みなさん さようなら

2018.07.02 06:00|外部 寄稿者
1992年(H4) 月刊「NewTRUCK」 7月号

日本人はよくやっている

大谷 健 (元朝日新聞編集委員)

 長らくすごした日本のマスコミ界だが、今から反省してみると、一番の問題点は日本及び日本人に対する過小評価であった。
 それでも戦前は自国を神国と言ってみたり、大東亜共栄圏の指導者を自任してみたりしたが、これも英米先進国に対するインフェリオリティ・コンプレックス(劣等感)の裏返しの強がりに過ぎなかった。
 第二次大戦に敗北して、強がりの部分がはぎ取られ、劣等感がむきだしになった。これにイデオロギー面のコンプレックス、社会主義の優位性が加味されて、後進資本主義国日本のダメさ加減が強調された。

 新聞社を定年退職したのを機会に古い資料を整理しているが、昭和20年代はもとより、30年代でも、ダメな日本はどうにもならないといった論議ばかり。それでも実業家は何とか欧米の水準に追いつこうと大いに奮闘努力した。先進国の言うことはなんでももっともだとして、つつしんで教えを請い、愚直なほど忠実に教えを守った。

 一例をあげると品質管理(QC)はアメリカの発明である。アメリカ人のデミング博士がまだ占領中の日本にやってきて日本人に教えた。生徒の日本人は先生の言う通りやってみたら、工場の生産性は著しく向上した。今アメリカから日本にQCを勉強しにくる。後年デミング博士は「アメリカ人は私の言うことを聞いてくれなかった」と嘆いた。
 産業人の努力の結果、日本は世界史上、画期的な高度経済成長を成し遂げた。しかしあまり見事に重工業化したものだから、ひどい公害現象が各地で発生した。四日市、水俣病事件は裁判になった。日本経済の成功にひるんだ進歩的文化人やマスコミは「やっぱり日本はダメだ」と言った。そして「いたずらに利潤獲得に走り、国民の迷惑を無視する」と批判した。

 いま日本の公害防除技術は世界最高である。これも日本人が言い出したのではない。先進国の集まりであるOECD(経済協力開発機構)が1977年(S52)夏に「日本の経験――環境政策は成功したか」という報告書を出し、公害対策について「おおむね日本は成功した」という結論を出した。自動車の排気ガス規制のマスキー法の基準を先ず達成したのは、マスキー法をつくったアメリカでなく日本の自動車会社であった。

 いま盛んに地球温暖化防止のためのCO2(二酸化炭素)排出抑制が説かれている。日本は経済大国だからCO2排出量は世界の第5番目だが、国民一人当たり排出量はアメリカの40%、原発の盛んなフランスを除いてヨーロッパ各国より少ない。日本はエネルギーを最も能率良く使う世界の模範国である。
 ところがヨーロッパのマスコミや環境保護団体が、日本が世界一の木材輸入国であり、かわいい鯨をとり、イルカをいじめる世界一の環境破壊国だというと、日本のマスコミは日本の立場を辯解せず、先方に同調して自国攻撃にまわる。

 しかし今、地球環境問題で世界が日本に求めているのは、ジャパンマネーとともに日本の優秀な公害防除技術である。かつて日本の進歩的文化人があこがれた社会主義国が日本にもっとも期待するのもこの二つである。いたずらに自国をほめそやし、高慢になってもいけないが、自虐的に自国を悪く言い続けるのだけはやめにした方がいい。これは自省の辨である。


みなさん さようなら

浅草 ほうずき市

                7月9・10日は浅草のほうずき市 (本文と関係ありません)

2005年(H17)6月18日
過って改めないのは厚顔無恥の朝日新聞そのもの

 先週のこの欄で、東条首相を英雄として賛美したのも日本人であり、侵略戦争指導者として断罪しているのも日本人であると述べた。人物に対する評価が時代によって変わるのは珍しいことではないが、東条首相は現代史の中の人物で、筆者はその評価の激変ぶりを身をもって体験してきた世代に属する。

 中国では、同一人物に対する評価が時代によって変化する。文化革命の時には批孔運動で孔子が槍玉に挙げられた。ところが現在は論語を小学校の正課に取り入れるほどになっている。東条首相の評価も激変したが、戦後の占領下においての東京軍事裁判の裁決が最大の原因で、現在もその処断を金科玉条のように、朝日新聞などのマスコミ、野党、中国、韓国が振りかざして、首相の靖国参拝反対、A級戦犯の分祀問題を主張しているのである。 東京軍事裁判の決定を日本が受け入れたと言うが、敗戦国に選択の余地はなかった。
 戦中の朝日新聞はひたすら軍部に迎合して、国民の戦意高揚に大きな役割を果たした。戦後はもともとあった共産主義的体質を露骨に表して、親ソ連、親中国、親北朝鮮論の論調を展開して社会党の精神的支柱となった。

