みなさん さようなら

2017.08.07 06:00|人に四季あり
(毎週/月曜・木曜 更新)

1989年(H元) 月刊「NewTRUCK」 7月号~8月号 
『人に四季あり』  前田源吾 その⑧

あらゆる爆弾が降る
焼き尽くされて終戦

――(増田) 前田さんが愛知陸運へ入社するきっかけを作ったオヤジこと小西さんが愛陸を退社しますが、合併会社でうまくやってゆけなかったのでしょうか。
前田 小西さんは自他ともに認めた自動車運送業界の第一人者だったが、合併会社の常でそれぞれの派閥があり、ビール会社から来た仲田専務との仲が決裂した。
 小西組から来た者は血の気の多いのが多く、小西さんの復職運動を起こして数名ずつが関係先の家を訪問したのが、徒党を組んだ不穏行動であると誤って特高警察に通報されて、私がその元締めのように思われたらしい。電車に飛び乗って映画館に入ったりして、うまく撒いたと思いきや、ちゃんと尾行している。職業柄とは言いながら、忠実なものだと感心したものです。
―― 昭19年に入ってサイパンが陥落してから本土はB29の飛行爆撃圏内に入ります。軍需工場の多かった名古屋は特にひどくやられたようですね。
前田 19年の年末近くの12月7日、三河大地震があって、沢山の犠牲者が出たし、軍需工場も大きな被害を受けました。
 その余震も治まらない12月13日からの空襲が始まって、特に3月の12日と17日の夜間無差別爆撃で、名古屋市の半分は焼野ヶ原になってしまった。
―― 私は大阪で3月14日の夜間焼夷弾による爆撃を淀川の対岸から見ました。無数の焼夷弾が雨のように落ちて、被弾したB29が赤い焔を引いて落下、間もなく市内は火の海になりました。沢山の人が焼け死んだり、逃げ惑っていたのでしょうが、対岸から見る光景は物凄いまでに美しく、ローマを焼いた暴君ネロの気持ちがわかるような気もしたものです。犠牲者には本当に申し訳ないんですが。
前田 何回もの爆撃でお城も焼け、市内に燃えるものは殆どなくなってしまった。
 愛知陸運の1800坪ばかりの敷地には1坪に1個くらいの割合で、焼夷弾やその他の弾が落下、とうとう伝単(ビラ)の詰まった爆弾型のケースまで降ってきました。
 6月26日、このころになると、敵の方は傍若無人、高射砲の射程内の三千㍍ほどの上空を悠々と飛んで、1㌧爆弾をどんどん落としてくる。
―― ザーッというような物凄いイヤな音がしましたね。
前田 ノモンハンでも、コレヒドールでも、こんなに集中的に爆弾の雨を降らされたところはなかった筈ですが、市民の方も慣れてきて、冷静に観察するようになってきた。正に国民皆兵、常在戦場の日々でした。
―― 沖縄が陥落していよいよ本土決戦が叫ばれるようになりました。
前田 トラック輸送もこのままではいかん、体制立て直しだというので所轄を内務省から陸軍省に移したりしたのだが、もうどうにもならん状況です。
 怒部隊という本土迎撃師団が編成されて、渥美半島に上陸すると予測されたアメリカ軍に備えて、私の住んでいるところ迄も陣地づくりが進められた。
 かつては北極星が真上に見えるような北辺の地で戦ったのに、郷里が決戦場になるとは、と感慨無量だったが、名古屋市の現場と住まいの双方で頑張っていた。
 そこに、8月15日の玉音放送。雑音が入ってよく聞き取れなかったが、忍び難きを忍び、耐え難きを耐え、のところはわかって、ああこれで戦争は終わったのかと、熱いものがあふれました。
―― そして戦後の復興輸送を経て前田さんのトラック人生は新しい展開を見せますね。

親会社消極姿勢30年
飛躍を阻んだ再三の逸機


組合副委員長から
20歳早い重役抜擢

―― 昭和20年8月15日の終戦で軍は解体されて、軍人精神の塊のような前田さんですが、気持ちの上の切替えはすぐできましたか。
前田 ご聖断は出たのだから、耐え難きを耐えて祖国を復興させねばならぬと誓ったものです。張り詰めた気持ちは戦時中と同じだった。そんな時、陸軍中尉が一個分隊ぐらいの兵隊を連れてきて、機関銃で脅しながら、車を出せと言ってきた。何にするんだと聞くと、木曽の山にこもるためだと言う。何言っとるんだ、陛下のご詔勅は下った、国民も辛抱せよ、と言っておられる、車は絶対出さんぞと頑張った。
―― 私にも同じような体験があります。四国善通寺の仮宿舎で終戦を迎えたのですが、すぐ近くに捕虜収容所があって、下士官が襲撃しようと言い出しました。マアマアという説得で中止になったのですが、実行していたら文句なしの戦犯で、命はなかったでしょう。
 しかし、こういう混乱も間もなく治まって、戦後復興に取り組むことになりました。
前田 終戦直後はガソリンやオイルの自動車用の物資が放出され、進駐軍の横流しもあったりして、代燃車は片っ端からガソリン車に戻したのですが、これも一時的なことで、再び代燃車に逆戻りした。
 この頃の風潮で、各職場で一斉に労働組合が結成されて、愛知陸運にも従業員組合ができ、私が副組合長に推された。
 集約会社で部長以上は合併会社の代表者、まして愛陸の親会社は誇り高きビール会社、車両課長以上に昇進することはないと覚悟して、仕事は人一倍やったが、どちらかというと一匹狼で、小西組の残党の頭領のように見られて煙たい存在であったようだ。それが組合を握ることになると五月蠅い存在になりそうなので、役員に選任したい、という考えが仲田社長にはあったらしい。
 その頃、大日本ビール会社の傍系の朝日炭坑でトラックが欲しいと言ってきた。部品や何かを調達して新車を2台組み上げて納車したら、仲田社長から苦情が出た。
 仲田社長と朝日炭坑の山本支店長とは犬猿の仲、役員に推薦してやろうと思っている人間が、その手助けをするとは、ということだろう。「ワシャー情けない」とひと言。
―― 親の心子知らず、ですか。
前田 終戦直後放出されたガソリンもそろそろ底をついてきたので、東京近くの草加の日本代燃器に発注していた20台の代燃器を引き取りにトラックで行った時、ビール会社の目黒工場に寄って傍系会社担当の岡本常務にお会いした。どうやらこれがメンタルテストだったらしく、間もなく開かれた総会で取締役に選任され、営業部長に就任しました。
―― いよいよ名門の愛陸の経営陣に加わったわけですが、逆に言うと苦労を背負い込む第一歩でもあったのでしょう。
前田 ビール会社の傍系の役員は定年近い人間が就任するのが常識になっていたのにまだ34歳で、20年は早いと言われたものです。仲田社長の強い後押しと、岡本常務の判定で実現したのでしょう。
 仲田社長とは随分長いお付き合いで、尊敬していたし、私を頼りにされていたようです。

