思わざるを得ない。

 日本の乗用車に使用している洗車機の大型のものがあって、大きなセミトレーラをまるごと洗車しているのには驚いた。トラックを美しく、運転手の労力低減の観点から、わが国でも導入すべきである。帰国後、関係者と話してみたい。

 西ドイツの労働者は世界でも最も恵まれた条件で働いているそうだが、労働時間や食堂、休憩所などの厚生施設はわが国よりたしかに勝れている。給料は日本円で月40万円程度、ボーナスが殆どないのでわが国より低いように見えるが、労働時間割にすると、西ドイツの方が高いのではないか。
 ペテル・クラウス副支店長とその他の方も熱心に、親切に案内、説明して戴いたことに感謝したい。
 東西ドイツ合併後のことについては、東側には物流という意識そのものがなく、すべてこれからだ、という話であった。それだけに明るい将来性がある、といえよう。

 ターミナルの前に、白と青を基調にした不思議なデザインの建物がある。ハテ、何かと思って聞くと、これが刑務所であった。刑務所というのは不思議と斬新なデザインのものが多く、明治以降のわが国にもその例がある。

ベルリン~プラハ6時間の旅
 ややオーバーな言い方をすれば命からがら東ベルリン駅から脱出した一行は、漸くコンパートメントに落ち着いて一息入れる。
 列車はほぼ真南に向かって走る。窓外はなだらかな起伏の沃野が一面に拡がって、ところどころ林がある典型的なヨーロッパの平原地域である。
 工場らしきものが時折目に入るが、外観から見る限り、相当老朽化している。内部の設備もおそらく同様だろう。

 左手に大きな川が見えてきた。エルベ川で東西ドイツをほぼ南北に貫流して北海に入り、下流にはドイツ一の良港ハンブルクがある。対岸は山が迫って、断崖があり、館があり、その下をひと筋の道が通じて、相当大きな貨物船が上下している。

 「エルベ河の邂逅(かいこう)」という第二次大戦の歴史的な場面がある。
 1944年6月にノルマンディーに上陸したアメリカ・イギリス連合軍と東部戦線の中央部を突破してきたソ連軍の先鋒隊が、いま私達の走っているあたり、トルガウという小さな町のエルベ川に架かった壊された橋の上で出会い、お互いに肩を抱き合って勝利の喜びに泣いた。1945年4月25日午後4時40分のことで、ベルリンにはソ連軍が先に入り、30日にヒトラーが自殺、5月8日、ドイツは降伏した。

 「エルベの邂逅」は、ひたすらドイツを破ることに全てを集中した連合国とソ連の蜜月が、戦後のドイツの統治や東欧・バルカン諸国の取扱をめぐって『冷たい戦争』に入ってゆく分岐点であった。

 大きな教会のあるドレスデンは、チェコスロバキアとの国境に近い交通の要衝。国境を越えるため、東ドイツ、チェコ両国の担当官によるパスポートと入国ビザの検閲がある。
 夜のとばりが降りて、灯りも余り見えない暗い中を列車は走る。食堂車はなく、ベルリンで積み込んだ日本食弁当が夕食。車中の人達はわいわい飲んでいたが、その一人は通路に寝そべる始末、酒癖の悪いのは日本人だけではない。

 定刻より少し遅れて9時前、トランクを引っ張って出入口へ来ると、ホームがない!大陸のホームは日本と違って低いが、そのホームからも外れて後尾の車は停車した。現地の人に助けられてやっと重たいトランクを下ろして砂利の上をホームまで無理矢理引きずる。
 およそ日本では考えられないスリリングで重労働の伴う6時間余りの東ベルリンからプラハへの列車の旅は終わったが、連れて行かれたディプロマットホテル・プラハは完成したばかりのいい宿で、生き返った思いだった。


プラハ&ホーフブルク
写真左: ヒトラーが大演説したホーフブルク宮のバルコニー   右: やっと到着したプラハ駅


プラハ 中世の美しき都市
 『プラハの春』はペレストロイカに先立って1968年に、ほんの束の間に訪れたチェコスロバキアの自由化、平和革命の日々をいう。
 ソ連のスターリン主義は2度にわたってチェコの自由化運動を武力弾圧した。1953年3月のスターリンの死は、その圧政に苦しめられた東欧諸国、特にハンガリー、ポーランドで自由化を目指す運動が起こり、6月にチェコでも大規模なストライキと暴動が発生したが、無惨に武力弾圧された。
 チェコ第2回目の武力弾圧は『プラハの春』を打ち砕いて、東京オリンピックの名花チャフラフスカもひどい扱いを受けていると伝えられた。

