みなさんさようなら

2018.02.05 00:00|社長の軌跡/人に四季あり
前々回(1月29日)、2007年1月25日肺ガンで亡くなられた元日野自動車社長、二見富雄氏の『幽冥録』をお届けしました。
平成7年10・11月号『社長の軌跡』に登場してくださっていますので、3回に分けてアップします。2号にわたって『社長の軌跡』記事が載るのは珍しいことでした。二見氏のお人柄もあって、お話が弾んだのでしょうか。(妙)


1995年(H7) 月刊「NewTRUCK」 10月号
社長の軌跡

日野自動車工業(株) 取締役社長 二見富雄氏 ① 
日野 社長
       写真右: 「第2回モーターショー」日野展示場の前で 写真中央 (昭和30年5月 日比谷)

日本橋生まれの五反田育ち
理科から法学部転身日野に


増田 年頭早々の松方さん(正信元社長)、2月の荒川さん(政司元社長)のほかにも、日野自動車の歴史を刻まれた方々が次々に亡くなられて、年明けからしばらくは大変だったでしょう。
二見 黒い服を脱いだり着たりのお葬式が続いて、本当に何となく淋しいですね。仕様がないといえばそれまでかもわかりませんが。
 お陰で社葬のマニュアルは完備して、その内規もできました。少なくとも自分は社葬には絶対ならないようにと思って。
―― 先輩の方々が日野はもう二見さんに任せて大丈夫だと申し合わせていち時に逝かれたような感じもします。
 ほかの方は余り存じ上げないのですが、荒川さんにはじっくりとご一代記をお聞きしましたし、碁も教えて頂きました。
 二見社長は荒川さんの秘蔵っ子と言われたこともあるそうですね。
二見 自販の社長になった時、ある新聞記者に書かれて、何であいつがと物議をかもしたことがあったと、後で聞きました。もちろんそれはなかったのですが、入社以来、荒川さんの下で仕事をすることが多かったのは事実です。
―― 荒川さんについては後でお話も出る筈ですから、日野に入社されるまでのことを簡単にお聞きします。
 昭和2年(1927)東京のお生まれです、代々の江戸っ子で。
二見 まことに出自定かならずで、先祖で遡れるのは私の親のそのまた親あたりまで。父親の方は徳島の出らしく、母親はどうやらひどく落ちぶれた家の娘で養女に出されたりして苦労したようです。
 お前は日本橋北島町で生まれたんだと言っていましたが、この町名は現在はなくなって昔の人に聞くと茅場町何丁目あたり、今は高速道路が入り組んでいるところです。
 生まれてしばらくたって、教育上環境よろしからずということで、郊外の五反田で育ちました。
―― 孟母三遷のようなえらいお母さんだった。
二見 それはどうか。時々、日本橋に来ると、近所の小母さんが富ちゃん、東京にきたらまたお寄りよ、と言ってくれたりしたんで、アレ俺の住んでいるところは東京じゃないのか、と考えたり、まあ江戸っ子とは思いませんが、「ヒ」と「シ」の区別がつかなかったり、どうも江戸っ子の悪いところは受け継いでいるようです。
―― 荒川さんは江戸っ子でしたね。
二見 深川生まれの本モノでした。出自もチャンとしていまして、あなたは川向こう、私はこちらと言ってみたり。(笑)
―― 隅田川の東側を川向こうと昔は言っていました。旧制高校の理科甲類から東大の法学部というのは変わってますね。
二見 おかしいと皆さんに聞かれるんですが、戦時中の理工系の学校には徴兵猶予があって兵隊に行かなくて済んだ。命惜しさに理科を選んだようなものですが、戦争もすぐ終わってどうも俺は理科には向いていないし、怠けていたから大学の理学部へは入れそうもない。(笑)それで、2年浪人して、法学部なら論文と英文の和訳だけで、和文英訳は出ない。これならいけそうだということで理科から法学部へ入りました。4修で1年早く高校へ入ったのに較べると3年、新制大学になると4年もの遅れの社会人です。
―― 相当なマイペースですが、終わり良ければすべて良しですよ。
 日野を選んだ理由は。
二見 どんな会社かよくわからなかったが、繊維なんかよりトラックやバスの方が俺には合いそうだという感じはありました。紹介してくれた人が荒川さんに会えというんで挨拶に行ったら、ラバソールの靴なんか履いた威勢のいいオジさんで、お前も東大か、俺もだという調子で。
 あの人も何かのハズミで日野に入ったんで、青雲の志を抱いて入社したとは思えない。(笑)
―― ご本人も教授が推めるから入社試験受けたんで、何をしている会社かよくわからなかったとおっしゃってました。
 そういう人の方が出世して、会社の運命を担うようになるケースも多いですね。
二見 入社してみて、こんなものかと思いました。まあ、ゲームみたいなもので、あいつよりもうちょっとうまくやろうとか。それでいて給料も出るんだから結構楽しいゲームであるし、言いたいことも言わして貰っていたから、世間一般からすると、高からず低からずの給料であっても俺にとっては高い給料貰っていることになるなと自ら慰めたりして。(笑)
―― 初任給は。
二見 私の入社の昭和28年で8千円から9千円の間、初任給が1万円を超えたのは昭和30年代に入ってからだと思います。