物資不足の復興輸送
本格的路線事業の台頭

―― 米よこせデモが宮城へ押しかけたり、食糧不足、物資不足が暫く続きました。
前田 配給された燕麦(えんばく)を鶏にやってもケッケッと足で跳ね飛ばして食おうともせん、それを人間に食えというのだから。家でも女房がミシンを踏んで頑張っていた。
―― 少ない食糧ですが、市民にとって命の綱、その輸送は大変だったでしょう。
前田 本格的な自動車生産はまだ先のことで、戦災車両の修理やつぎはぎで凌いでいた。
 三菱重工業大幸工場では自動車の再生をするというのでGHQ(進駐軍司令部)が神経をとがらせて調査に来たものの、戦災でやられた車両2台をやりくりして1台に再生する、というような実情を見て安心して帰ったということも聞きました。
 飛行機を作った高い技術も、寄せ集めの品質がマチマチの部品ではまともな整備はできない。愛陸でも遊休車を15台ほど修理に出したが、使い物にならないのも出てきた。修理費を払え、払わぬで揉めたが、三菱ではトラック生産のきっかけを作って貰った、という記録があるそうです。
 トヨタの方は部品も豊富に持っていたので、比較的順調に車両の再生作業が進んでいた。
 一番不足したのはタイヤで、東海タイヤという会社が全国から中古タイヤを集めて再生していたが、台が悪いんで、エアーを張っただけで蛙の腹のように膨らむのも出る始末。再生タイヤ10本で新品タイヤ1本分持てばいい、という位だった。
 進駐軍の車両の払い下げを受けたのもタイヤが目的で、燃料を食うシャシは使えない。タイヤを外して雨ざらしにしたが、そのうちの10tレッカー車だけは後に大いに役立った。
 まあそういう苦労をしながらも大日本麦酒の名誉にかけてヤミ輸送はやらず、市民の食糧輸送のために車両を優先的に廻したものです。
 昭和23年に愛知県貨物自動車運送組合は解散、愛知県貨物自動車協会が設立され、24年には賠償物資の工作機械などの搬出があり、所轄も内務省から運輸省に移されるなど、業界の戦後処理は大体25年ごろ迄に終わって、愛陸にも25年12月に東京路線の免許が下り、本格的な路線体制へ移っていった。

月賦販売の口火を切る
惜しかった片手五百万

―― 戦後の凄いインフレを押さえるため、アメリカからドッジがやってきて荒療治をしますね。朝鮮動乱で息をつくまで不況の嵐が吹きまくりました。
前田 どこも青息吐息で、新車が出てきてもそれを買う資金がない状態で、ニッサンの車が1200台も雨ざらしになって錆が出ている。
 そこで、懇意にしている人達に「錆びただけ払うという条件で車を使わせないか」と持ちかけたら、そりゃいい、と愛知トヨタに話を持ちかけたが、担当課長は鼻で笑って取り合わない。そこでニッサン側と話をすすめて無利息1年月賦を条件に30両の注文を出した。
 ところが今度は愛知トヨタの上の方が承知しない。ニッサンを撤回してトヨタを入れろと執拗に迫ってくる。今更ニッサンへ断ることもできないんで、金に困っていることでもあり、出資でもあれば話は別だが、と口をすべらしたことから、それじゃ出そういくらだ、これだけと片手を開いて見せたら、よかろうとなった。当時の愛陸の資本金は500万円、そこにトヨタ側から同額が入ったら主権は移ってしまうと心配した仲田社長が、300万円と申し出て了承された。この時に500万円受け入れておけば愛陸のその後の運命は変わったと思うんだが。
―― そうですね、ビール会社の都合にふり廻されて愛陸は随分足踏みしたように見えます。
前田 さてトヨタ側から資本を受け入れるとなると、ニッサンの方には不義理をすることになる。関係者に日参するようにしてお詫びをしてやっと許して戴いた。※
 こんなことはあったものの、1200台の在庫は25年の春頃には全国にさばけていった。おそらく、これがトラックの月賦販売の最初であると思います。
(つづく)

※ 前田氏のご本から転載 
 「さて、トヨタの出資を受けるとなると、立場のないのは私である。まず当事者の松下氏と渡辺氏にこの数日間の経過を詳細に話したところ、渡辺氏(通称ナベさん)は兵隊検査の時知立で一緒に毎晩のように遊んだ仲。「前田君、君がそうしてザックバランに話をしてくれたので君の立場もよく判った。君は若いからまだ先が長い。我々の事は考えなくともよい。そうする事によって愛陸が展開して行く事であるなら、わしと松ちゃんは了承するから上の方へは礼を尽くせ」とアッサリ下りてくれた。社長の柴山乙彦氏、販売部長の足立幹二氏に一切を申出たところ、温厚な柴山社長に烈火の如く怒られた。今日もお伺いして坊主になって来るべきところだけれどもと、お許しを請うた。そのころ特高を追放され、総務部長をしておられたのが川村要作氏(現愛知日野会長)。30年以上親交を願っているが、そのころは大きな目をしたこわい男という感じしかなかった。1ヵ月近くも毎日のようにお詫びのためにニッサンへ日参した。柴山社長さんは立派な方、「これ以上貴方を苦しめるに忍びない。今日から一切をあきらめます」と無罪放免して頂いた。足立さんも何年かのち小西さんの経営したシボレーの代理店の専務をやられ、今日もアシダ商会の代表者でダンロップタイヤーの関係でお取引願っている。一番胸を撫で下ろして喜んでくれたのは渡辺、松下両氏だった。友人は有り難い。これで一件落着。」
(「輸送に生きた五十五年 私の奉公袋」より 第7章・ 終戦と復興輸送/第2節・ 戦後の試練 部分)