 プラハはそんな忌まわしい現代史のひとこまを吹き飛ばす美しさを持った街である。中世から近世にかけてのヨーロッパの建物と街の美しさがここには凝縮している。
 プラハでは日本語の話せる現地ガイドの手配ができず、女性ガイドのイタリー語を添乗員の湯山氏が通訳するというまどろこしさ。14世紀頃から建てられた王宮、城、教会、橋、そして住居に至るまで渾然一体となって保存されている。至るところで改修工事は進められていたが、旧観をそのまま保護するという努力には敬服の他はない。

 土曜日ということもあって大変な人出。毎時、死神の鐘の音と共にキリスト12使徒の人形が現れる旧市庁舎の広場は押し合いへし合いの雑踏で、粋な御者の操る2頭立ての馬車がムードを更にかもし出す。
 名物ボヘミアガラスの店は長い行列ができている。私に値段のことはわからないが、妻の言によると日本で売っている4分の1程度らしい。
 ピルゼン・ビールの本場で、日本のより少しきつい感じだった。

 現地通貨のコルナは国外に持ち出すと両替はきかないので、プラハ駅のホームのエキスポでチョコレート、飴、ジュース類を買う。一行の分を集めると大きな袋一杯になった。
 プラハ発午後3時13分、ウイーン行きの列車は少し遅れて出発、東ベルリン駅のあの雑踏はなく静かな出発である。朝早く起きて原稿を書いたのとピルゼン・ビールの酔いで、同行のT氏と携帯マグネット碁盤で一局打った以外は、9時頃ウイーン到着まで殆ど寝ていた。同行の人からよくそれだけ眠れるものだと冷やかされる。

 しゃれたムードのペンタホテル・ウイーンで遅い夕食をとる。
 ベルリン、プラハ、ウイーンへ、欧州北から南へ合計12時間の列車の旅だったが、ベテラン添乗員湯山氏もこのコースは初めてらしい。東西合併であの東ベルリン駅の無秩序ぶりも解消するだろうし、われわれは実に珍しい体験旅行をしたといえるだろう。

華やかな宮廷芸術ウイーン
 『会議は踊る』『ウインナワルツ』はオーストリアの首都ウイーンを舞台に繰り広げられた。宮廷外交と華やかな舞踏音楽はつきもので、モーツアルト、ベートーベン、シューベルト、ヨハン・シュトラウス、ブラームスなどが活躍して、その墓のあるのもウイーンである。町中に王宮やオペラハウスなどの優雅な建物がある。現地日本人ガイドは初老の音楽家、ウイーンに来て30年余り。ガイド仲間に『教授』と呼ばれてガイドライセンス第一号の持主という超ベテラン。時折音楽のリズムや声色も入る熱演ぶりであった。

 見学できたのはベルヴェデーレ宮殿、シェーンブルン宮殿、ホーフブルク宮殿の3ヵ所である。
 オスマン帝国の大軍にウイーンが囲まれることが2度あって、この時にもしウイーンが陥落していれば、その後の欧州の運命は変わっていたと言われる。1度は予定より早く訪れた寒波によって、1度は名将軍オイゲン公によってトルコ軍は撤退を余儀なくされた。そのオイゲン公の夏の離宮がベルヴェデーレ宮殿でバロック式、ちょっと東洋的な屋根はトルコ風が入ったもの。数々の国際的な会議の行われたところで裏の庭園も素晴らしい。

 1600年代、時の皇帝によって「ベルサイユより大きく美しく」という要望が出されたが、余りにも計画が厖大で経費もかかり過ぎることから、第2案によって作られたのが現在のシェーンブルン宮殿の基本部分で、そのあと女帝マリア・テレジアのハプスブルク家の宮殿となって最盛期を迎えた。
 その絢爛豪華な金色もまばゆい部屋から部屋への連続は、ため息と共に時には反吐の出そうなしつこさを感じるのは私だけだろうか。

 マリア・テレジアの娘がフランス革命で断頭台の露と消えたマリ・アントワネットで、その後に登場したナポレオンの泊まった部屋、若くして肺結核で死んだ彼の息子の臨終のベッドなど、ヨーロッパ史を彩る人達にまつわる部屋が続く。6歳のモーツアルトがマリア・テレジアの膝の上に乗った、といわれるのもこの宮殿での出来事だ。
 ばかでかい庭の中には動物園があり、マリア・テレジアが夫の浮気封じに彼の好きな動物を飼わせた、とは『教授』ガイドの説明だが、さてどうか。

 ホーフブルク宮殿は継ぎ足し継ぎ足しで、現在の19の中庭と2600の部屋を持つ大宮殿となった。『会議は踊る』の主舞台となったところでもあり、オーストリア出身のヒトラーはこのバルコニーから大演説をぶった。

 ウイーンの森はアルプスの裾野の部分で、ウイーンを包み込むような広大な森である。
 修道院『ハイリゲン・クロイツ』はさまざまの時代の建築様式が混ざり合った建物で、日本の禅宗の厳しい修行と同じようなことがキリスト教でも行われていたことがよくわかる。