 中国が嵩に懸かって日本を攻撃したり、無礼な言動を繰り返すのは、朝日新聞など親中国のマスコミ論調こそ日本の世論であると中国共産党が信じているからに他ならない。朝日新聞がA級戦犯を侵略指導者として糾弾するなら、軍部の尻馬に乗って国民を戦意高揚に駆り立てた朝日新聞の責任もまた大きいと言わねばならない。

 朝日新聞の5月18日付け「孔子は嘆いていないか」と題する社説の最後は「過って改めざる、是を過つと謂う」の論語の言葉で結んでいる。朝日新聞は過ったことはなかったのか。戦時中は軍部に、戦後はかつてはソ連、現在は中国などの社会主義国家に阿諛迎合した論陣を張り続けてきたのは過ってはいなかったのか。文化大革命の暴挙を賛美したのも朝日であった。最近のNHKとの紛争も納得のいく説明はできていない。過ちを認めないで糊塗するのはマスコミの常套手段で、厚顔無恥とはまさにこのことであろう。 現代史の評価を変えたのは、大人に対してはマスコミ、青少年に対しては歴史教育である。戦後、墨で塗りつぶした教科書での教育が行われたが、墨で消された内容は全部間違っていたのか、その後に出た教科書がすべて正しいのか。東京軍事裁判の占領軍による一方的断罪に対しては、その判事団の一員だったインドのパール判事の東京裁判無効全員無罪の主張もあった。東京軍事裁判史観の評価が確定するのはかなりの時日を要する。

みなさん さようなら

2018.06.25 02:53|「周作閑話」
1982年(S57) 月刊「特装車とトレーラ」6月号
周作閑話

お母さんの涙


 職場から自宅へ直帰するのは一ヵ月に2度か3度、珍しくアルコール抜きで家に戻ってウイスキーをなめながらテレビをつけてみると、NHKの五つ子の記録の放映が始まった。
 今更説明するまでもなく、山下さんというご夫婦から五つ子が生まれて大きなセンセーションを巻き起こして、その子供達もこの4月には揃って小学校に入学した。山下さんはNHKに勤務しているという。NHKにとっても、山下さんにとってもきわめて恵まれた条件下にあって、NHKではその成長の過程を実に克明に記録してきたものを、1時間半足らずにまとめて、入学を機に一般公開したものと思われる。
……
 一般よりもはるかに体重の小さい未熟児であったため、哺育器の中で漸く生息させられている五つ子は本当にひ弱く、これで育ってゆくのかという危惧を持ったが、無事退院する。
 自宅に戻ってからも大変で、ご夫婦、おばあちゃん、ベビーシッターの人達の懸命の哺育が始まる。からだの発達も、言葉の理解も通常の子よりはるかに遅れている。
 五つ子の名付け親である京都の清水寺貫首大西良慶師とのご対面の場もあって、両者の年齢差は実に一世紀、これも感動的なシーンだった。

 歩けるようになり、行動範囲が拡がってくるにつれて個人差が出てくると、ボスらしき存在も出現するが、このボスも一時的なものである。
 幼稚園に入園したときが大変で、それまでは5人の群れのなかで生活してきた者が大勢のさらに大きな群れの中に放り込まれたものだから、すぐ5人に戻りたがる。園側でも配慮して、慣れるに従って男児2人、女児3人を先ず男女別のチームに分けたり、友達の家へ少人数で遊びに行かせるなど、だんだん外界の子供との接触の機会を多くしてゆく。
 入園の頃の運動会ではビリでよたよた走っていた子も、3年の園児生活の終わるころには他の子に伍して走るまでになっている。

 身長や体重でこそ、一般の子供の標準レベルにまだ達しないが、体育機能では劣るところがないし、知能レベルではむしろ勝るところがあるというところまで成長して卒園式を迎えた。
 その卒園式でお母さんが流していた涙は本当に美しかった。天下のNHKであり、日本の医学界の名誉にかけてもこの五つ子は健全に育てなければならぬ、ということで万全の体制が取られていたとは充分に考えられることだが、それだけでは心身共に健全な子に育てることはできない。お母さんが手記にも書いていたように、その苦労は並大抵ではなかった、と察せられる。大きなハンディを持って生まれてきた5人の子供達が誇らしげに壇に上がって、1人1人園長さんから免状を貰うシーンには、全くの門外漢である私も目頭を熱くしたものだから、ましてお母さんとしては万感迫るものがあったに違いない。