みなさん さようなら

2017.08.03 06:31|人に四季あり
1989年(H元) 月刊「NewTRUCK」 7月号 
『人に四季あり』  前田源吾 その⑦

足りぬ物資と集約失敗 過酷な条件下の決戦輸送

第一次集約の会社に
兄から離れて新出発

――(増田) 「子供を作りに」昭和15年9月、中国の漢口から日本へ帰された前田さんですが、つい先日、その漢口へ行って東湖の対岸にある武漢大学を見て、あのあたりに前田さんのいた宿舎があったのかと思ったものです。
 翌年には太平洋戦争が始まります。不思議に前田さんは招集されずに終戦を迎えますね。
前田 一緒に帰ったうちの80%ぐらいは「関特演」の特別招集で満州に集められて、それから南方に派遣されて苦労した人は多かった。私は軍需品の輸送に従事する要員ということで、招集を免除されていたと思います。
―― 前田さんが帰国された昭和15年は陸運統制令の発令があって、第一次戦時統合でトラック企業の集約が行われていた時です。
前田 大体ひとつの警察署管内、なかには2つ3つの署にわたって集約した場合もあって、車両台数は30台から50台位の規模だった。
 応召したとき持っていた38式のシボレーは徴発されたあと、兄が1年古い37式シボレーを私のために買ってくれていたのだが、ナンバーがない。
 どうも兄が豊川の海軍工廠(しょう)へ所轄外の仕事に行っていることで警察署の担当がツムジを曲げて交付しなかったらしい。
 ところが、そこの署長さんの娘が私の中隊長のお嫁さんになっていて、言付かったお土産などを署長官舎に持参してあれこれお話をしたあと、車検証がおりないので仕事ができないとお話すると、すぐ担当を呼んで「永年ご奉公して帰郷したのだからすぐ手続きをしてやれ」のツルの一声で翌日にはナンバーがおりた。
 ちょうど第一次集約の真っ最中で兄も参加して三栄組を中心に興亜運輸という集約会社ができた。
 役職も決まっていて、軍隊帰りの私の椅子がない、暫く車に乗っていてくれ、というのでラッパの尻(ケツ)押しをすることになった。
 この興亜運輸の専務の斉藤清さんは後に愛知県タクシー協会長になった人だが、招集されてフィリピンで苦労した。A級戦犯で処刑された東条さんなどの遺骨を祀った三ヶ根山の七士の碑の傍らに比島観音を建立した中心人物です。
―― 兵隊に行って苦労した人より軍隊を知らない人の方が軍国主義反対とか何とか叫んでいます。生命を捨てて、国のため、社会のために尽くすのは尊いことだと思うんですが。
前田 一国一城の主のような人が集まっている集約会社で何時までラッパの尻押しをしていても仕方がない。兄の義雄は興亜運輸の車両担当の役員をしていたので、私が側にいると心強いようだったが、思い切って兄弟別々になることを考えて昭和15年の年末にその決意を打ち明けた。
 兄弟一緒だと、何かあった時に二人とも駄目になる、別々におればどちらかは助かって手を差し伸べることができるだろう。
 兄が大石義(良)雄で、こっちは大高源源吾(五)、忠臣蔵みたいなもんだが、仲は良かったですよ。
 兄はトラックから離れて岡崎で工場を三つほどやっていた。私が愛知県のトラック協会会長になった時、しっかりやれと激励してくれました。
―― いい話ですね。
前田 兄と話し合った後、昭和16年の早々、先に除隊になっていた小西のオヤジ(与吉氏)を訪ねたら、なぜ早く来なかった、ということで、第一次集約会社として存続していた小西組運輸(株)に勤務することになった。
 この時が、誰をも頼らず自分自身の決断で世の中を渡ってゆく人生の、本当のスタートであったような気がします。

人も車もひどい状態
失敗だった企業集約

―― 昭和16年12月、太平洋戦争に突入していよいよ戦時色が濃くなり、第一次に続いて第二次集約が実施されますね。
前田 昭和18年3月末日を期限に名古屋市内が4地区、郡部は大体警察署単位で、22社の集約会社と中部トラクターを含めて、愛知県は23社の体制になった。
 都市部の会社は大体150~200両、郡部は60~100両程度の規模だった。
 その前に、大日本麦酒が名古屋操車を買収して愛知陸運と名称変更、私のいた小西組運輸などを吸収して第二次集約会社の一社になった。私は小西組運輸の常務から新会社の車両課長になったんだが、部長以上の役職はすべて合併会社の代表者、昇格出世など一切望まずに怖いものなしで頑張ろうと決心したものです。
 ところが年長者は、まず抹茶を一服、という有様。50歳代から60歳代の人だし、親会社は格調の高いビール会社、給料はチャンとくれるというのだから無理もない。
 若いのは兵隊や徴用にとられるし、トラックの方も200台あったうち実際に稼働できるのは3分の1、あとの3分の1は部品も外されて、トラックの形としているだけという状態です。
―― 人もトラックもひどいものですな、そんな状態では軍需品の輸送も円滑にゆかなかったのでは。
前田 弾丸(たま)が前線に届かない。人もトラックも燃料・部品も不足している中で、無駄なことばかりやっていた。第二次集約は明らかに失敗でした。第一次の30~50両で止めておけばよかったものを、150~200両にしたのがいけなかった。敗戦間近になってやっとそのことがわかった有様です。
―― 経済行動を国家が統制するのは難しいですね。社会主義の経済がうまくゆかないのもそこに原因があるのですが。
前田 ガソリンも割当になっていて、一応登録してある200台分の配給はある。その分を3分の1の稼働車両に割り振っても1日1台当たり3ガロン、10㍑位にしかならん、これで走れるのは35~40km、いきおい代用燃料ということになって、使えそうなのは何でも使ってみた。
 アセチレン、木炭、マキ、石炭、コーライトなどだが、初めのうちは燃焼効率が悪くて随分苦労させられた。後には効率の良い薪ガス発生炉が考案されたのですが、そのマキの確保も大変で、会社ごとに山林を買ったり、山の闊葉樹林は殆ど姿を消した。今でも旅行していて、燃料に使い頃の樹林あるなぁ、と思ったりします。
―― 乗用車は木炭、トラックはマキが多かったようですね。第2回のトラックショーでは代燃トラックを実際に走らせましたが、年輩の方は懐かしかったようです。
 一方、アメリカでは同じ頃に年間20万台という史上空前のトレーラを生産して、ヨーロッパと極東戦線への軍需品輸送に大車輪の活躍をしている。兵力の差以上に輸送力の違いは大きかったですね。