 映画『うたかたの恋』は皇太子とその恋人の男爵令嬢の悲恋を描いたもので、ウイーンの森中の館の一室でふたりは死んだ。その真相は心中、他殺、またその原因には皇太子の性病説、政治的陰謀説など紛々で、『教授』ガイドが推理小説さながらに絵解きしてみせる。
 せせらぎの流れる眺めの良いところで、おいしいケーキとコーヒーが出た。
 今夜もウイーン泊まり。

ベンツトラックの強さ
 4時半モーニングコール、空港へ向かう道には先湯プラントなどの工場もあって、芸術の都とはまた別のウイーンの顔を見せる。
 ウイーンから空路西ドイツのフランクフルトへ、さらにバスでヴェルトに向かう。ご自慢の自動車道路アウトバーンも半世紀余りの寄る年波には勝てず、いたる所補修工事中で、そのための渋滞も頻繁だった。
 トラックは幌シートのフルトレーラが圧倒的に多く、セミトレーラは少ない。わが国の主流の大型トラックはごくまれに見る程度で、車の構成がまるで違う。雨になった。

 午後、いよいよベンツのトラック工場見学である。
 この見学に先立って「ダイムラー・ベンツ 日本への挑戦」(田中重弘著 中経出版)が出版されたのは私にとって非常に好運で、機中から読み始めてこの見学の朝、読み終えた。
 ダイムラー・ベンツ社の歴史やその製品については、次の博物館のところでやや詳しく述べることにして、ここではダイムラー・:ベンツ社がドイツ最大の企業であるばかりでなく、ヨーロッパで最大の製造企業(石油・鉱業を除く)であり、その売上げの4分の3弱を占めるのがメルセデス・ベンツ社の自動車部門であることを先ず知って戴きたい。
 そのメルセデス・ベンツ社は、世界の自動車メーカーの売上げランクでこそ第7位に甘んじているものの、トラックの生産台数では断断然トップであり、特に総重量15t以上ではそのシェアはより高くなる。このクラスでの2位はスウェーデンのボルボ社である。…
 これから見学するヴェルト、Worth工場は、世界にある工場の中での主力工場の地位を占める。

 2交替制の早番組が工場を出ているがベンツ車でないのもある。
 案内役はヨハネス・フォン・ネーフ氏、フォンが付くのは身分ある人を示すのだとはガイドの話、そういえば気品のある顔だ。我々のバスに欧州人のグループ十数人も同乗して、見学する組立工場へ、まさに呉越同車で、その中には子供連れの婦人もいる。
 めいめいにレシーバーが渡されて、ヘルメットもかぶらないまま工場内に入る。

 プレスしたキャブの各面が組立溶接されて、平面体から立体へ、だんだんトラックの形になってゆくところから見学コースは始まり、完成車としてテストを受けるところまでで終わる。
 初めの段階ではそれほどでもないが、塗装されてタイヤが取り付けられるところまでくると、1台1台が仕様なり色が違うことがハッキリしてくる。色が200種類で異なる仕様形式と組み合わせると、2000以上のタイプになるという。
 生産段階で既にユーザーの要望が取り入れられ、極端に言えば1台1台の色合い、仕様の異なるものがライン生産されていることに驚かされた。
 前掲書に、乗用車工場に比較してトラック工場への設備投資は少額であり、部品などの外部生産は日本に比して少ないと書いてあったが、それだけ効率化の余地が多く残されているということもできよう。事実、大規模の塗装工場の建設が進行中だった。
……

 日本のトラックメーカーはトレーラ化の立ち後れ、世界にも例のない車両基準の規制によって、主力製品はごく狭い範囲の中に閉じ込められ、あるいは保護されてきた。その競争は国内4社だけのもので、いわば蝸牛角上(かぎゅうかくじょう)の争いで済んだのである。
 日本の大型トラックメーカーは全ト協などが進めている車両基準枠の拡大、いわゆる大型化には極めて冷淡のように見える。
 大型メーカーとしては国際基準に等しい規制枠実現に努力して共通の土俵の上で相撲を取るべきであろう。何時までも行政の保護に甘えるべきではあるまい。これがメルセデス・ベンツのトラック工場見学の後、強く感じたことであった。
 この夜はベンツ博物館に近いシュツットガルト泊まり、ホテルへの道がわからず、運転手さんは苦労した。

自動車史そのものの博物館
 ダイムラー・ベンツ博物館のあるシュツットガルトは、欧州一の製造企業である同社の本拠地で、大きな建物がいくつも並び、その中でも最も高いビルの上では例のベンツのマークが回転している。
 正門の手前でバスを降りて、構内を廻る小型バスの中の博物館ゆきに乗り換える。博物館は3階建て、ガラス張りの明るい建物だ。