荒川さんの薫陶を受けて
総務部長から長い企画畑


―― 経歴書を見ると企画畑が長かったようですが。
二見 入社してすぐ配属されたのが、総務部庶務課文書係。荒川さんは当時すでに取締役で総務担当でした。
 時あたかも商法改正があった頃で、法律学科出たのだから新商法に基づく定款の改正をやれといわれビックリ。そのうちに株式実務の方に廻されました。
 4年ほどたったら今度は販売に行け、です。ルノー販売というのがあって、ヂーゼル販売と合併して日野自動車販売になったんですが、販売のことはわけがわからんのに、各地の販売店さん廻り。当時は販売についてのノウハウも確立しているわけでもなく、言ってみれば走り使いのようなものでした。
―― 総務を出て販売を担当されたのは良かったと思いますね。総務だけでは頭が固くなってしまいます。
二見 販売に7年ほどいたら帰って来い、で課長で戻りました。それから昭和55年に自販に出るまで、海外企画も含めてずっと企画です。
―― 具体的には何をしたところで。
二見 当時はまだ企画という名のつく部門は珍しい頃でしたが、日野にも作ろうじゃないかと荒川さんが言い出して、何人か集められた。そうしておいて、何をやるか考えろと言うのですから。(笑)
 長期、短期の経営計画から、商品企画まで含まれたものになる筈でしたが、それを組み立てる組織も何もない。大学の先生の本を買ってきて一生懸命読んで計画を立ててみても、そんなものは何の役にも立たない。今みたいに、下からずっと積み上げて5年くらい先のことを考えようというニーズもない頃でしたが、そういうモノの考え方が必要になってくる、そのための予行演習をやり出した、ということから始まったんだと思います。
 商品企画にしても、将来はプロダクトアウト的な、こんなクルマが売れるだろうと設計屋が考えたものを販売が売るやり方より、向こうが欲しがっているモノを考えて作らなければならない。その仕組みを作ろうと、製品企画委員会という組織ができたりしました。
 それで市場調査をやろう、お客さんからヒアリングしよう、アンケートを取ろうとすると、ディーラーの方ではお客のことは我々が一番よく知っている、俺たちの言うクルマを作ればいいんで生意気なことをするな、とか散々に言われたこともあります。(笑)
 そういうことをまるで何もやっていない頃ですから、逆に言えば、面白いといえば面白い。
―― 今でもディーラーがお客のことを全部知っているとは言えんでしょう。お客の方の意識がディーラーよりずっと進んでいる場合も多いですよ。
二見 それにしても上司の荒川さんの人使いは変わっていました。これこれの書類を明日までに作っておけ、と言われる。荒川さんにどこの誰に何の目的で出すのですか、目的と方針がわからないと仕事のしようがない、もうちょっと具体的に、と質問すると、それを聞くな。(笑)
 ちゃんと理由あってのことなんですが、トヨタとの提携の場合などもそうでしたが、最終的にとことんのところで、絶対に誰にも喋っちゃいかんぞ、と念を押されて教えてくれたこともあります。会社の存亡に関わることだからと言われると、なるほど厳しいものだなと感じたものです。
―― 荒川さんは、我々は松方という鵜匠に操られている鵜みたいなものだったとおっしゃっていました。荒川さんご自身も鵜匠だったんでしょう。
二見 荒川さんの謙遜した言い方だったと思いますね。確かに荒川さんから見れば松方さんは鵜匠であったかも知れませんが、松方さんは方向を定めて行けッと言うけど、細かい調整とかネバネバした問題は全部荒川さんがやっておられました。荒川さんのほかにも、高田さん(亮一氏)、家本さん(潔氏)などそうそうたる方がいらして、結構あやなしてやっておられたという感じでしたね。
―― その荒川さんの下でみっちり経営者としての薫陶をうけてこられたのだから、いい師匠に恵まれたということでしょう。
二見 育てて頂いたと感謝しています。
 考えてみると、上司から見るとひどい社員だったし、親から見るとこういう子は嫌でしょうし、教師としたらこんな生徒はご免こうむりたい。(笑)
 荒川さんから、この会議にあいつは出すな、うるさくてしようがないと言っておられたと聞いて、それじゃ楽でいいやというようなこともありました。それがここまで勤めさせて貰ったのだから、仕合わせであったと感謝しています。
(つづく)