あわや売国非国民に
悲惨な統制の犠牲者

前田 燃料のことについては、どうしても忘れられない出来事がある。
 燃料そのものは代替品があって何とかなったが、一番困ったのが潤滑油。魚油のようなものの配給はあったが、クランクケース内で凝結して使い物にならない。
 どうにもならなくなって、愛知県の経済警察の方に今後の見通しなど聞いてみても、さっぱりわからんという返事だった。
 愛知陸運と同じような第二次集約会社の名古屋貨物に足立俊一さんという早稲田出身の車両課長がいた。この足立さんの弟で日本硝子の資材係をしていた氏家さんからの話として、日本硝子には機械油の配給があるが、陶器会社なので要らない、アルコールと交換して貰えないかと持ちかけられた。
 当時はガソリンよりアルコールの方の配給が多くて、手持ちも相当にあったものだから渡りに船と公定価格で交換した。ここで、なにがしかを懐へいれていたら大変だが、それは全くなかった。
 機械油は濃度は薄いが、潤滑油と混合すれば十分使えると思ったのも糠喜びで、真夏の暑いさなかに経済警察からの呼び出しだ。
 全くの犯罪者扱いで、調べている巡査部長は扇子を使っているのに、こちらは国民服のホックを外しただけで怒鳴られる。
 潤滑油がなければトラックは止まる、公定価格でアルコールとオイルの交換をしたまでで、やましいことはない、と申し立てても「とかなんとか言いやがって貴様も同じ穴の狢(むじな)であろう」と脅してくる。
 3日間取り調べて、調書を作って「私の行為は売国奴で非国民である」と認めて自署押印をせよと迫る。
―― ひと一倍愛国心の強い前田さんに売国的行為とか非国民とは、相手が悪かったですな。
前田 とんでもない話だ、軍人であった時と同じく今も愛国の赤い血が燃え続けている、腹を開いて見せてやりたいぐらいだ、と言っても、何としても自認せよ、できないならまた明日出直して来い、となった。
 翌日、出頭してまた同じ事を繰り返していると、巡査部長の様子がおかしくなってきた。聞いてみると召集令状が来たという。階級は補充兵で、未教育との返事だ。そこで言ってやった。
 軍隊はメンコの数やら日数やらという。メンコとはアルミの食器のことで、同じ階級でもメンコの数がものをいう。私は軍曹の一等級で、5年余り兵営や野戦の飯を食ってきた。あなたもビンタや早駈け、腕立てをどれ位やらされるか、よく味わってくれ、と言ったら、そんな気持ちの悪いことを言ってくれるな。(笑)
―― 攻守ところを変えた感じですな、スッとしたでしょう。
前田 気持ちが良かろうと悪かろうと、帝国陸軍はあなたひとりを例外にすることはできない。お世話になったついでに一つだけ要領を教えて上げる。ビンタを取られる時には逃げないで両足を踏ん張って相手の殴り易いように顎を突き出してゆく、そうすると5つのところは3つに、3つのところは2つになる。
―― 教えているのか、脅しているのか。(笑)
前田 これで売国奴にも非国民にもならずにすんだ。
 気の毒だったのは一方の当事者の足立さんで、徹底的に締め上げられて、取り調べ中に靴で向こう臑(ずね)を蹴られ真っ赤に血だらけになっていたらしい。
 足立さんは福知山線沿線の銀行の頭取をしていたほどのいい家の出で、当時の運送業界では珍しい大学出のインテリだった。丁度その頃、息子さんが陸軍幼年学校を受験していて、経済事犯で父親が被告になっては悪い結果を及ぼすのではないか、と心配したものか、未決仮釈放で帰郷の時に鉄道自殺しました。
 あと1年すれば、戦争も終わっていたのに、貴重な人材を失ったものです。
―― 戦争にはいろいろな犠牲者が出ますが、一番悲惨な例ですね。インテリだけに、余計に悩んだし弱かったんでしょうか。取り調べた部長のその後は。
前田 無事に生きて帰って、どこかの警察署長になったという話は聞きました。ところが名前はどうしても思い出せない。
(つづく)


みなさん さようなら

2017.07.31 06:00|人に四季あり
今回の前田氏のお話の最後部分に「落雀の候」の言葉が出てきます。漢口がどれほど暑かったのか、氏のご本からこの1項全文を対談下に掲載しました。「落雀…」の話をここに転載するためご著書「輸送に生きた五十五年」を開いて見てビックリ。「書き始めてから脱稿するまでに3年有余…」。初版発行の翌年には改訂版が発行されています。精魂込めて膨大な資料をこの1冊にまとめられた文章を前に、すぐには入力作業に入れず、しばらくはあちこち拾い読みしてしまいました。どこかで「輸送に生きた……」を見かけましたら、是非手に入れられることをお勧めします。(妙)