 マックス・ケレルト氏の短い説明を受けて館内見学に向かう。
 先ず目に入るのが、鉄輪の自動二輪車で、1885年にゴットリープ・ダイムラー(1834~1900)が自ら開発した小型単気筒エンジンを2輪車に取り付けて走った。これが世界最初のエンジン付きの車であるとされている。
 カール・ベンツが、現在の車に近い3輪自動車を走らせたのが、ダイムラーの二輪車に遅れること僅か1年の1886年であった。
 自動車を初めて作ったのは誰で、何年であったかについては説のあるところで、今回の旅でウイーンに行ったとき、ここが自動車発祥の地であると聞いたし、フランスで最初に開発したとも言われる。
 以上の諸説があるにしても、最も早い時期にダイムラーとベンツの両人が自動車を開発したことは事実であり、しかもこの2人の名を冠する企業が1世紀以上にわたって存続したのは驚くべきことで、ドイツの誇りであろう。

 それぞれ独自の道を歩んでいたダイムラー社とベンツ社が合併して現在のダイムラー・ベンツ社となったのは1926年(大正15年)である。第1次大戦の敗戦で天文学的インフレに見舞われたドイツの企業にとって、やむを得ない措置であったが、両社の結合はより強い企業体質と技術力をもたらして、その後の大発展の原動力となった。

 企業の統合体としてのダイムラー・ベンツ社の下に自動車を製造するメルセデス・ベンツ社があるのだが、このメルセデスは商品名である。日本では『ベンツ』の名で親しまれているが、海外では『メルセデス』で呼ばれる方が多いという。
 メルセデスとはフランス語のメルシー(有難う)と同系統の言葉で、スペインや南フランスで信仰されている「恵み(メルセデス)のマリア」に由来する女性名である。

 南フランス・ニースのドイツ総領事イエリネックが、ラリーに出場するダイムラー製の車に彼の娘の名のメルセデスを付けて成功した。イエリネックはカイゼル髭を生やした堂々たる紳士であり、可憐なメルセデスの写真も博物館ガイドブックに載っている。
 あのマークは、メルセデス(恵みの)聖マリア教会の彫刻や絵画に登場する聖母マリアを象徴する星から採ったもので、ハンドルの中に収めた現在のものになるまでに5回変更されている。

 博物館は会社設立50周年にあたる1936年に当初のものが完成。第二次大戦により被害を受けたが、それらを修復したり新しい展示物を追加して、創立75周年の1961年に新博物館建設を決定、100周年を迎えた1986年2月、現在の博物館がオープンした。
 1階から2階、3階へクルマはだんだん現在の形に近づいてゆく。
 この博物館の最大の特徴は、1世紀を超える自動車の歴史がすべて自社の製品のみで辿ることができる、という点にある。これだけはGMもトヨタも絶対にマネができない。
 バン型のセミトレーラを利用したビデオの映写は、社会風俗の変換と自動車の発展の過程がよく理解できて面白かった。

 「天皇陛下旧御料車」の垂れ幕の下に濃い朱色の1935年製の770型“グランドメルセデス”の特別展示がある。
 戦時中は“君が代”の奏楽と共に登場、戦後は昭和天皇が各地を巡行された3台の同型車のうちの1台で、戦中派の私にとって忘れることのできない御料車である。法王パウロ6世やカイゼルの乗ったクルマもあるが、金のご紋章が燦然(さんぜん)と輝くこの御料車の風格は断然他のクルマを圧している。

 ただ、「天皇陛下」とは現在その位にある方を指すわけで、正しくは「昭和天皇」であるべきだし、ドイツ人がかいたらしい文字も戴けない。三菱自動車を通じて垂れ幕を贈りたい。

 入場料は不要。昨年、日本でもトップ自動車メーカーが博物館を開設したけれども、余り安くもない入館料を取っている。企業理念の相違であろうが、考えさせられる問題ではある。
 昭和天皇の御料車のミニモデルが1240マルク(邦貨2万4千円)、日本人は最大のお得意さんだろう。

 ダイムラー・ベンツ社の前の広大な敷地にはところ狭しと移動遊園地の見世物小屋が並んでいる。中には高さ数十メートルの観覧車もあり、それらの資材や人員を運んだり、組み立てるための車両やキャンピングカーがびっしり駐車、そのスケールはバカでかい。
 これらがすべて同一の企業体なのか、日本の夜店のように小さな独立企業体の集まりなのか、もすそうだとするとそれらを束ねる胴元は?興味は尽きないが真相は分からない。
(つづく) 
 








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プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学処分。
15歳で安岡正篤先生門下に入る。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。
 みなさん さようなら  11月13日 】
絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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