みなさん さようなら

0814 山寺 2002年
           山寺 2002年 (NIKON E880)

2006年1月24日
変化に乗り遅れたコニカミノルタの悲劇

 コニカミノルタのカメラ・フイルムからの撤退は、小西六といった前身時代のセミパールカメラを愛用した筆者にとって、感慨深いものがある。レンズをつけただけの蛇腹式のボデーに手巻きでフイルムを送る装置の原始的な写真機を持って、青年時代には四国巡礼にも出かけた。もちろん白黒フイルムで、自分で現像焼付けをした。総天然色さくらフイルムが登場してからも、月刊誌が単色刷りであったために暫くは白黒写真のままだった。

 月刊誌にカラーで「世界の旅」などを連載することになり、カメラはニコンの一眼レフと、印刷が鮮明に出るリバーサルのフジフイルムをもっぱら愛用することになった。

 ごく初歩のデジカメもニコンだったが、これはホームページ用。月刊誌にデジカメ撮影の写真を掲載するようになったのは、一眼レフに革命を起こしたニコンD70型が登場した一昨年からで、今や、月刊誌にホームページに大活躍の愛用機となった。一眼レフデジカメは、ニコンとキャノンが市場の80%を占めて、わが社でも筆者のニコンと他社員のキャノンに2分されている。老舗名門のコニカとミノルタはこの流れに完全に乗り遅れて撤退するのだが、時勢の変化を読み取れなかった経営陣の責任は大きい。(続く)

9069 ペルー 2005年
                ペルーで撮影の海鳥 2005年 (NIKON D70)

2006年1月26日
「どう撮るか」「何を撮るか」
―被写体をひたすら追って―

 旅行中、携帯電話を片手で操って写真を撮っている人がいる。携帯を使わない筆者は、携帯で写真が撮れるなど知らなかった。デジカメでも片手でかざしてパチパチやっている。軽いし、性能も良くなって補正がかなりきくからだろうが、筆者愛用のニコンD70はデジカメでもかなり重くて、とても片手で扱いきれるものではない。両手でガッシリ構えた昔ながらの撮影方法でないと、シャッターが押せないのである。

 以前は、絞り・シャッタースピードを変えたり濃淡をつけるプラス1とか2とか、ブレ防止の三脚使用など、写真撮影にはそれなりの苦心をはらったものだが、今や使い捨てカメラ、バカチョン安直デジカメ普及で「どう撮るか」でなく「何を撮るか」だけになった。