1989年(H元) 月刊「NewTRUCK」 6月号 
『人に四季あり』  前田源吾 その⑥

凄絶ノモンハン事件
空の活躍、陸の悲劇

――(増田) ノモンハン事件ですね。
 前田さんのご本の中でも、この部分は貴重なノモンハン事件のドキュメントですし、自動車班といういわば縁の下の力持ち的な存在から見た他に例を見ない事件の側面史でもあります。いろいろな戦史が書かれていますが、その中に加えられていい記録だと思います。
 実は私の尊敬する住友生命保険の名誉会長としておられる新井正明さんが、この事件で重傷を負って右足を切断しています。最近、新井さんが「古教心を照らす」というご本をお出しになって、その冒頭の部分にノモンハン事件での負傷のことが出てきます。すごい戦闘であったようですね。
前田 新井さんには何度かお会いしてしています。立派な方で、愛知県トラック年金基金でも保険の件でお世話になりました。大腿部を切断してよく生きておられた。難波という曹長は撃たれて2時間で病院に収容されたが、翌日には亡くなっている。弾丸(たま)がビュンビュン飛んできて、負傷者を収容する作業がなかなか出来なかった。そういう状況の中でよく生きておられたと思います。
―― 新井さんをご存じでしたか。私の尊敬するお二人が同じようにノモンハンの戦闘に参加しておられて、そしてお知り合いだったというのは、大きなご縁を感じます。
 前田さんは飛行場大隊の自動車班長としておられた関係上、記録は空中戦闘とその地上援護の自動車隊の活躍に重点が置かれていますが、叩き落としても叩き落としても、新手のソ連機は増強されて見方の未帰還機が一機またまた一機と増えてゆく記述には思わず目頭が熱くなります。
前田 “散る桜、残る桜も散る桜”で、今日首尾良く敵機を撃墜して帰還しても、翌日は生還する保証は何もない。
 最終的には撃墜した敵機数の合計は1,101機、味方はその十分の一弱の90機だが、当初の編成の航空機の殆どと、戦闘機操縦者の大半を失ったことになり、ノモンハンで生き残っても、大東亜戦争で犠牲になり、終戦まで生存した人は教育など後方勤務となった者を除けば、極めて少ない。
 それでも、飛行部隊はまだ優秀な性能の航空機に恵まれて華々しく戦い、大きな戦果を挙げたが、地上部隊は粗末な装備で、あの大平原を徒歩で行進、優勢な敵戦車の蹂躙(じゅうりん)のままに、部隊全滅という悲劇を繰り返しました。
―― ノモンハン事件というのは一体何だったのか、何の為に大きな犠牲を出して戦わねばならなかったのか、と思いますね。
前田 当時の満州と、ソ連・外蒙古の国境紛争ということですが、それ迄にも小競り合いのようなものがあった。しかし、それほど大きな戦略拠点というわけでもなかった。
―― 幕切れも妙なものでした。日本とドイツが手を組んでソ連を挟み撃ちするのではないか、というソ連の不安を利用してドイツがいわばノモンハン事件をダシにして独ソ不可侵条約を結んだことで平沼内閣は退陣、ドイツはポーランドを急襲して第二次大戦の幕開けになります。
 ノモンハン事件は、軍隊の機械化の立ち後れなど、様々な教訓を残したのに、大東亜戦争はその教訓を生かすことができなかった。時期的に間に合わなかったと言えるかも知れませんが。
前田 民間で製造していた航空機は世界水準に達していたが、歩兵砲以下の小型兵器はてんで問題にならなかった。明治38年製の38式歩兵銃を最後まで使用していた。民間で製作させたら、軽量高性能の自動銃がいくらでも開発された筈です。
―― 私達の中学教練には38式より前の明治初年の村田銃をまだ使用していました。こうなると、兵器というより、銃剣術の柄のようなものでした。
前田 ノモンハンで航空機の故障で戦線を離脱したものはなかったが機関銃の故障で帰還する機は実に多かった。戦争責任を論じる場合、38式銃を最後まで使わせた事にもっと目を向けるべきだと思います。

百年戦争を覚悟して
民族保存の為の帰還

―― ノモンハン事件が終結した後、中支の漢口に派遣されますね。
前田 ソ連空軍健在なりの意思表示のつもりか、昭和14年10月の中旬、エスペー機が漢口を爆撃した。ノモンハンで活躍した飛行隊がそれに対抗するため急遽派遣されることになり、自動車分隊もトラックや共に漢口に向かった。
―― 漢口では、ソ連機の来来襲もなく、比較的平穏だったようですね。大東亜戦争の始まる前で、大陸戦線は膠着した形ですが、暑さには閉口したらしいですな。
前田 ※落雀の候、という時候見舞いがあるが、本当に雀が目を廻して落ちてきたのを目撃しました。
 漢口には1年足らずいて、翌昭和15年9月除隊となり、内地に帰還しました。
 その時、漢口の埠頭で隊長から「この戦争は百年戦争と聞く。諸子を内地に帰還させるのは、長期戦に備えて子供を作るためだ。早く大和撫子を嫁に貰って、子供を産んで貰って、すぐまた出て来るのだ」という訓示があった。
 要するに種付けに帰されたわけで、「関特演」という関東軍の大道員で、それもできないまま再び招集された者も多い。
―― 前田さんは戦争遂行に必要な輸送要員ということで、内地で活躍します。戦中戦後のご奮闘は次回でお伺いします。
(つづく)