 小学校入学のための面接の予行演習をするシーンは面白かった。1人1人、部屋に呼び入れて名前を聞いたりする。それぞれの子供の個性が出ていて、机の下に潜ってふざけるのもいる。別室で騒いでいる子供達に「外野、やかましい」とか言って叱るのだが、こういう叱り方はやはり現代のママさんである。
 自分のことは自分でさせるという習慣、食事で出されたものは残さない、必要に迫られたせいでもあろうが、実にいい躾をつけていると思う。全員揃って廊下の雑巾がけをしているシーンがあって、そのうち親の手助けで集団の威力を発揮することになるのだろう。
 少年期から思春期へと、幼児期とはまた異なった苦労もあるかと思うが、このご両親と子供達なら、きっとその難関を乗り越えて、立派にやっていけると思う。

 この五つ子がきっかけとなったわけでもないだろうが、わが国の未熟児の哺育レベルの最近の進歩には目覚ましいものがあると聞く。この世に生を享けた者に、一人でも多くその生を尽くさせることは単に医学的な問題でなく、生命の尊厳という点からも歓迎すべきであろう。

 私は未熟児ではなかったが虚弱児の代表のようなもので、とてもまともには育つまいと言われたし、本当に健康に自信が持てるようになったのは40代に入ってからである。
 この3月にはやっと女房に月給らしきものをまとめて渡した。経営する出版社が昨年9月の決算期で累積赤字を解消、黒字に転じ、銀行の勧めもあって国民金融公庫から借り入れて、漸く手元資金に多少のゆとりができたからである。税務署の査察も何事もなく終了して、社会生活で未熟児、未熟人だった私も、どうやら一人前になった。

 未熟であるからこそ、発育の可能性は大きい。成熟してしまえば、発展は止まってしまう。老子の言葉であったが、嬰児のようにありたい、というのがある。
 落ちこぼれ、というイヤな言葉もある。何を基準として、落ちこぼれ、というのであろうか。或る時点に限って、一定の基準に達していないからといって、これを落ちこぼれであるとキメつけてしまうことは許されないのではないか。

 人生はすべて未熟から成熟への道程であろう。熟年という言葉もあり、私もこれに相当する年齢には到達しているのに、とてもとても成熟には程遠い。事業人、経済人としてはやっとスタート地点に立ったばかりだと考えている。
 人生五十、まさに未熟人で過ごしてきたが、未熟であったからこそ、まだまだ可能性も楽しみもあるというものだ。三女もこの春、就職して、子育ては一応の終了を見た。未熟ぶりを発揮しながら、将来に夢を託して、これからも頑張るつもりである。


みなさん さようなら

2018.06.21 06:00|その他月刊誌記事
走れ歌謡曲 1人じゃないんだ日野ファミリー
真夜中のラジオガール達の本ができました

下写真左: スタート時のフルメンバー
前列右から 成田あつ子、兼田みえ子、西条ゆり子、後列右から 夏 杏子、美川玲子、長野悦子 の皆さん
          (右端円内は 山沢じゅんさん)

走れ歌謡曲

1982年(S57) 月刊 「特装車とトレーラ」6月号

あちら 15年目に入った日野提供早朝ラジオ番組

 日野自動車が提供する早朝のラジオ番組“走れ歌謡曲”の女性パーソナリティの楽しいおしゃべりなどをまとめた一冊の本が出来た。その名もズバリ“真夜中のラジオガールたち「走れ歌謡曲」”。

 火曜日から日曜日の早朝3時から5時まで文化放送をキイ局に、地方放送局を結んだこの番組がスタートしたのは昭和43年11月、もう15年近くになる長寿番組である。
 何しろ、3時から5時といえば、深夜と早朝の狭間(はざま)の時間帯、現代の丑三つ時に人気番組を誕生させた日野自販やラジオ局の担当者の先見の明には感服の他ないが、この番組を生んだ最大の原動力はやはりモータリゼーションの急速な展開であろう。

 実はこの私、“走れ歌謡曲”の隠れファンで、聴取歴は10年を超える。わが社のトップスポンサー日野自販に義理立てして聞いているのでもなく、特にお目当てのパーソナリティがあって熱を上げているわけでもない。長距離ドライバーと同じく、生活上の必要があって断続的ではあるが聞いているのである。