 被写体を前に講師があれこれ指導する写真教室があって、筆者も参加したことがある。同じ被写体をどうひねくり回しても結果は大同小異、被写体を替えるにしかずと、ひたすら旅の写真を月刊誌やこのページに掲載している。予備のもう1台の軽量ニコンE880に比べると、一眼レフD70は3倍もの重さだが、それだけ画質が違うし、両手で構えるだけのことはある。カメラ歴60年、カメラもメーカーも撮影者気質もずいぶん変わった。

9094 ペルー 2005年




みなさん さようなら

2018.01.29 06:36|「幽冥録」
日野 社長

左: 日野自動車社長 二見富雄氏(1995年11月号NewTRUCK 『社長の軌跡』Photo)
右: 荒川政司元社長の社葬で弔辞を述べる二見氏(1995年3月14日)

2007年1月30日 おはようコラム
恬淡とした人柄だった二見日野自動車元社長逝く

 日野自動車の元社長だった二見富雄さんが、25日に79歳で亡くなられた。肺ガンで長い闘病生活を続けておられたが、その苦しさから解放される日がきたのである。新聞記事では、葬儀は親族だけで行うことになっているようだ。すべてに恬淡としていた二見さんらしい生前からの配慮であるのだろう。

 二見さんは、日野自動車に大きな足跡を遺した荒川政司元社長の秘蔵っ子だった。荒川さんは、厳しい実業人であると同時に、囲碁、連歌、文筆にも玄人はだしの腕を振るった洒脱な風流人の色彩濃厚な人物であった。現在の無味乾燥な実業人とは一味も二味も違った荒川さんの薫陶を受けた二見さんだけに、ご両人は東大出身にもかかわらず秀才肌とは程遠い、味わい深い人柄だった。荒川さんは、秘書役だった二見さんが作った社長としての挨拶や文書を、原型をまったく留めぬまでに書き直した。それなら、ご自分でお書きなったらという二見さんに、文章の練習をさせているのだ、と荒川さんは言ったそうで、荒川さんの社葬で葬儀委員長として弔辞を読んだ二見さんは述懐した。日野には二代続けてトヨタから社長が派遣されている。二見さんを知り弔辞を読める人は日野にはいない。

二見氏 13022

―哀悼の誠―
2007年月刊「NewTRUCK」 3月号
久世恭平 (元日野自動車勤務)

 二見さんが逝去された。平成19年1月25日である。79歳、肺ガンとの3年間の苦闘の末であった。

 氏は狂狷(きょうけん)の人であった。
 孔子曰わく、「中行を得て之にくみせずんば必ずや狂狷か。狂者は進みて取り、狷者はなさざる所有るなり。」(論語・子路第十三」
 これは“中道を歩む人と不幸にして交わることができなければ、必ず狂狷の人を選ぶ。なぜなら、狂者とは高い目標を持ちまっしぐらに進む者であり、狷者とは節操が固く恥を知る者であるから。”と解されている。孔子様はこう断言された。

 二見さんの生き様をささやかながら知る者として、どうしても一言もうしあげたい。
 二見さんは生産、販売団体でも枢要な地位にあった。当社トップは歴代勲二等か勲三等を授与されていたが、事務局から内々の打診があったとき、辞退された。私が“もったいない、頂いておけば良いのに”と、二見さんのお宅で、奥様手作りの料理を楽しみながら口をすべらせたとき、二見さんは“「狂狷」「恭謙」(教育勅語)どちらを取ってもよろしいが、敗軍の将、兵を語らず、だよ久世さん。”と云われた。以来当社トップから叙勲者は出ていない。私はこのようなトップに仕えたことを限りなく誇りに思っている。

 日本の戦後を支えた物流のトラック業界、私は物は動いてこそ価値が生まれると心得ているが、日本を支えてきたトラックメーカー4社は、いずれも内外の巨大メーカーに席巻された。二見さんも苦渋の決断のうえ、全国従業員3万人の生活を担保に巨大メーカーの傘下となったのだろう。