※ 落雀の候
 支那には拝啓時下落雀の候と相成りという前文がある。5月初旬には水泳が始まるくらいで、湿度が高いので苦しい。従って病人も続出、5月中旬南京分遣隊に腸チブス、パラチブス発生、15名入院。自動車分隊の佐々木(誠)、大矢等重態。武昌の小隊では小泉一等兵が虫様突起炎で入院、心臓脚気を併発重体。初年兵の葛生、加藤(正)、島田、練尾、川原の6名入院。次第に暑気加わり、練兵休患者も続出するので、これを防ぐために飛行場の作業を午前中だけとし、午後は日陰で午睡または休務するようにした。これにより、入院患者は後を絶った。
 ハルピンの留守隊では、超チブスが各隊で発生し、我が隊でも60%が罹病した。真面目で、野口戦隊長お気に入りだった加瀬上等兵はあまり強健ではなかったので、慣れた原隊の方がよかろうと思って留守隊に復帰させたのが、仇となり、6月23日に死亡の報が入る。津村少尉殿、小西上等兵、正木貞次郎他が死亡し、鈴久名上等兵の降等、事故悪病流行、どこが安全なのか判らない。従弟の徹も兵站(へいたん)自動車隊で岳州方面に出勤中病を得て、後送され武昌兵站病院に入院する。
 6月下旬、武昌宿舎入口付近の田圃の稲は20~30cm伸びると稲穂を出す。水がなくて植え付けのできない田は次の雨を待って田植えをする、2回穫れても内地の半分も収穫はないようだ。
 7月1日から気温は急に上昇、最高華氏110度=摂氏43.3度。夜の室内温度93度=摂氏43.3度。昼間の温度はまだまだ何とか凌げるが、午後から風がバッタリ止まると急にムーッとむし返してくる。特に我々は3階に居たから屋根からの暑気が加わり、汗がネトネトと出て耐えられない。
 飛行場では滑走路の上を吹いてくる風は炎のようで、太陽の光線は強く顔をそむけさせる。連日の猛暑続き。7月7日は事変第3周年記念。正午を期して靖国神社の戦没将兵の霊に対して一分間の黙祷を捧げる。この日の日光直射123度=50.5度。雀はこの数週、口を開き、羽根を下げて肩で息をするようにして日陰から日陰へとあえぎあえぎ移動している。
 今日は格納庫に止まっていた雀が2羽、暑さの為に目を回してバタバタと落ちてきて目をパチクリして身動きできないでいた。「これをくわえた猫が舌をやけどした」と笑い話が出たが、満州では寒気で小便が棒になるというのと同じで、それ程ではないにしても暑さには雀が一番弱い。落雀の候とは名のみかと思ったのに事実雀の落ちるのを何回も見た。武漢は世界の三大酷暑地の一つに数えられ、印度人が印度に避暑に帰るというくらいである。武昌には未だ緑があるから幾分よいが、漢口は煉瓦とアスファルト、武昌よりは数度高い。一度漢口に外出すると股の付近はあせもで真赤になる。宿舎に帰れば部隊長も兵も全裸。越中一本に下駄ばき。ヘルメットをかぶって線内ならどこに行ってもよい。
 7月8日、直射134度=56.6度。概ねこの前後が最高気温のようで、夜に入っても96度=35.55度。暑さのために一睡もできない夜が4~5夜あり、湿度が96%もあり暑いというより苦しい。ウーウーとうなっているうちに東の空が明るくなる頃うとうとと2時間ほど眠る夜が1週間ぐらいある。その次が内地の夏の暑さぐらいで、10日余りは何ともならない。日朝点呼を取る頃はいちばん涼しい時であるが、そんな時でも脇の下から汗がにじみ出てくる。付近の松林から鶯がホーホケキョと、日本語で鳴いているとどうなっているのか気が遠くなるような思いである。鶯の鳴く頃は梅の花咲く頃と思っているのに全くおかしくなってくる。湿度は96%、こうなると日陰にいても、外にいても、高いところも低いところも同じ暑さだ。この暑さを防ぐ方法は一つよりない。3尺腰掛を背にして両足を下につけ、両手を頭の上で組むと者に接しているのは足の裏と背筋だけ。この姿勢が体温の放熱面が一番広いことになる。動かすと暑くなる。ジーッとこらえて静かにしておれば、どんな暑さにも耐えられることを悟った。戦争というものは有り難いことだ。零下30度、眉毛の凍る北満の露営、風雨に晒されたノモンハンの100余日。ここに来て落雀の暑さと、現役時代にあれだけ痛めつけられた体であるが、状況の悪い時には不思議と体の調子がよく、今日まで耐え抜いて来た。夜は東湖の水浴が許されているのでよく泳ぎに行った。飛込み台から水深3m余、犬かきで潜って行って底に手が着いても水は温かい。
 8月に入ってからは室内温度90度=32.2度以下。時々暑さがぶり返すが7月のような事はない。8月6日宣昌作戦派遣隊の出発。9月下旬から秋風が立ち、気候も内地とあまり変わらない。夜、宿舎の窓から外を眺め、耳を澄ましていると虫の音が聞こえてくる。一色、二色、三色と数えて行くと、7~8種類くらいまでは数えられるが、それ以上は混乱して判らない。とにかく虫の種類が多く、吸い込まれて行くような感じがする。武漢の地は暑くて我慢できない。今年こそは他に移ろう、と毎年口癖のようにいっていても、秋は永い。そうして短い冬が過ぎると、永い春を迎え、この地が去れないという。
(「輸送に生きた五十五年 私の奉公袋」より 第5章・ 戦争と貨物自動車/第5節・ 中支派遣/ 落雀の候 全文)



みなさん さようなら

2017.07.27 04:39|人に四季あり
1989年(H元) 月刊「NewTRUCK」 6月号 
 『人に四季あり』  前田源吾 その⑤

20年史の始めと終わり
記念行事を前の対談

(対談は4月17日午後1時から東京丸の内日本工業倶楽部の一室で行われた。3時からは本誌20周年記念講演祝賀会が予定されており、その直前の取材である。)

――(増田)このあと、20周年記念行事が始まります。20年の歴史の中で最初に取材したお相手が前田さんで、最後がまた前田さん。
……
前田 つい先日、四国88ヶ所巡拝で、増田さんの故郷の土佐へ行ってきました。日本一の清流の四万十川の側を通って、足摺岬から船で土佐湾を横断して帰ったのですが、増田さんの故郷はまだ西の方ということだった。
 東海道、中山道、若い時には四国88ヶ所を歩き、「トラックショー」を単独主催した増田さんのエネルギーはどこから出てきたのだろうか、と土佐の海を見ながら考えたものです。
―― 時々故郷に帰って土佐の海を見ると、何か勇気づけられるものがありますね。無我夢中で20年頑張って、前田さんとお話ししたあと記念行事に臨むことが出来るのは感無量です。