 この雑誌の経営を引き受けた昭和44年から2年間、カネはない、家はない、事務所はない、時間はない、社員はいない、のないない尽くしだった。市販の原稿用紙と鉛筆と若干の資料を持って安宿を転々としながら早朝に記事を書き、昼は地理もろくすっぽわからぬ大東京をさまよい歩いて広告を貰ったり、購読を勧誘したりの生活が続いた。頑張りの甲斐あって、どうやら本の方もメドがついて家族を大阪から呼んで都内のあばら屋に落ち着いたのが、昭和46年11月だった。

 ここで早朝作業の伴侶ができた。ラジオである。ソニーCF1110、カセット付きの一番安物のラジオだが、このラジオから飛び込んできたのが“走れ歌謡曲”だった。
 今もそうだが、何かまとまった仕事をする時には2時から2時半に起きる。当時はたった1人で何もかもやらねばならなかったから、1ヵ月のうち、10日間ぐらいは早起きして、仕事をしながら聞いた。

 玲子ママ、たか子姫、ゆりっぺ、みえ子さん、当時のパーソナリティが懐かしい。このうち、ゆりっぺこと西条ゆり子さんの担当日である昭和47年7月1日の“走れ歌謡曲”を中心にこの番組の記事を掲載したのが本誌47年7月号。この本を持って文化放送にゆり子さんを訪ねたのだが、女性に向かうと喋れなくなる私のことで、殆ど何も話さず帰ったことを記憶している。

 あれから10年経った。“走れ歌謡曲”はすっかり定着したが、パーソナリティのメンバーは全て入れ替わって若い世代に引き継がれている。
 私の周辺も大きく変わった。銀行が無理矢理カネを置いてゆくし、家も事務所も社員も揃い、東京の地理にもすっかり慣れて、長く住んだ大阪に出張すると迷う位である。
 メインの記事は社員が書くので、「今月は残りこれだけですからお願いします」という具合で、いわばお余りのページにこういう雑文を書く形となった。

 早起きの習慣は相変わらずなので、時間はたっぷりあるのだが、そのうち生活のための原稿書きの時間はごく一部になっている。朝の時間は読書、英会話、書道に振り分けて使っているのだが、どれもこれも“走れ歌謡曲”を聞きながら、できるシロモノではない。従って、この番組を聞く回数は少なくなったものの、原稿書きやその整理の仕事が皆無になったわけでもない。毎月締切前の何日かは必ず聴きながら仕事をする。

 “ふたり酒”を引っ提げて紅白にも出場した川中美幸さんもこの番組のレギュラーパーソナリティで、応募してきた“ふたり酒”の替え歌を番組の中で歌っていたが、歌手生活との両立は難しくなったとみえて、この3月末で降りた。そのお別れの放送も聞いている。

 いま、この原稿を書きながら聞いているのは山沢じゅんさんの担当である。(4月30日)この山沢さんで驚いたのは、先程の彼女たちの書いたものをまとめた本の中で、各パーソナリティの趣味や好きな言葉、好きなタレント、愛読書などを紹介する欄があって、そのうちの好きな言葉がピッタリ私のそれと一致したことである。

 少ニシテ学ベバ壮ニシテ為スアリ
 壮ニシテ学ベバ老イテ衰エズ
 老イテ学ベバ死シテ朽チズ

 この佐藤一斎の言葉は好きな言葉というより、私の終生の指針としているもので、本誌にも紹介したことがある。この言葉が、サンフランシスコの放送局に勤めたこともあるというこの行動的な娘さんの好きな言葉であるとは。一体彼女の周辺で誰がこの言葉を教えたのか、あるいは彼女自身見つけ出したのか、非常に興味のあるところで、一度聞いてみたいと思っている。

 好きな言葉が一致したものだから山沢さんにスペースを取られてしまったが、勿論他のパーソナリティの担当も聞いている。聞いてはいるのだが、聞く時間が少なくなったこと、彼女達の入れ替わりが多くて、なかなか名前と声が一致するところまでゆかぬ。
 その点、玲子ママ、ゆりっぺ、みえ子さんは番組スタート時から昭和53年の引退までまるまる10年間、なかでも玲子ママ、ゆりっぺは水曜・土曜を受け持って、文字通り10年選手として通した。私の耳には彼女達の語り口がまだ残っている。

 何しろ年頃の娘さんの職場であり、10年選手が揃っていたということ自体が珍しい現象であったかも知れない。しかし、番組をリードする迫力のあるキャリアパーソナリティが1人あるいは2人は必要であると思う。ドライバーが甘えられるような、お姉さん的存在、あるいは姉御といった方がいいかも知れぬが、そういう貫禄のあるパーソナリティが育ってほしい、と考えるのは身勝手だろうか。