 3年前、著名トラックメーカーM社のリコール隠しの問題が発覚し、7千数百億の損失を計上したとき二見さんは、我がことのようにくやしがっていた。
 “僕はただ愚直に生きてきたつもりだったが、どう思う久世さん”と云われたとき、私はその是非を云えなかった。ただ、この時“狂狷”二見さんは“恥を知る男だ”と、心底思ったのである。

 個人的な思い出はきりがない。ある休日、ふらっと拙宅に訪ねてこられ、二見さんと泥酔したこと。息子さんの若いとき、私と一緒に遊んで、二見邸の2階からご子息が落ちたこと。私の2番目の娘が生まれ、しばらくして伺ったとき、おじちゃん恐いと娘が泣きだし、二見さんが困ったこと。都ホテルのプールの会員で、元気に1日1000m以上泳いでいた二見さん。長いサラリーマン生活の一時の屈折のなかで私が辞表を出そうとしたとき、“うろたえるな”と、本気で怒った二見さん。私が一応、職をまっとうし、“もっと早く去った方がよかったかもしれませんが、ついつい居心地が良くて長居しました。”と申し上げたところ、“いやー、僕もそうだったよ”と明るく笑ってくれた二見さん。
 二見さんは常に狂狷の人であった。病のなか、意気軒昂、自らの信念をまげなかった。亡くなる少し前のお手紙を伝えたい。

 “日本の総理大臣が、孔子の言葉だといって、~世論に反論しました。~その無智丸出しのこわばった態度には恥ずかしさを感じます。孔子さまにしてみれば、我田引水されても、眉毛ひとつ動かすことはないでしょうが。今さら~。
 おたがい一日一日を大切にしていきましょう。小生、イレッサ(肺ガン治療剤)が効いているそうで~”

 私も末期癌の身、体力が保たなくて、お通夜しか出席できなかったが、翌日の葬儀の様子を1時間にわたって電話してくださった、二見さんの若い時の盟友、根本直樹氏(長野在住)、とにかく弔文を書くのは久世さんしかいないと云ってくださった増田周作氏、まっさきにかけつけ泣いたドクター鈴木孝氏、通夜や葬儀に列した伊従正敏氏、竹田晃氏、内田榮二氏、増田亮氏、小林裕氏、私をいつも気づかってくれた同僚昆田眞彦氏、青沼新一氏、増田社長以外いずれもかつての日野の重鎮であるが、私も二見さんと同じように、この頃、「これら多くの方々に生かされている。」と思っている。それから矢野勝氏(西日本ディーゼル代表)からも、貴重なご連絡を頂き、二見さんの想い出を語り合うことができた。

 幽明、界を異にし、もはやお会いすることは出来ないが、ただ、ただ、ご冥福を、衷心よりお祈りするばかりである。合掌




みなさん さようなら

2018.01.25 06:00|外部 寄稿者
前回の記事は今から30年前、1988年1月号のものでした。その更に10年前、登場のギャリー・シェラード氏に会った「第5回呉越会・米国自動車産業視察団」参加者の中に、北海道は帯広の安斎車体製作所の炭谷拓示社長もおられました。「冬の北海道へぜひどうぞ」と題したコラムを当時の炭谷社長が30年前のこの号、1月号に寄稿してくださっています。(妙)

19087 2009年3月

1988年(S63) 月刊 「NewTRUCK」 1月号
冬の北海道へぜひどうぞ 炭谷拓示

 ふた晩寝台車で過ごし、帯広駅に降り立ったのは昭和33年の11月3日、文化の日だった。
 東京の中野で生まれ、育った私にとっての北海道は見るもの、聞くものすべてが珍しく、異国的に映ったものである。
 東京では板塀なり垣根で所有権を主張しているが、こちらでは空き地にポツンと家が建っており、塀も垣根もなく、野菜を作っても境界を気にすることもない。