計数管理による自車持込運行でひと財産
―― 前回は、病気のため現役免除になって、暫く療養の後、トラック持ち込みで、名古屋―大阪間の輸送に活躍する所まででした。特に申し合わせたわけでもないのに、運転手仲間には不文律のルールのようなものがあったようですね。
前田 大体、午後9時過ぎから12時前にかけて出発する。道はまだ砂利道で、路肩に寄れば必ずはまってしまう。路幅が狭いので、どの地点で上り下りのどちらの車が待機するか、ということが自然に決められていた。
 その地点にさしかかって、ヘッドランプで相手に信号を送って、相手が消せば待機していることになり、そのまま直進する。
 ところが、ヘッドランプの信号を無視してそのまま突っ込んでくる車がある。これはトーシローで定期便じゃない、こちらはちょっと手前で待っていると、くりから紋紋の刺青をした大男が手カギなんか持って降りてきて、“退がれ”と大声で怒鳴る。こちらは静かに、退がっても待機する場所はない、などと言っている間に後続の車が追いついて、何だ何だとポカポカ喧嘩が始まる。そのうちの一人が相手の車に飛び乗って、左にバックさせて溝へ突き落としてしまう。こうなると、喧嘩どころじゃない、相手がモタモタしている間にさっと通り抜けてしまう。(笑)
―― 大変な荒療治ですが、いっぺんで懲りて、次からはちゃんと待機するでしょうな。規則、通達なんかよりよっぽど効き目あります。
前田 運転手同士も、トラック業者間も、自然の秩序のようなものが出来上がっていて、協調してやったものです。傭車でも絶対にピンハネしない、車の貸し借りだけ、申し合わせ事項はよく守られた。
―― 計数管理はかなり徹底してやってますね。
前田 当時はまだまだ計数の観念は発達していなくて、ひたすら沢山積んで走るのが普通だった。
 トラック持ち込みで仕事をする前、入社した小西組運送で車両係を半年ほどやって、その時に徹底して車両統計を取った。
 昭和11年ごろの名古屋―大阪間の一車当たりの運賃は133インチのショート車で45円、157インチのロング車で55円、この比較をしたところ、ロング車では1回当たり10円、月に13回半から14回往復するからロング車の方が100円も有利だ、ということがわかってきた。
 また、会社持ちの車と持ち込みの車を比較すると、会社持ち車は月々平均40円ほどの赤字であるのに、持ち込みの分は黒字になっている。
―― そういうデータをベースに、36年式のシボレーロングシャシを買って実際に名阪を運行したわけですが、結果はどうでした。
前田 給料を貰った上に、小学校の校長の2ヶ月分くらいの100円ほどの純益が入ってきた。車両の消耗量より月賦の支払いの方が多いんで、その差額もあって、昭和13年8月の招集までの2年3ヵ月の間に田舎でのことだがひと財産作って、「源吾は万金(まんがね)を持っている」と言われたりした。昭和17年に一緒になった嫁さんが貯金通帳を見てびっくりしたものです。
―― 道楽もせんようになっていたから、自然に蓄まったんでしょう。それにしても大したもので、会社持ちと自分の車ではそれだけの差が出るものですか。
前田 これは車の性能は格段に良くなった現在でも同じで、大事に使う自分の車と、会社の車に乗るのとは全然違う。
 個人償却性などが言われるのはそこに原因があるわけですが、行政改革で規制緩和ということになっても、この考えは一層必要になる筈です。
 運行コストが高いということはそれだけ荷主に負担を要求するわけで、社会的にみても安全性という点からも、会社もいいし、運転手も良くなる、という制度は取り入れるべきです。白トラ、名義貸しというような方法でなくても適法で対応できる道はある筈だと思いますね。

前田軍曹の大喝一番
軍上層決定を覆す

―― 小西組運送で働いているうちに昭和12年7月に志那事変が勃発、東亜の風雲は慌ただしくなって、翌13年8月には臨時召集令状で再び軍隊に入ることになります。
 前田さんの著書「輸送に生きる五十五年」のサブタイトルは「私の奉公袋」です。この時に奉公袋ひとつで入隊してから後の前田さんは自分の生活だけの目的で働くことはなくなりますね。国のため、社会のため、業界のため、会社のためにという奉公の誠心で貫いてこられた。その大きな転機が26歳の入隊の時だと思います。
 この入隊は小西組の小西与吉氏も一緒だったそうで、この小西という人は実に面白い人物ですね。
前田 満州へ出発する前に家族との面会があったんだが、午前中奥さんが来た時にソワソワして、早く帰れといったそぶりをする。後で二号さんがやってくるからなんだ。またその後に、若い女学校を出たばかりのような黒づくめの洋装の麗人が現れたのにはびっくりした。二号さんまでは知っていたが、まさかこんな若い三号がいたとは。この人は早く死んだようです。
―― とんだ濡れ場です。その小西さんが関釜連絡船でボーイにチップをはずんで一等船室におさまり、前田さんも呼ばれてその部屋で眠ることになりますね。
前田 入れられた船倉は大変な暑さだし、スクリューの音がガンガン響いてたまらん、一等船室でバスを使い、浴衣に着替えて羽布団で目が覚めると釜山、急いで船倉に戻ると持主がない上着と軍装品がある、玄界灘にドボンしたと噂しているのもある始末。
―― 二人ともいい度胸をしていますね。ハルピンの飛行第22飛行場大隊の自動車班長として、それ迄の体験を生かした前田さんの活躍が始まりますが、その中でのハイライトは、高い位置にある貨車の上のトラックを引き下ろした一件です。
前田 前線へ応急に派兵するという想定で列車にトラックや資材を積んで出発したんだが、貨車のトラックが降ろせそうにないので、演習取り止め、情況中止という命令が出た。
 住民はわれわれに好意を有せず、という想定の中で情況中止とは何事か、と大声で繰り返し怒鳴った。その声を聞いて中尉が駆けつけて「どうした」と聞くから「戦争なら負けだと言っているのです」「この高い位置の貨車から車は降ろせないということで中止は決定された。お前に方法はあるのか」「あります」「どうしてやる」「それを聞くならいやだ。任せてくれれば50分で降ろしてみせる」というやり取りがあって、その結果、前田に任せようということになった。
 そこで、部隊が提供した150名ばかりの兵を指揮して、枕木を井桁に組み上げ、その上に携行木板を敷いて誘導路を作り、第一号車は班長自身が運転して降ろした後は、練習の意味もあって初年兵に運転させて無事に作業は修了した。
 軍隊というのは完全な上意下達方式で、兵団長以下が決定したことを下士官の意見具申で変更するなどあり得ない。
 その時はスーッとしたが、どうして情況中止の決定が引っ繰り返ったのか、時に不審に思っていたことが、ずっと後の昭和55年になって現役時代の戦友会「飛一会」の席上、兄も私もお世話になって、この演習の直前お会いした片山大尉の写真を持参した男がいたことで、私なりにひとつの解答を見出すことができました。
 片山大尉は演習当時、飛行団の副官をしており、中尉が前田がこれこれ言っていると報告した時に「あの男なら必ずやり通します」と助言して戴いたに違いない。
 兵団の決定を引っ繰り返したこの前田軍曹の大喝は、私の軍隊生活の中でもその後の社会生活の中でも一番晴れがましいシーンの筈なのに、こういう夢は全然見ない。出てくるのは軍隊でバチ廻されている夢ばかりです。
―― そうですか。私も新聞社を辞めて、もう一ぺん復職している夢をよく見ます。現実には戻ろうと思ったことは一度もないのですが、その後の生活が苦しかったから、そこから逃げる夢をみるんでしょう。不思議に、いい時の夢は見ないものですね。
 前田さんも、ウーズレーのトラックを盗んで脱走する夢を見たことがある、とおっしゃってましたが、その時の情況が苦しいと、現実には考えたこともない逃避の夢を見るのかも知れません。
 まあ、そういう夢を見ないですめば幸せですが。
前田 その後の実際の生活ではあまりいい夢は見ていません。
 この演習が終わってすぐ、今度は本当の戦争に移った。
(つづく)