 間もなく満15年を迎えるこの長寿番組、制作スタッフも聴取者も変わるのは当然である。ごく初期のパーソナリティ成田あつ子さんのように若く逝ってしまった人もあるし、落合恵子さんや川中美幸さんのように文筆や歌謡曲の世界で脚光を浴びている人もある。
 誰かの言葉を借りれば“走れ歌謡曲は不滅です”。番組のある限り、私もおつき合いをしたいと思っている。


みなさん さようなら

2018.06.18 06:00|その他月刊誌記事
1982年(S57) 月刊 「特装車とトレーラ」6月号

こちら いすゞ、日軽etc.提供のテレビ番組スタート


トラック人情物語 “女(め)かじき特急便”
“なっちゃん”トラックドライバーで大奮戦

 女だてらのトラック運転手、しかもイキの良さが身上の焼津魚市場が舞台、彼女は亡兄の子を養っているが、好きな男もいる。その男の遠洋への出漁の日、彼女は岡山からの帰り、便乗のおばあさんを乗せたりしたものだから、出航の時間に遅れた。沖合はるかに出て行ってしまった船を波止場で見送る―――。

 4月28日から日本テレビ系で始まった“女(め)かじき特急便”第1話“恋の追っかけッ娘(こ)”のラストシーン。彼女を演じるのは、星野知子、NHK朝のドラマ“なっちゃんの写真館”でお馴染み、最近は「ワインな関係」というポスターや広告にもぐっと若やいだ坂田栄男囲碁9段などと登場している長身で目の大きな女優さんである。どちらかといえば明るいお嬢さんタイプと考えられているので、トラック運転手という男っぽい役を演じるのはどうか、と懸念していたが、第1話を見た限りはまずまずの出来であった。

 もともと、魚市場に出入りするトラック運転手という設定そのものに大きな意外性、珍しさがあるので、ストーリーそのものに現実性を求めることはかなり難しい。その非現実性をどう克服して、ドラマとして定着させてゆくか、製作スタッフの苦心するところであろう。

 番組のスポンサーは、いすゞ自動車、日本軽金属ほか。当然使用トラックはフルハーフボデーを架装したいすゞ車で、4トン車になっているのは主演者が大型免許を持っていないおいう理由からと思われる。従って、物語の展開もトラックの迫力を画面にぶっつけるというより、なっちゃん、いや“オッコ(主人公名)”と彼女を取り巻く人達の人情話に重点が置かれるかと思う。

 しかし、この原作は劇画というから、“オッコ”の運転技術も急速に上達して、大型トレーラを引き回せるようになり、大暴れするシーンも見せて貰いたいものだ。美女が牽引する大型トレーラ、これもまたいいではないですか。
 ともあれ、近来の大型女優と言われる星野知子が従来の清純イメージをかなぐり捨てて挑戦する“女かじき特急便”に期待しよう。女かじきは正式には眼カジキ、オスメスには関係なく眼が大きいカジキで、体長3m以上に達するものもある。

 なお、本誌では焼津でロケ中のこのドラマを密着取材して読者にお届けするつもりであるが、取材出張の希望者が多く、目下その人選に難航している。(何しろ、美味い漁と酒つき、一番行きたいのは社長ではないか、との声もある。)


プロフィール

増田周作

Author:増田周作
(株)日新出版 創業者
月刊「特装車」「特装車とトレーラ」「NewTRUCK」編集発行人
「東京トラックショー」創立・主催者

大正15年8月30日生まれ 土佐出身
(H23年すい臓ガン、翌年肝臓ガン発病)
平成24年11月21日 肝不全で死去
       享年87歳

旧制中学1年1学期、上級生とのケンカで先方2名と共に退学処分。
15歳で安岡正篤先生門下に入る。
大阪商科大学(現・大阪市立大学経済学部)卒業。土木従事、新聞社を脱サラ後、広告代理店経営。昭和44年43歳、東京でトラックの月刊誌発行を始める。
湯島聖堂「斯文会」名誉会員・後援会常任委員を務める。
「呉越会」「東京トラックショー」「増田周作のおはようコラム」「日新論語会」など、常に社会の木鐸(ぼくたく)でありたいと願った“いごっそう”であった。
伊与田覚学監は10歳年上の叔父。

【 これがほんとうのあとがき。43年のもの書きの、最後の後書になった。われながらよく書き続けたものだと思う。
「生涯現役」。もの書きとして生涯現役を貫いた喜び、これに勝るものはない。読者の皆様に最後の「わだち」をお送りしてお別れをしたい。今、私は至福の感をもって最後のわだちを書いている。
 みなさん さようなら  11月13日 】
絶筆 H24年/12月号
「わだち=月刊 NewTRUCK 編集後記」

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