 よく北海道は大陸的と言われるが、道産子は気持ちがおおらかで、人なつっこく開けっぴろげである。
 会話に敬語を使い礼儀正しく、適当に遠慮をすると、内地人はつき合いにくい、といわれる。言葉遣いをきびしくしこまれた幼児教育もここではまるで通用しなかった。
 北海道は標準語といわれるが、開拓民は各地からの集まりだから結構方言も出る。「ソウダベサ」「ヤッパシ」身体がだるいを「コワイ」女の人でも平気で「ソウカイ」という。しかし、北海道の方言も、空なら羽田から1時間20分の近さ、テレビの普及で急速に薄れつつある。

 帯広のある十勝管内は広大な地域に人口36万人、日本の食糧基地として脚光を浴び、赤ダイヤの小豆、雑穀、畑作、酪農、林業が十勝の経済を支える。
 味覚の点でも、粉がついて皮がはじけたところにバターをつけて頬張ると滅法うまい男爵いもや、名物信州そばのソバ粉は当地から出ているものが多い。新鮮な魚貝もおすすめで道産子が秋味(あきあじ)とよぶ鮭を現地で味わうのも格別。ナマ筋子を一晩醤油に漬けて白飯(しゃり)にかけて食べる。東京でお上品に並んでいる筋子と違って生臭くもなく口の中でプツッとはじける感触は何ともいえない。東京では大嫌いだった筋子が今や大好物になってしまった。

 この十勝も、今や貿易自由化の波は容赦なく押し寄せ、ガットの行方を農民は不安の目で注目している。
 北海道は九州と四国を足して、まだひとつの県が入るほどの、日本の5分の1強の広さでありながら、人口は僅か560万人、同じ広さの内地で11人の知事がいるのに、北海道はたった一人。
 東京は人口過密で地価は暴騰している。竹下首相のふるさと創世論ではないが、この北海道を活性化するには4つか5つかの県に分割し、それぞれの知事や県民が切磋琢磨してゆけば、現在の札幌中心の北海道でなく、それぞれの地域の特性を活かした発展は可能であると考える。

 文化は北に育つ。文化と自然と経済が程良く調和して発展するのに北海道は最適の地である。
 寒さの厳しいところほど紅葉はきれいだというが、本当に秋の紅葉はすばらしい。零下20度の中でも太陽に光る霧氷も北海道ならではのもの。
 北国の良さは冬にあり、イテツク寒さを味わいに一度はおとずれてほしいと思う。 


みなさん さようなら

2018.01.22 05:47|NANDEMO「YOGUS」
1988年(S63) 月刊 「NewTRUCK」 1月号  NANDEMO YOGUS
日米トラックショー会長再会
            国際トラッキングショー責任者Gary Sherrad氏 & 東京トラックショー会長増田

日米トラックショー会長10年ぶりの再会

 「あなたはダラーをいくら持ってる?」そんな失礼な!と一瞬憤然としたが、これはドーター(daughter 娘)の聞き誤り、あちらはTがRの発音のようになり、ウォーターはワラーとなる。
 全米各地に15ものトラッキングショーがあるというが、西部で開くトラッキングショーはその中でも最大規模を誇る。
 サンフランシスコのそれを「呉越会」の皆さんと見学したのは昭和53年の4月、その責任者ギャリー・シェラード(Gary Sherrad)氏をほぼ10年ぶりに訪ねた。
 ギョロリとした目は昔と変わらないが、机上の娘さんの写真などを出して見せたり、筆者に娘や孫のことを聞くなど、和やかな再会だった。

 筆者がトラックショーを決意したのはこのときの見学がきっかけで、昭和55年には大失敗、59年にやっと幕を開けることができたのである。その意味で、彼はトラックショーの恩人の一人に数えてもいい人物だ。
 日本にはまだ行ったことがないので、来年のトラックショーに合わせて妻と共に是非訪日したい、と言う。トラックショーが取り持つ縁というべきだろう。

78 国際トラッキングショー見学
第5回 「呉越会セミナー」 (米国自動車産業視察 1978年 5月8日~27日)
会場2階、各国の旗が林立する中で歓迎のセレモニー 左端がギャリー・シェラード氏




プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学になる。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。
 みなさんさようなら  11月13日 】
絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

人が好き 歴史が好き みなさんようこそ

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

  • ページトップへ
  • ホームへ