みなさん さようなら

2017.07.24 06:00|人に四季あり
1989年(H元) 月刊「NewTRUCK」 5月号 
 『人に四季あり』  前田源吾 その④

現免でさびしく故郷に 
体力回復再び自動車に

――(増田) 前田さんの現役兵当時は病気などのご難続きだったのですが、それに耐えた2年半は後年の前田さんの人間形成に大きな役割を果たした大事な時期であった、ということができますね。
前田 人に支配されず、支配せず、わが道を往く、という奔放な精神が初年兵で鍛え直され、2年兵では人を指導する立場になって、筋を通す、誠心を基にするということを信条とする人間に改造されたのはこの2年半です。
 当時は現免になった者は2年ぐらいしか生きられない、とも言われていて、人生25年を覚悟しなければならない、我を折り、自動車から離れ、摂生をすることを誓った。
―― 病気や事業の失敗などの挫折は人間を鍛える最良の薬ですね。小学校までは病弱だった私ですが、それから以後は全く病気知らず、その代わり事業の失敗は人に負けないほどあります。前田さんにもお世話になっている「トラックショー」も、始めは大失敗で苦杯を嘗めました。
前田 入隊の時は派手な見送りだったのに、現免となると淋しいもので、世に憚るようにひっそりと家に帰って、暫くは静養していました。家の近くの岩ヶ池まで行って、腰を下ろして自然を眺める。この時はつらかった。
 それでも秋風が吹くようになると体力も回復してきて、兄の入っていた小西組運輸から声がかかって入社しました。
―― ここで車両管理を暫くやって自前の車を持つことになるのですが、当時の車は今と較べて随分高かったようで。
前田 1936年式シボレーロングシャシが昭和11年5月の価格で3,275円。そのうち2,000円は12ヶ月の月賦で支払うので、残りの1,275円を調達しなければならない。
 父親から分け前として貰ってあった田圃が1,000坪ほどあるのでこれを処分して頭金を作ろうとしたら、一旦売った田畑が元に戻った例はない、と叔母達から待ったがかかった。それをやっと説得して、1,300円ほどの金を作って車を買った。
 この土地が今ではおそらく1億2,000万円ほどする、それで車の頭金だけだから、当時の車は随分高かったものです。
―― 今は、車も安くなっているし、簡単に月賦も組めますから、トラック事業は誰でも開業できますが、当時はひと財産を投げ出さないと、トラック1台買えない。そういう時代に20歳そこそこで挑戦した勇気と決断に敬服します。
前田 頭金を支払ったあとの2,000円の12ヶ月返済金が元利共で毎月198円、普通の月給取りが50円から60円の頃ですから、これを返すのに昼夜兼行で働いた。布団の中で足を伸ばして寝るのは月に2回か3回、あとは荷物の積みおろしの合間や走行中の一時停車の仮眠、よく体が続いたものです。

名阪トラックの日々 
中山道東海道の比較

―― その頃、前田さんが主に走ったのは名古屋と大阪の間ですね。
前田 名阪間の積合運送は昭和5年頃から始まったようで、私が自分の車で小西組運送の仕事をした昭和11年当時は100台ほどが稼働しており、毎日40~50台のトラックが上下していた。
 その時代の経済規模からするとかなりの輸送力で、その日に集荷した荷物が翌日の午前中には配達されるという形でした。
―― 現在の形に近いトラック輸送の形態が既に昭和10年前後には確立されていたということですね。
 当時のトラックの性能、道路事情からすると、名古屋―大阪間は集荷の翌日午前中に配達するのにピッタリの区間であったと思います。
 私は東海道、中山道をひとり歩きしたものですから、ご本にある昭和10年当時の状況を懐かしく読みました。今はバイパスができたり砂利道はなくなっていますが、前田さんが走っていた頃の東海道や中山道は江戸時代といくらも変わっていないようですね。
前田 カーブは多いし、行き違いのできないような狭い道だらけ、殆どが砂利道で、今と違って家も少なく、夜は暗かった。
 東海道は鈴鹿の難所があるし、中山道を使う方が多く、軽い荷物や、雪で中山道が走れない時に東海道を利用した程度です。
―― 箱根と鈴鹿を別にすると、東海道は大体平坦なんですが、歩いてみると、これはやはり大変な難所ですね。ここだけは大名も駕籠から降りて歩いたそうで。
前田 「馬がもの言う鈴鹿山」という位、きつい坂だった。
 不思議なことに、箱根、鈴鹿、宇津谷、金谷の峠は東からの坂がきつく、西への下りはなだらかです、どうしてだろう。
―― たしかにそうです。箱根も湯本から、女ころばし、猿すべりなどといった胸突き急坂があって、芦ノ湖から三島へのだらだら坂はいやになるほど長い。
 鈴鹿峠も今は新道に分断されてズタズタですが、歩くというよりよじ登るという感じで、てっぺんにある、盗賊が下から来る旅人を鏡のような岩に映して襲った伝説の鏡岩から、殆ど真下に坂下が見えます。それから先の土山までは馬子唄でも出そうな、ゆっくりした坂です。
 太平洋の方から押し上げてくる地圧がそういう地形を生んだんじゃないでしょうか。
 ご本にもあった鈴鹿峠の東の関の道は狭いですね。古い家が建て混んで、よく走り抜けられたものだと感心します。
前田 高い荷物を積んだトラックを後ろから見ると、電柱や軒瓦で左も右も20センチ位しか空いていない。ヒヤヒヤしながら通り抜けたものです。
 鈴鹿峠の麓の坂の下で冷たい水を入れてエンジンを冷やしてスタートするんだが、10分も走るとオーバーヒートを始める。
 東海道と中山道を比較すると、中山道は女性的、東海道は男性的と言えるようです。
―― そうですね。中山道には箱根や鈴鹿、越すに越されぬ大井川、といった大きな難所はありません。宮(名古屋)から桑名への七里の渡しや、今切の渡し(浜名湖)もある。というので、江戸時代の女性は中山道の方を好んだようです。東海道はダイナミックで、中山道は静か、という感じはします。
 この名阪トラック輸送の体験はトラック業の経営、業界のあり方など、前田さんの将来に大きな影響を与えたものだと思います。そのお話、再びの兵役、終戦までのことは次号でお伺いします。
(つづく)



プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学になる。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。みなさんさようなら   11月13日 】
 絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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