fc2ブログ

みなさんさようなら

いつもこのコーナーにお越し下さり有難うございます。
近々日新出版のHPは閉鎖になりますが、このブログは独立しているため、続けてお読みいただけます。
「お気に入り」に URL を保存、またはトップでヒットしますので検索ボックス内に「増田周作」とご入力下さい。
これからもどうぞ宜しくお願い申し上げます。(妙)



「土佐 すくも人」第8号 1991年版 H3.10.24発行 非売品(東京宿毛会)

安岡正篤先生と幡多 ②

大阪堀田家と幡多安岡家
 安岡家は土佐に多い安岡氏のうち、橋上村(現宿毛市橋上町)で代々番頭、大庄屋などを勤めた名家であるが、安岡先生の生家は大阪の堀田家で、安岡家に婿養子として入った。この間の事情については、先に挙げた2冊ともかなり詳しく書いている。
 堀田家は大阪市内で手広く商家を営んでいたが、事情があって大阪の東部の四条畷に近い土地に移った。少年時代を過ごした家は今も保存されて、

 青白く山は霞みて故郷の
     花の小径を辿る楽しさ

の自筆の歌碑が庭前にある。
 府立四条畷中学に進学した先生は抜群の成績であったが、堀田家の資力では上級学校へ進学させるだけの余裕がなかった。漢文と音楽を教え、学生監として生徒の進路指導に当たっていた教諭の島長大が、先生の安岡家入りに大きな役割を果たすことになる。
 島長大は土佐出身で、当時東京に出ていた安岡家の当主盛治とは親戚関係にあった。盛治は高知の大西家の出で、高知師範と中央大学前身の東京法学院を卒業して、教職に就き高知に勤務中、安岡良純の養子となり光恵との間に婦美をもうけたが男子に恵まれなかった。盛治は妻子を伴って再び上京、大蔵省勤務を経て日本通運に入社、取締役仙台支店長などを歴任、安岡先生の次男正康氏も日本通運常務取締役の要職にある。

 安岡家の系譜については郷土史家橋田庫欣先生に教示を受けた。
 上杉左エ門重房15世の孫に安岡左エ門良白があり紀州に住みその孫久左エ門良重が淡路に移り、更にその孫伝八郎良勝は山内康豊に仕えて中村に来住した。その4代後の久左エ門良儀の時、中村山内氏が断絶したので、間崎村(現中村市)に退去、その子貞助良久と伝七真儀の子孫が相伝えて、間崎村や橋上村など各地の大庄屋などを勤めた幡多の名家のひとつである。
 貞助良久から6代目に当たるのが、安岡良亮である。大阪の篠崎小竹に学んだ遠近鳴鶴門に入り、更に筑前(福岡)の亀井塾で狙徠流の古学を修め、武芸全般に通じた良亮は、幡多郡山方下役の傍ら中村にあった郡奉行管下の郷校『行余館』で文武取立役として諸生に文武を教えた。後、板垣退助率いる土佐官軍迅衛隊に参加、江戸板橋で近藤勇の切腹に立ち会う。新政府で累進して熊本県令在任中、神風連の乱に遭って殉職した。
 貞助良久の弟である伝七真儀の家系が橋上村の大庄屋などを勤めて、その8世の裔が安岡先生の養父盛治である。盛治の曾祖父良徐の弟次市と伊蔵はそれぞれ別家を立て、次市の孫には有岡で医者をした要馬があり、その子孫は殆ど医業に従事、大阪に出ていると聞く。伊蔵の跡は地元で縁戚も多く栄えているそうである。

 堀田家、安岡家の説明はひとまずおいて、島長大の斡旋によって、堀田正篤から安岡正篤となった先生は第一高等学校独法科から東京大学法学部政治学科に進む。東大在学中に既に先生の学名は高く、その論文を読んだ中国の学者から大学教授と間違われて、安岡正篤閣下と宛名を書かれたとか、卒業後に延期されていた徴兵検査で、陸軍大佐の検査官から「あの有名な安岡先生は父君であるか」と聞かれたとかの逸話にはこと欠かない。
 東大卒業後、文部省に6ヵ月奉職したのと第二次大戦末期に大東亜省顧問に就任した以外、安岡先生は遂に官途にも象牙の塔にも無縁で通した。東洋思想研究所、金鶏学院、日本農士学校の設立の間、北一輝や大川周明などとの接点もあったが、それらとは一線を画して、著述、講義などを通じて、指導者のあり方の教示と人材の育成に専念した。先生の思想的立場と姿勢は、戦前戦後を通じ一貫して変わることはなかった。(つづく)
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学処分。
15歳で安岡正篤先生門下に入る。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。
 みなさん さようなら  11月13日 】
絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

人が好き 歴史が好き みなさんようこそ

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

  • ページトップへ
  • ホームへ